幽霊船 ④
アトラファは「ふむ」と右手の人差し指を唇に押し当て、考え始めた。
むにむにと下唇をいじっていたアトラファは、不意に顔を上げて言う。
「……とりあえず幻惑する魔物だと当たりをつけて、何を参照してわたしたちに幻覚を見せているのかを検証していく」
「参照……? 人狼が犠牲者の記憶を覗いていたみたいに?」
「そう。魔物が人間の作る料理を再現できるわけが無いから、何かを参照して手本にしているの……でなければ美味しいはずない」
とアトラファは言うのだが、コーリーには「今、自分は魔物が作り出した幻覚に囚われている」という感覚が乏しい。だからこそ幻惑されている状態ともいえるのだが。
確かに生牡蠣はコーリーの口に合わなかったが、他の火を通した海の幸の料理は美味しく食べれた。アトラファの言うことには「新鮮な海の幸が食卓に並ぶこと自体がおかしい」そうなのだが……新鮮な状態で輸送する手段が無いから。
コーリーは壁に背を預け、ぽりぽりと頬を掻きながらぼやく。
「うーん。全体的に美味しかったけど……生の牡蠣は美味しいと思わなかった。食べ慣れない食感と風味で。加熱調理すれば美味しいのかも」
「――今、なんて?」
何かが引っ掛かったのか、アトラファが耳聡く聞き返してくる。
そういえば、アトラファは牡蠣を食べていないから、その味が分からないのだった。
コーリーはよし来たとばかりに、食べ方のレクチャーや自身の見解を騙り始める。自分自身さっき初めて食べたばかりなのに。
「あのね! たぶん海の味がするの! でも慣れてないせいか美味しいと思えなかったなぁ……。でもタミアが言ってたの! フライやシチューの具にしたりもするって。私それなら改めて牡蠣を食べてみたい――、」
「じゃなくて」
「……ふぇ?」
間の抜けた声を発してしまったコーリーに、アトアファは尋ねた。
「美味しくなかったんだ、コーリーには」と。肯定する――美味しくなかった。
また下唇をいじり、考え込むアトラファ。
今回遭遇した魔物は、まだ正体は分からないが、おそらく獲物を幻惑させて捕食するタイプの能力を持つ。
アトラファの意見に賛同するなら、魔物は「何か」を参照してコーリーたちに一等客室にしては狭い部屋、美味しいご馳走などの幻覚を見せている。
参照しているとするなら、過去の例に照らせば、犠牲となる獲物の記憶。
この無人の船に閉じ込められている五人の内、誰かの記憶。
だとすれば――、
「わたしじゃない。わたしは牡蠣を食べたことが無い」
「私でもないよっ! 今回初めてだったもん! でもあんまり口に合わなくて……」
となると「美味しい美味しい」と言って食べていた残り三人の内、誰か。
その彼女が、魔物の作り出す幻覚の源泉となっている。
当然、怪しいのは……。
「アリエス先生! 思い返せば船に乗る直前に現れたし。クルネイユが『部屋が狭い』って言った時に、こんなもんですよって言ったのもアリエス先生だった! それに……そう! 一〇二号室から不自然に寝具が撤去されて食事の用意がされてた時も、真っ先に食卓についたのはアリエス先生だった!」
そう考えると、もう彼女以外に怪しい人は有りえないのだった。
こうなったらもう、問答無用でアリエス医師を成敗……して良いものかどうか。
魔物の幻惑能力の核にされているとしたら、被害者だし。
……アトラファが思いがけないことを口にする。
「わたし、せんせぇが実在の人物かどうかって所から疑ってるんだけど」
「どういうこと?」
「わたしたち『プティウルス号』の客室の空きが出たからって、走ったでしょう。その先でせんせぇに出会った……あれって現実だったのかなって」
「私たちの身体は、まだ北港の宿で眠りっぱなしなのかもってこと?」
「せんせぇ……、アリエス医師が現実の人なのか分からない」
アリエス先生は実在するも者ではなく、幻の世界への誘い人――。
とすると、プティウルス号という船も実在しない……。
コーリーは背筋に怖気が走るのを感じた。
