幽霊船 ②
――船が大きく傾いだ。
コーリーとタミアは、たまらずに各々が腰掛けている寝台に両手をついて転倒を防いだ。
何かあった? ぶつかったような衝撃は感じなかったが。
……それより、船が平衡を保つための揺り返しがきつい。何度かグラグラと揺れ、収まる頃にはコーリーは少し気分が悪くなっていた。
一方、タミアはけろりとした様子で「ふわぁ、揺れましたね」と周囲を見回している。
タミアは丈夫だな、とコーリーは思った。
「ちょっと様子見てくる。……騒ぎが起こってないのも気になるし、アトラファたちのことも心配だし」
「あ、だったらウチも行きます」
「んっ、うん」
タミアが同行したいと言ってきたのには否を唱えられなかった。
正直、タミアには各室の残って、アトラファたちの帰還を待って貰いたかった。
でも一人にするのも危ないし、勝手に指示を無視して出歩かれても困るし……。
年下の友人としてのタミアを信頼していないのではない。
でも、冒険者としての自分が、彼女を足手まといだと言っている。
コーリーと出会った頃のアトラファも、こんな感覚だったのだろうか……。
◆◇◆
タミアと共に客室を出た。
このプティウルス号という船の中に、コーリーたち以外の乗客や、ましてや船員が一人も見当たらないのは変だと思っていた。
この感覚には覚えがある……。
またしても、またしても何かの魔物の能力に引っ掛けられてるのでは……?
せっかくの夏季旅行なのに。
がくりと肩を落としそうになるコーリーだったが、心を奮い立たせて背筋を伸ばす。
後輩たちとアトラファと、ついでにアリエス先生は、自分が守らなくては。
もし魔物との戦闘になったら……左腕を動かせないアトラファには頼れない。コーリー自身が矢面に立たなければ。けれど事前に知恵を貸して貰うことくらいは出来るはず。今回の魔物の能力がどんなだとか……。
そのためにも早く情報共有したい。アトラファと合流したい。
やきもきし始めた、その時――、
「――タミア! 客室にいたんじゃねーです?」
元気そうなクルネイユの声が耳に届いた。
声のした方を見やると、クルネイユを先頭にした三人が狭い廊下を歩いて来るところだった。大きな揺れがあったことは三人も把握していた。
コーリーはアトラファに駆け寄り、耳打ちする。
「揺れの原因はともかく、船内に人影が無いのって、これってまもっ……!」
「分かってる。後で話す。今はダメ」
聞かれてるかも知れないから。
コーリーの口を押さえたアトラファが、目線で示すのは……。
アリエス医師のほう。
そしてまたアリエス医師もこちらをじっと見つめていた。観察しているように。目を逸らしたくなったが、幸いにも向こうが先に、別に視線を移した。
◆◇◆
全員との合流を果たし、安心を得たコーリーだったが……。
安心して緊張が緩んだのか「ぐぅ」とお腹を鳴らしてしまう。
「うっ……私です」
考えたら、このプティウルス号に乗って以降、食事を採っていない。
心優しい後輩のタミアが、フォローを入れてくれる。
「ウチもお腹ぺこぺこです! ウチらの乗船券には食事が付くんでしたよね? 楽しみですね!」
「でも、それどころじゃない事態が今……」
「っていうか、どこで食事すればいーですか? あたしら以外誰も居ないし、他の客室や乗務員室に入れないし、甲板にも出られねーです」
わやわやと言い合いながら、一行が宿泊している客室に帰り着く。
タミアが一〇二号室のドアを開けた時、皆は息を呑んだ。
部屋の様子が一変していた。少し留守にしていた間に。
寝台が撤去され、部屋の真ん中にテーブルが設置されている。椅子も五人分。
「……うーん」
コーリーは呻いて、さりげなくアトラファに目配せした。
