座標が示さない場所 ①
「わたし、秋になったら〈学びの塔〉の編入試験を受けようと思う」
人払いをした後、すぐにアトラファがそう言ったので、コーリーは思わず「え、」と声を漏らしてしまっていた。
それは嬉しいけど、こんな状況で聞きたくは無かった。
あんなに、勉強が嫌いだと言っていたのに。
それに、どうしてマシェルさんではなく、フォコンドさんをこの場に残したのだろう。どっちかといったら、マシェルさんの方が保護者のような立場だったのに。
コーリーとフォコンドを部屋に残し、他の者を退出させた理由――どうしてそんなことをしたのか。
少し考え……コーリーは、その理由が分かった。
今、この部屋に残っている三人の共通点。
それは、黒い七竈の魔物の能力を把握しており、エリィがその影響を受けているということを、認識している者たちだ。
アルネットもそうだし、エリィ本人も今は「自分はそうなんだ」と自覚しているのだろうが、彼女たちは当事者だ。
だから、アトラファは彼女らにも退室を促した。
アトラファは、エリィの処遇について話そうとしている。
「……左腕が動かなくなったから決めたんじゃない。わたし、勉強は嫌いだけど。コーリーやアルネットが居るなら〈学びの塔〉で勉強するのも良いかなって思い始めてる……受かるかな? コーリーの参考書、今から借りても良いかな?」
「っ! 当たり前だよ! アトラファなら……」
コーリーはアトラファに抱き付こうとしたが……お医者さんに「安静に」と言われていたんだった。感情を抑えて、寝台の端に腰を下ろし、アトラファの肩を抱き寄せつつ、もう片方の手でそっと自分の涙をぬぐった。
◆◇◆
フォコンドもこの場に残したということは、彼にもアトラファは話したいことが有るはずだった。
それはたぶん、エリィについてのこと。
アトラファにとっては、こちらの方が本題だったに違いない。
アトラファは、フォコンドに問いかける。
「エリィが魔物の能力の影響下にあるっていうこと、ギルドに報告した?」
「……いや、まだ報告はしていない。お前の怪我のことがあったからな……東市街の城壁の崩落は、占い師グリルルスが操る魔物の能力によって為されたというのが、今の世間の認識だ」
「一生のお願いがあるから、聞いて」
壁に背を預けて話を聞いていたフォコンドは、ようやくその眼をアトラファに向けた。
コーリーは、口を挟むべきか迷った。
しかし、決断するより先に、アトラファが言った。
「エリィが、七竈の魔物の影響を受けているっていうこと、ギルドや王都守備隊に報告しないで。エリィが〈使い魔〉であることを、誰にも言わないで」
「……何故だ」
当然、フォコンドは表情を険しくして言い返した。
アトラファが答える。
「〈使い魔エリィ〉を閉じ込めても無駄だから。……エリィは無詠唱で有り得ないくらい強力な火精霊法を使えるから、拘束なんて不可能。だったら、唯一エリィを抑えられるアルネットのそばに置いとくのが、一番良い……」
「そんな御託を並べて生かそうとしなくとも、殺せば済むではないか」
「フォコンドさんっ! 今、そんなこと言わなくても……!」
コーリーは、これ以上アトラファの心身に負担を掛けたくないのだった。
アトラファは目を細めて天井を見上げていた。
そして、またフォコンドに対して言う。
「一生のお願い。誰にも言わないで。……本当に死ぬ思いをして取り返したの。だから、取り上げないであげて。アルネットから」
「……、…………お前という奴はな、」
フォコンドは暫く考えてから、大きく息を吐いた。
寝台に歩み寄り、アトラファの頭に手を乗せた。
コーリーには、彼の口元が微かに綻んでいるように見えた。
「約束はしない。他の誰かのために、一生のお願いなんて言うな。……その言葉はお前自身のために取っておけ」
「エリィを見逃してくれるの?」
「今はな。だが、必要と判断したならギルドに報告するし、討伐もする」
「…………。もっと頭が固いと思ってた」
「俺は柔らかいほうだ。……それに、」
たぶん優しげな微笑みを浮かべようとしたのだろう――フォコンドは不器用に笑って、撫でさすっていた手を、アトラファの頭から離した。
