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幽霊船 ⑤

 ――翌朝、クルネイユが体調を崩していた。



「昨日の牡蠣に中ったんでしょうか」

「でもウチは平気なんです。明け方くらいからクルちゃんが苦しみ出して……アリエス先生、どうにか出来ないですか?」

「せんせぇは外科医なのです。貝毒についてはちょっと……でも、貝に中るのは個人差があるとは聞き及んでます。ちょっと診て見ます」


 症状が重篤な場合は、付近の港で下して貰わないと。

 アリエス医師はそう言うのだが、この無人の船には船医は元より、体調不良を訴えるべき乗務員すら居ない。次に下痢症状はあるか、とアリエス医師は訊ねた。


「うぅ……お腹痛い……気がするです、けど」

「クルちゃんはこう言ってるんですけど、吐き気もあるって言ってるんですけど……そのその、なんていうか」

「出るべきものが出ない?」


 言い淀んだタミアに代わり、アトラファが言い辛いことを言ってのけた。

 あからさまに表現するなら、今クルネイユはお腹を壊しているのに、排せつや嘔吐が出来ない状態にあるということ。

 通常時であれば、相当に危険な健康被害に陥っていると判断すべきだが……。


 昨日の牡蠣(かき)をはじめとした食事は幻覚だ。

 実際は食べてないのだから、クルネイユが今感じている苦しみも幻覚ということになる。お腹が痛くて気分が悪い夢を見させられてるだけ。


 ――とはいえ、何故このタイミングで?



     ◇◆◇



 一〇一号室に戻り、再びアトラファと作戦会議を開く。

 タミアとアリエス医師は、クルネイユの看病のために一〇二号室に置いて来た。


「せんせぇがいるせいで、何もかも分からない」


 そう、アトラファは言う。

 魔物によって幻惑に嵌められたと思える時間は二点。

 コーリーに起こされて乗船券の空きが取れたと告げられ、慌てて皆で走って第二埠頭へと向かった時。

 プティウルス号に乗り込み「何か誰も居ないな」と気付いた時。

 その中間で、幻にしてはやたら生きてる人間くさい医師、アリエスに出会ってしまったせいで、現と幻の境目が良く分からなくなってしまった、と。


 だからアトラファは、アリエス医師をいま一つ信頼してないし、現実か幻惑か曖昧な存在だと認識してるから、昨日なんて殴って状況に変化があるか試そうとしたのだ。

 コーリーは、そんな彼女に聞いてみる。


「……アトラファ、焦ってる?」

「けっこう焦ってる。もう乗船して二日目。それは魔物の能力に曝されて二日が経ってるっていうこと」


 ……アトラファは、自分の生命が危機に陥った時には焦ったりしない。

 今、焦ってるのはコーリーや、コーリーの二人の後輩たちが魔物の脅威に脅かされているから。だから信じられる。

 信じられるし、アトラファの相棒を自認するコーリーも冷静になれる。

 ちょっと飛躍した意見を言いがちな相棒に対して、建設的な意見を述べられる。


「もうちょっと整理しよう、アトラファ。……乗船した時点で、すでに魔物の能力の影響を受けてるよね? たぶん」

「ん。『船内に誰も居ない』を確認した時点では、すでに幻覚の中」


「もうちょっと遡って、アリエス先生と会った時点では?」

「そこからもう分からない」

「もっと遡るよ。プティウルス号に一等客室の空きがあって……」

「プティウルス号が実在する船なのかって、言いたいの?」


 アトラファはそこまで口にして、表情を消した。

 思考の中に沈んで行くように。

 たぶん、コーリーには想像も付かないような情報の洪水が、彼女の頭の中では起こっていて――、


「船籍……たぶん有る。でなければギルドで乗船券を確認して貰えない……魔物に乗っ取られた? ……違う。ギルドには空きがある旨の報告が為されていた……どうやって? 報告は正規にされてて、その後で成りすました」