この状況はおかしい。船内に人の気配が無いのに。タミアとこの部屋を後にしてから、少ししか時間が経ってないのに。
しかし、アトラファは視線に気が付かなかった。この子は事前に打ち合わせしているのならともかく、こんな時の咄嗟の合図にはひどく鈍感なのだった。
他の三人の様子もおかしい。
「わぁ、美味しそう!」
「さっそくご馳走になるです」
「あっ、牡蠣ですねっ、せんせぇ大好物なんですっ」
疑問を抱いた様子もなく、各々が椅子を引いて食卓に着いてしまう。
戸惑うコーリーだったが、アトラファが続いて着席したので続いて席に着く。
料理は魚介が中心だった。
王都では見たことがない赤くて目の大きい魚――たぶん海の魚。それを野菜と一緒に煮たらしいスープ。黒緑色でグニャグニャした何か――いやこれは知ってる、ワカメだ。ワカメをふんだんに使ったサラダに……。
テーブルの中央に据えられた大きなボウルに塩と氷が満たされ、更に手の平くらいある平たい石が、ざくざくと突き刺さっていた。レモンとオリーブ油、ナイフも添えてある。
コーリーは思わず訊ねた。
「……これ何?」
「牡蠣ですよっ! 貝です貝っ」
貝……コーリーにとって貝という食材は、渦巻き状になってるやつか、小さなイチョウの葉を一対閉じ合せてるような形のやつで、こんなに大きくて岩みたいな見た目のは見たことがなかった。
さりげなくアトラファを見やると、彼女もまじまじと牡蠣を見つめていた。表情が無いが、これは見慣れないか、初見の物を見てる時の顔だ……たぶん。
アリエスが牡蠣を一つ手に取る。
「アトラファさんの分は、せんせぇがやったげますからねっ。こじ開けるんじゃなくて、こぉやってナイフで貝柱を断ち切るんです……ほら開いたっ! せんせぇ開けるの得意なんです。何せ外科医のはしくれですから……」
ぱかっと口を開けた牡蠣を、「むふー」と得意げに見せつけるアリエス。
同時に何か危ないことを口走っていた気もするが。
コーリーは、開けるのにコツが要るんだな、と感心しつつ殻の内側の光沢に心惹かれた。虹のように煌めいて宝石のよう。
その台座の上に、むっちりした貝の身が乗っている。
アリエスはレモンの果汁を絞り、オリーブ油を垂らしてから、アトラファに差し出した。左腕を使えないアトラファには、牡蠣を剥くことが出来ないので。
「………………」
アトラファは少し沈黙して、差し出された牡蠣を見つめていた。
差し出しているアリエスはニコニコしている。
アトラファは、クルネイユとタミア、そしてコーリーを順繰りに見た。最後にアリエスへと視線を戻し、言った。
「せんせぇが先に食べて。大好物なんでしょ」
「まあっ!」
アリエスが感嘆の声を漏らす。
本当に牡蠣が大好物なのか、アトラファにそう言って貰えたことが嬉しかったのか。
ともかく、コーリーには貝類を生で食べるというのが驚きであったし、後輩のタミアとクルネイユも平気で生牡蠣にレモンとオリーブ油を振り、ちゅるんと食べいるのが衝撃だった。
思い返せば、二人と同郷のパンテロに「ベーンブル人とは飯の話ができねえ」と言われたことがあり、コーリーの故郷ベーンブル州の南方では、生の魚肉を食べる文化があることに驚かれたこともある。
しかし、生の貝も似たようなものでは……おそるおそる聞いてみる。
「あの、みんな……その貝って生だよね?」
「牡蠣は生で食べて良いもんじゃねーですか? 焼いたりもしますけど」
「いえ、それだけじゃなくシチューの具にしたり、衣を付けて揚げたやつもウチは好きです! ハーナル州では夏と冬に旬があって、そう……いま頃が食べ時なんです!」
その答えには釈然としない。
コーリー自身は内陸育ちなので、魚の生食に思い入れがあるかと問われればそうでもないのだが……。
アトラファも、新しく剥かれた牡蠣の身を前にして固まっていた。