一度、コーリーの方に視線をくれてから、フォコンドは続ける。
「〈学びの塔〉か。学校へ行くという考えは良いと思うぞ。勉強が嫌いだとしてもな。友達を作って来るがいい、アトラファ。コーリーのような友達を……それがきっと、お前に必要な事だ」
「……うん」
アトラファは、自身の動かない左腕に視線を落としながら、素直に頷いた。
◆◇◆
――数日後。
いくらか体力を回復し、立って歩けるようになったアトラファを連れ、コーリーはギルド会館を訪れていた。
いつもだったら、依頼が貼り出されている掲示板をまっすぐに目指すのだったが、今日は目的が違っていた。
コーリーに支えられたアトラファの姿を見ると、周囲の冒険者たちは、はっとして居住まいを正した。
受付の窓口にお馴染みの職員、アイオン・ベルナルと、リーフ・ポンドが揃っている。二人ともこちらに気付くと、椅子から立ち上がって迎えてくれた。
アトラファという冒険者が、これまで王都の平和を守るために、どんなことを成し遂げて来たのか、皆は分かっているのだった。
そして……、先日の城壁が内側から破られた件で、アトラファが大怪我を追い、若くして引退を余儀なくされたことも、知れ渡っているに違いなかった。
ただ、フォコンドは約束を守った。
城壁は魔物を操る占い師グリルルスに破壊されたことは知れ渡ったが、魔物の能力の影響下にある少女、エリィのことは伝わらなかった。
窓口の前まで至ると、アイオンは無言で両の手の平を差し出した。
「………………」
その手の平の上に、アトラファもまた無言で〈縁あり銀〉の冒険者認識票を載せた。
コーリーは寂しかった。アイオンは他にも幾人もの冒険者の引退を見送っていたはずだ。ならばもっと……発言があっても良いと思った。
きっとアトラファは、コーリーと出会う前から人知れず王都で暮らす民のため戦い続けていた。
出会った時、コーリーを魔物から助けてくれたみたいに。
こんな時に、不満を述べることが無粋であることも、分かっていた。
しかし――コーリーの思いを汲んだかのように、最後にアイオンは言った。
「お疲れさま、アトラファ君……キミは思いやりがあって、勇敢な冒険者だったよ。キミと関われたことを、誇りに思う……あまりに早い引退で……いや、言わないよ。キミの未来に幸あらんことを!」
この時になって、泣きそうになってしまう。
当のアトラファは表情を変えていないというのに。
隣の窓口のリーフは、べそをかいていた……コーリーは彼女への信頼を回復させたことは無いのだったが、きっと涙もろいのであろう。
◆◇◆
アトラファが冒険者認識票を返却し終え、ギルド会館を去ろうとした時――、
駆け寄って来る人がいた。
ごま塩頭のダリル主任。
強面で、コーリーにとっては苦手なタイプの人だったので、この人が窓口に座っている時があっても、可能なら避けていた。ダリル主任は、コーリーたちに……というかアトラファに追い縋ると、膝に手を当ててハァと息を吐いた。
かなり急いで走って来たのだろうか。
ダリル主任は、汗を拭いつつ、顔を上げて言った。
「アトラファお前……身寄りはねえンだろう。これからどうするつもりなンだ? お前、読み書きも計算も出来るだろう。そりゃお前次第だが……良けりゃ冒険者ギルドの職員に……、」
「わたし、秋になったら〈学びの塔〉の編入試験を受ける。学校に行って、友達を作る」
その返答を聞いたダリル主任は、驚きに眼を見開いた。
コーリーよりずっと前からアトラファと関わっている――そのダリル主任は、よもやアトラファの口からそんな言葉が飛び出るとは思っていなかったのだろう。
しかし、彼はその言葉を咀嚼し、吟味し、呑みこんだのだと思う。
ダリル主任は目を伏せ、頬を綻ばせ、それまでコーリーが知らなかった穏やかな、安堵した笑みでアトラファを祝福した。
……短い言葉で。
「そうか、学校に行って友達を作るか。そいつは良い……!」
本当に、彼がこんな表情をしたのを、コーリーは初めて見た。
アトラファは、言葉を受け取るや否や、すっとその場を離れた。
代わりにコーリーが膝の上に両手を当て、お世話になった皆にお辞儀をした。
――この日、アトラファは冒険者を辞めた。




