あの日に還る魂 ⑤
「………………」
目を閉じる。
体力も気力も尽き果てたわたしの額に、何か湿った物が押し当てられた。
瞼を持ち上げると、そこには見慣れた栗色の毛玉が居た。
「フォス、ファー……?」
彼は、わたしを見下ろしていた。
精根尽き果て、指一本動かせないわたしを。
◆◇◆
彼は黒目がちな瞳で、わたしをずっと見つめていた。
「向かえに来てくれたの? フォスファー……」
わたしは慎重に両腕を彼に向かって伸ばした。
フォスファーは受け入れてくれた。触らせてくれた。
胸の上で伏せたフォスファーを、わたしは、ぎゅ、と抱き締めた。
「……思いのほか、ごわごわしてる……でも、こんな手触りだったんだねえ……あったかいねえ……」
フォスファーは、ずっと大人しくしていた。
いつもだったら噛みつこうとしてくるのに、この時だけは触らせてくれた。
湿った土みたいな匂いがする、フォスファー。
彼を抱きしめたまま、わたしは話した。
「フォスファー。わたしね、ずっと夢を見ていた……長い夢。……夢の中で、わたし冒険者だった。みんながわたしを褒めてくれた。『優しいね、勇敢だったね』って……とっても良い夢だった――」
フォスファーは吠えもせず、すんと鼻を鳴らした。
まだ夢の余韻に浸って居たかったけど……もう行かなくては。
わたしは立ち上がった。身体にくっついた草を払う。
ティトを助けに行かないと。
フォスファーとふたりなら、ドミナが相手でも負けない。
フォスファーは背を向けて歩き始める。
ティトがドミナによって監禁されている場所に案内してくれているのだと思った。その背中を追いかけて、わたしは歩く。
「ねぇ……フォスファー。ティトを助けたら、三人で何処に行こうか。わたしはね、ベーンブル州っていうとこに行ってみたいんだ」
フォスファーは、振り返りもせずに歩き続ける。
わたしは、その背中に話し掛け続けた。
「南の暖かい所なんだって。ティトが好きな果物も、そこにいっぱい成っているんだって。でも……ティトが故郷に帰りたいって言ったら、わたし、一緒に行こうと思ってる……フォスファーはどうする? ついて行くよね?」
フォスファーは応えず、ひたひたと夜道を進んで行く。
わたしは微笑んだ。そうだよね……まずはドミナをぶっ飛ばして、ティトを助けないとだよね。
そしたら、三人で旅をしよう。
ティトから聞いたこと、この目で確かめてみたいんだ。
海って知ってる? ダナン湖より広くて塩っ辛いんだって。ティトも誰かに聞いただけで、まだ見たこと無いんだって……そんなに広くて、しかも塩辛いなんて、本当かな?
振り返らずに歩くフォスファーの背中に、わたしはまた声を掛ける。
「ねぇ、フォスファー。……ティトのこと、ずっと見守ってあげて。ティトは読み書きも料理もできるけど、走るのが遅くて弱っちいから、わたしたちが守ってあげないと……」
フォスファーは、わたしの方を振り返りもせず、ひたすらに進み続けていた。
ちゃんと聞いてくれているのか不安になったが、呼び掛けると彼の耳がピクリと動いたので、わたしは安心した。
ねぇ、約束をしたんだよ。
ティトを助けて、それから三人で世界を旅するって……。
ねぇ、――――。
◆◇◆
………………。
――フォスファー。
うっすらと瞼を開けると、わたしは寝台の上に寝かされているようだった。
周囲を何人かが取り囲んでいる。
……コーリー。マシェルとミオリ。フォコンドとククルがいる。
それに知らない爺さん。この人誰だっけ……。そうだ、コーリーと出会った時、コーリーの腕の怪我を治療してくれたお医者さん。
アルネットとエリィ……。エリィは寝台の縁に突っ伏して、シーツの裾を掴んで声を押し殺して泣いている。
泣いているエリィはともかく、他の全員は、これから亡くなる人を看取るような沈痛な面持ちでわたしを見下ろしていた。わたしは泣いているエリィの頭に近い左手を動かそうとしたが、力が入らなかった。