なので、コーリーは後輩二人にもう少し聞くことにした。難癖ではなく食文化の相互理解のために。
「……魚を生で食べるのは?」
「無理です」
「あのあの、お腹を壊してしまうかも……あっいえ、ウチはお魚はちゃんと火が通ってるやつが好きです!」
――なるほど。コーリーは納得しかけた。
生で食べたらお腹を壊すかも知れないもんね、確かに。
ということは、
「牡蠣は生で食べても、お腹を壊す心配はないんだ」
「あー…………、」
「えっと…………、」
「な、なんで言い淀むの?」
不穏に黙りこくった後輩たちを前に、コーリーは仄かな戦慄を覚えた。
そうしている間にも、順調に自分の皿に殻を積み上げていくアリエス。大好物なのは本当のようだ。
そんなアリエスが説明する。
「たまに『牡蠣に中る』っていう人がいるので絶対安全ではないですけど、滅多にあることじゃありませんし、新鮮なら大丈夫ですよ。たぶんっ!」
「たぶん……? 失礼ですけどアリエス先生、お医者さんですよね?」
「せんせぇのことは『せんせぇ』と呼んで下さいっ。それからせんせぇは外科医ですっ! 食中毒の知識は浅いですっ」
「えぇ……」
◆◇◆
そんなやり取りはあったものの。
コーリーは、他の皆が美味しそうに食べるので、試しに食べてみた。腹痛を起こすのは滅多にないという話だったし、一つくらいなら問題は無いと思えた。
中る、というリスクを知りながらそれでも食べるという事は、それだけ美味であることが保証されているのだとも思ったからだった。
アトラファに目配せしても、彼女はコーリーが牡蠣に挑戦することを制止するそぶりを見せなかった。
(……食べて良いってことだよね!)
コーリーはボウルから牡蠣を一つ手に取り、開けようと試みる。
貝柱を断ち切るって言ってたな……端っこのほうにナイフを差し入れてた気がする。
こうかな、とナイフを差し入れるも、ちっとも開く気配がしない。
埒が明かずに、無理にこじ開けようとしたその時……、
「あのあの、先輩。そこじゃなくて逆です。逆の端っこに貝柱があるんです!」
「こっち?」
「そうそう、その辺です」
タミアのアドバイスに従い、無事に殻を開けることができた。
おぉ……。あまり「ぱかっ」という手応えは無かったが、簡単に開いた。
むっちりぽってりした身が中に入っていて……美味しそう……? これは美味しそうなのだろうか。見慣れない見た目だし、しかも生だし。
ただ、これは美味しい物だということは明白だった。後輩たちも食べてるし、アリエスに至っては大好物とまで言ってる。
皆に倣ってオリーブオイルを一匙、そしてレモンを絞って頂く。
……ちゅるんと口の中に入って来たそれを、コーリーはしばし持て余した。
なんだこれ。噛んで良いのか?
「むぐっ……、んぐ」
かろうじて嚥下した。
恐ろしく口に合わない――口と鼻腔一杯に、嗅ぎ慣れない匂いが充満している。
これが海の香りというものなのだろうか……美味しい、のか?
嫌いで食べられない物があるというのは不幸せなことだと、コーリーは常日頃から思っている。
アルネット王女がいつか玉葱を克服できれば良いと願っている。
タミアが、シチューにしたり揚げたりしても美味しいと言っていたことだし、それらを食べるまでは牡蠣への評価は保留にしとこう。
生まれ育った地域の別における、食への感性の差異をしみじみと味わったコーリーであった。
◆◇◆
結局、アトラファだけは牡蠣にいっさい手を付けなかった。
でも、他の魚介のスープ等は器用に片手で食べていた。
そういえば、この後「ちょっと話したい」と言われていたのだ。
もしかしなくても、この船の魔物がらみの話……とすれば、今更だがいつの間にか用意されていたこの料理の数々は、口にして良いものだったのか?