 ――擬態してたのか。実在する船に。

 アトラファはそう呟いた。


「? それってどういう――、」


 コーリーが問い正そうとした瞬間、船が大きく揺れた。

 客室に備わっている丸窓に、外の風景が見える。

 ずっと見渡す限りの水平線だったのに、今回ばかりは湖面からそそり立つ岩山と――それに縋りつく、けっこう大きな動物の群れ――あの動物、何。


「知らない……でも、アザラシっていう動物はあれかも」

「とにかく皆と合流! 変なこと起きたから、一〇二号室に行こう!」



     ◇◆◇



 一〇二号室へ行くと、タミアが窓に齧りついていた。アザラシを観察しているのか。

 クルネイユは先程よりは少し体調が良さそう……とはいえ、顔色は真っ青。

 アリエス医師は――「哺乳瓶とか持って来れば良かったですね」などとのたまい、クルネイユを引かせていた。

 タミアがクルネイユに話し掛ける。


「クルちゃん、アザラシがいるよっ! ハーナルに帰って来たんだね!」

「んーぅ……アザラシが……なんかごちゃごちゃ居るです」


 クルネイユは寝台から身体を起こし、丸窓の外を覗きこんだ。

 コーリーとアトラファも顔を見合わせ、すかさず顔をもぐり込ませる。

 出遅れたアリエス医師も「なんか皆してズルいですっ」と割り込んでくる。


 五人で窓に顔を押し込んでみた光景は――、


 何か大きめのヒレの付いた動物が、我先にと湖上の岩へと殺到していく様子だった。

 あぶれた子が、水面でウロウロしている。


「ほらほら、コーリー先輩、アザラシがいます!」

「へぇ、あれがアザラシ……美味しくないんだっけ。想像してたより大きかった」

「あれを食べるのは熊くらいですからね、沿岸に寄ったのを」

「ハーナルの熊はあれを狩るんだ」


 コーリーは状況もわきまえず、アザラシに見入ってしまっていた。

 一方、動揺に丸窓に齧りついていたはずのアトラファは、表情を険しくしていた。

 体調の悪いクルネイユは――、


「……あれ、なんです? 岩の周囲を回ってるでかいやつ」

「え? どれ?」


 皆が丸窓に顔を押し付けて、外の様子を窺うと。

 確かに岩の周囲を旋回するように泳ぐ何かが、水面の下にいた。

 アザラシの一個体より、優に倍以上は大きい。そんな何かが泳いでいた。

 それを恐れて、アザラシたちは岩の上に避難したかのようにも見える。

 コーリーは、クルネイユが指摘した水中の大きな影が気になった。


「あれ何……親アザラシ?」

「いえ……ウチは知りませんけど、あれアザラシたちをもしかして、」


 タミアが何かを言おうとした瞬間、逃げ遅れて岩に登り損ねたアザラシの一頭が、水の中に引きずり込まれた。

 そのアザラシは浮上することはなく、数秒後にじわりと水面が赤く染まった。

 襲われて食べられた。全員が直感的にそう思った。


「うえぇっぇっ! 捕食される瞬間を見ちまったですっ!」

「いやでも、ウチはアザラシを狩る動物がダナン湖に棲んでるなんて」


 知らない。タミアは困惑する。

 沿岸で休息しているアザラシを熊が狩ることはあるらしいが、水棲の生き物がアザラシを狩ることなど皆無であるらしい。


 ズン、という衝激が響き、コーリーたちは各々で掴める何かに縋った。

 外部から衝撃を受けているという感覚。

 助けが来たと楽天的には思えなかった。

 何か、もっと良くない事態に発展している。



     ◇◆◇



 ――バン!


 急に、誰も触れていないのに、一〇二号室の扉が開いた。

 ぎょっとして全員がそちらを見た。

 視界の外ではあるが、次々に客室のドアが開かれて行く。バン、バン、バン-――これまで、どうやっても開かなかったのに。


 全室が空いた。なぜか分からないけど。

 アトラファに目配せする……今度は通じた。


「アトラファ……今なら」

「甲板に向かう。出られる気がする」


 アトアファは、さっと全員の様子を見た。

 タミアはまごついてるが大丈夫そう。アリエス医師は特に異常なし。

 体調を崩しているクルネイユはというと――。


「……動けそう? 走ったりできそう?」

「無理です……なんかアザラシのあれ見たら、前にも増して気分が悪りーです」

「ん、分かった。留守番してて」


 今、動ける全員で甲板に行く。アトラファが告げる。

 アリエス医師は思惑を掴みかねたのか眉をひそめ、タミアは反対した。


「ウチはクルちゃんと残ります。心配だし」

「だめ。出来たらクルネイユも連れて行きたいけど、タミアは一緒に来て」

「なんで! 嫌です! ウチはクルちゃんを守――!」


 タミアが言いかけた時、衝撃が船を襲った。

 アザラシを襲っていた奴が、こちらに標的を移したのだと思った。何故に……アザラシの群れの方が食いでが有りそうなのに、何でこっちに敵意を移してきた。

 せっかく獲物であるコーリーたちを、幻惑の中に嵌めてたのに。


「……おかしいよね? 何で外側から襲撃してくるの」

「とりあえず当面の敵を倒す、今になって全室の扉が開いて『外に出られます』ってなってる。それが何故かを考えなければならない」


 アトアファは部屋を出て歩き出す。左腕を動かすことが出来ないのに、戦うつもりでいるのだ。コーリーはその背中を追う。

 後ろから、タミアとアリエス医師が付いてくる。


「ね、クルネイユが心配だし……タミアを残したら駄目なの?」

「だめ。何となく魔物の能力が分かってきた……幻惑にしては効果が雑。何かを参照して幻覚を作り出している。参照しているのは誰かの記憶。その候補は三人」


 タミアとクルネイユ、それにアリエス医師。

 この三人の内、誰かの記憶を覗いて、魔物は幻覚を作っている。

 その内の一人、アリエス医師は「幻なのか実在なのか分からない」という存在。

 最低でもアリエス医師、それに残り二人のどちらかを連れて外に出れば、消去法で誰が幻惑の核になっているのか分かる――アトラファはそう言った。

 コーリーには分からなかった。


「……どういうこと?」

「この船を襲っている魔物を撃退してから話す。たぶん、今なら甲板から外に出られると思う。タミアとせんせぇは一緒に来て」


 再び、船を大きな振動が襲った。

 何故、外から攻撃してくる? ……コーリーは悟った。

 魔物は二体いる。初めから幻覚を見せて船の中に閉じ込めている奴。そして今外部から攻撃してる奴。

 魔物同士は仲良しではないので、この場合……獲物であるコーリーたちを取り合っている争いが起きているということか。


「クルネイユは!」

「見捨てない。外からぶつかって来てる奴を倒す。そっちを先に対処しないと沈むかもだし。この……幻惑する魔物は内側からは出れないけど、外側からは壊せるんだ」


 アトラファは、いきいきとしていた。

 魔物を倒す喜びに、震えているようにも見えた。彼女は何時だってそうだった。冒険者でなくなっても。


 後部甲板を目指す――タミアとアリエス医師は、ついて来てくれてる。

 特にタミアは、クルネイユの事を気にしていたけれども。


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