しかし、アトラファはまだ分からないと言った。
「魔物が作った幻影にしては、せんせぇは感情が豊か過ぎる。『人狼』の時と違って、こっちの言動に臨機応変に応えてくるのも納得がいかない」
「でも今回の魔物は、味覚を再現してきたじゃない。タミアかクルネイユの記憶の中にいる『アリエス先生』が再現されているんじゃ?」
「あの二人には、せんせぇと面識がある様子が無かった」
とりあえず問題点を言っとくと、とアトラファ。
自分たちが今しがた摂ったと思ってる食事もおそらく幻覚なので、水分や栄養補給を出来ていないこと。
アリエス医師の存在のせいで、いつ自分たちが魔物の幻惑に囚われているのか分からないこと。
あまり時間が無いかも知れないこと。魔物の能力に囚われたのがだいぶ前だったら、自分たちの身体はすでに衰弱しているのかも。
「アリエス先生の正体を探るの?」
「そんな時間は無い。誰が幻覚の核にせよ明日中にカタをつける」
「……今日は?」
「もう休む。水分だけは摂りたいけど、この状況じゃ幻覚を突破しない限り、本物の水を飲むことは出来なそう」
え、水も飲めないんだ……とコーリーは思った。
というよりこの状況――水を飲んだという感覚はあっても、それは幻だから現実の肉体には反映していないということか。
……楽観してたけどこの魔物の能力、想像以上に厄介かも。
◇◆◇
「――おねむの前に、せんせぇが触診して差し上げますねっ!」
「絶妙に気持ち悪い言葉を選んで発言するのやめて」
一〇一号室。
就寝するべく戻ってきたコーリーたちを待ち構えていたのは、アリエス医師だ。
部屋に備え付けの洗面器に湯が張られていたが、アトラファはそれを使わなかった。どうせ幻だからお風呂に入ったことにはならない、無駄……とでも考えているのだろう。
そこに素早く擦り寄って来たのが、アリエス医師。
アトラファは気乗りしていない様子ながら、背中をはだけてアリエス医師に見せた。コーリーも寝台に腰掛けて見ていた。
肩から背中に貫通する傷と聞いていた。
その傷口を目にしたわけではないが「このまま死ぬかも知れん」と、最初に治療に当たった街のお医者さんからは言われた。
でもこうして見ると、けっこう治癒して来てる……?
完治とは言えないまでも、すでに傷口は塞がり、薄皮が張っているように見受けられる。回復は喜ばしいことではあるが。
灼熱の炎剣。あれはそんな生易しい術であったのだろうか。
アリエス医師も同じような疑問を持ったようで、執拗に問診をする。
「もしかして左腕、動きます?」
「動かない」
「嘘吐いてないですか? 本当は動かせるのでは」
たまりかねて、コーリーは口を挟む。
確かに、アルネットや町医者から聞いた話と比較すると、想像していたより凄惨な傷痕ではなかったが、嘘吐き呼ばわりは酷い。
「アリエス先生、そんな言い方……!」
「いえ、思ってたより順調に回復してるようなので……そうですね、精神的な思い込みで動かせなくなっているという事も考えられますね。いじわるな詰問をしてしまいました。せんせぇは……ワタクシは謝ります。ごめんなさいアトラファさん」
アリエス医師は謝罪した。でも――、と付け加える。
「せんせぇの経験から言って、患者さんって嘘を吐くものなんですよ」
この人、幻じゃなく生きてる人間っぽいな、という感想をコーリーは抱いた。
冒険者の頃に培った巧みな目配せで、アトラファに「様子見しよう」と伝える。
アトラファはこちらの意図を察したのか、一瞬はっとした顔つきになる。
そして「よし」と、何が良しなんだか分からない呟きと共に、アリエス医師を試しに殴ろうとするのを、コーリーは直前に阻止した。
ちっとも伝わってなかった。培ってきた絆とは……。
腰を浮き上がらせかけたアトラファの両肩に手を置き、穏便に座らせることに成功する。アリエス医師が怪しいのは確かだが、もし実在の人だったら……幻の船内とはいえ危害を加えた場合、現実にどのような影響が出るのかも分からない。