代わりに右手を伸ばして、エリィの頭を撫でた。
――無事で良かった。
◆◇◆
そうすると、皆が一様に驚いてわたしを見た。
マシェルは涙を浮かべて口を引き結び、ミオリは口元に両手を当てていた。
フォコンドは目を閉じて、安堵したように肩を落とした。
ククルが飛びついて、わたしを抱きしめる。
「良かったっ! 良かったよぉ……っ! お医者さんが『もう明日まで保たないかも知れないから、お別れをしたい人は集まりなさい』って言ったから、あたし……っ」
「……気持ちは分かるが、離れなさい。安静にしなければいかんのじゃから――どうだね、喋れるかね? 自分の名前を言えるかね?」
医師がわたしに問いかける。
わたしは、どっちの名前を告げるべきか一瞬迷ったが、理性に従って答えた。
自分は「アトラファ」だと。
欲しい物はあるか、と問われたので、わたしは素直に欲求に従って答えた。
「みずを、のみたい」
◆◇◆
すぐにミオリが用意してくれて、わたしは水を飲むことが出来た。
眠りたいなら、無理せず眠りなさい。そう医師が言ったが、わたしは特段に眠気を覚えているわけではなかった。
ただ、今後の不安を解消しておきたかった。わたしは医師に問うた。
「わたし、これからも冒険者を続けることが出来る?」
「………………。無理じゃよ」
そうか、無理なのか。と、ただそれだけを思った。
好きで冒険者をやっていたわけではない――成り行きでそうなった。望んだわけではなく、知らずとそれを生業としていた――しかし、続けるのが無理と言われると、少し寂しく感じた。
医師はなおも言った。
「無責任に希望を抱かせたくはないから、言っておくが……お前さんの左腕は、もう元には戻らんよ……今、動かせるか?」
「……動かせない」
「だろう。これから懸命に治療に専念して……いつか、両手にナイフとフォークを持って食事が出来るようになったら、恩の字というところだろう。冒険など出来ん」
わたしは、少しの間、俯いて自分の動かない左腕に視線を落とした。
寂しいという気持ちが募った。生まれた時から一緒だった、左の腕。これがもう動かないなんて。
寂しさからか、ほろりと涙が零れた。おかしいな。わたし、合理的な事が好きだったのに。片腕が動かなくなったら、それを踏まえて次に出来ることを考えなくちゃいけないのに。
涙もろいミオリとククルが、もらい泣きしてる。
そういうこと、して欲しくないのに。
わたしは……わたしは、まだ不幸せではない。
「……夏の終わりに、ハーナル州への旅行を計画してたの。それに行くことは出来る?」
「お前さんは、自分が生死の境をさまよう程の大怪我をしたということの、自覚が無いようじゃのう……」
「それも無理なんですかっ!?」
医師に縋りついたのは、アルネットだった。
必死に、泣きそうになって医師の袖を掴んでいる。
「夏の終わりに、ハーナル州で祭りが有るんです! わたしはっ、この人に見て貰いたいんですっ! ハーナルの……飛空船の、わたしの、」
「……事情は知らんが、医者としては『無茶』としか言えんよ。だが、夏の終わりというなら、怪我の回復を見て……いやいや、最低でも医者の同行が大前提だ!」
「医者の同行……」
アルネットがじっとりと医師を睨む。
医師は、慌ててアルネットを突き放した。
「儂は行けんよ! ……患者はその子だけではない!」
それはそうだと思ったのか、アルネットは引き下がった。
◆◇◆
容態が悪くなったらすぐに連絡するように、と医師がマシェルに告げ、〈しまふくろう亭〉を去った。
ミオリとククルは、ひたすらに医師に感謝を述べていた。胸の前で手を組んで祈っていた。どうして、私が助かったくらいで、そんなことするんだろうと思った。
残った皆が複雑な心境の面もちだったので、わたしは言った。
「……これからのことについて、コーリーとフォコンドに相談したい」




