あの日に還る魂 ④
アルネットの目の前で、アトラファがふらりと立ち上がる。
やめて、もう立ち上がらないで。戦わないで……見ているだけで辛いから。
安静にしていて。救助が来るまで……エリィの事はいい。
それが貴女のためだって、分かってるでしょ?
アルネットはそう願って、アトラファの腕に縋るのだったが、彼女は相変わらずぶつぶつと何か分からないことを呟き続けている。
――精霊法の始動鍵だろうか?
「《極光の衣纏いて来たれ、闇の王》――」
口の中でぼそぼそ唱えていたので、聞き取れなかった。
だが、アルネットは強力な精霊の気配が、周囲から湧き上がるのを感じた。
これは……? アトラファが得意とする氷法術ではない。
もちろん、エリィの火法術でも。
「《飽くなきもの・欠けたるもの・名も無きものよ》」
血塗れのアトラファの身体に……上から落ちるように、ヴェールのような黒い膜が被さるのを、アルネットは見た。
――影の衣。そのようにアルネットには見えた。
瞬間、今にも再び炎の剣を投擲しそうだったエリィが、にわかにアトラファへと振り返り、その灼熱の切っ先を、首元へと振るった。
「いや、やめ……っ!」
今度こそエリィが、アトラファを殺した……と思った。
そうとしか思えなかったあまり、悲鳴を上げたアルネットだったが。
アトラファは立っていた。
ひゅー、と息を吐く音だけが聞こえる。
肩を貫かれ……彼女はもう息を満足に吸えないのかも知れない。それでも立っていた。
炎の剣は、アトラファの首には届いていなかった。
影の衣に阻まれ、火花を散らしていた。
エリィは目を見開き、炎の剣を押し込もうとする。それでも破れない。王都ナザルスケトルの城壁を貫いたエリィの火精霊法が、アトラファの術を壊せない。
これは……どういうこと?
体術でならともかく。精霊法での戦いに偶然は無い。
それはアルネット自身が〈学びの塔〉で経験していたこと。
素の勝負なら、単純に〈支配域〉が広い方が勝つ。でなければ接近戦で〈制御力〉が優る方が勝つ……。
アトラファが展開した、黒い影のようなヴェールは、エリィの破滅的な威力を秘めた炎の剣を、完全に防いでいた。
「うぅっ! どうして!」
再び、逆袈裟にエリィが斬ろうとする。
それでも斬れない。破れない……アトラファが展開した影の衣を。
アトラファの術……氷精霊法ではない……守りの、影に見える障壁。
◆◇◆
その様子を目の当たりにするアルネットの前で、アトラファは言う。
「わたし、あと何歩か動ける。あと何秒か考えられる……アルネット、全力で撃って。エリィの意識を断ち斬って。もう考えないで。エリィを取り戻すには――」
それしか無いのだと。
そうアトラファが言ったが、全力で撃てとは……、精霊法の始動鍵を唱え切って、エリィを撃てということか。そんなこと――出来るわけない。
躊躇するアルネットに、アトラファは言う。
「エリィを取り返したいなら……わたしが必要でしょ? わたし、もうすぐ動けなくなる……エリィを助けたいなら、考えないで! 感情に従って必要な行動をして! アルネット!」
「…………………!!」
アルネットは思った。
この人はきっと死ぬ。
あんなに血が出て、それでも立ち上がって、エリィを救おうとしている。
感情に従う行動……エリィを助けたい。それが望み……だけど。アルネットが全力で精霊法を使ったら、何もかも跡形もなく消し飛んでしまうのでは。
それを否定するように、アトラファが叫んだ。
きっと最期の叫び――。
「迷うな、早くやれっ! エリィは死なせない! わたしも死なない! ……エリィもアルネットも、人殺しになんかさせないっ!」
嘘だ。あんなに血が出て……あなたは死ぬ。
衝き動かされるかのように、アルネットは始動鍵の詠唱を始めた。
どうして――どうして、この人は戦うのだろう。立ち上がるのだろう。
もう、貴女は死んでしまうのに――最後まで、どうして。
アルネットは祈るように詠唱を始める。
「《曙光の剣具して参れ、光の王》――!」
エリィが初めてこちらに注意を向ける。
そのエリィをアトラファが抱き止める、影のヴェールが二人を包み込む。
これは……撃って良いのか。
アトラファは「迷うな」と言ったが、アルネットの全力は、エリィをも上回っている。
それを撃ってしまったら、二人とも――。
――けれど、信じることが出来た。
タンポポの花……お守り。
いつだって、アルネットに勇気をくれた。
この人が――アトラファが本当は誰なのか、まだ分からないけれど……!
今、操られているエリィを止める……それが出来るのは、自分だけ!
「《輝くもの・瞬くもの・駆けゆくものよ》!」
精霊よ、どうか奇跡を。
わたしは何もしていない……けれど、アトラファは頑張った……あの人の努力に報いる奇跡を、どうか起こして下さい。
そうじゃないと……精霊たちよ、どうしてあなた達はいるのですか?
「《汝の名は『焔』》!」
その存在意義に疑問を抱いたのにも関わらず、精霊は王女に力を貸した。
虚空より振り抜かれた王女の大剣は、影の衣に包まれた二人を打ち据えた。
エリィは対抗しようとしていた。
炎の剣で、光の大剣を迎撃しようと……しかし、影の衣がそれを阻んでいた。
大剣を振り抜いたアルネットの目の前で、アトラファがエリィを抱きしめていた。
良かった、二人とも無事……と思ったその瞬間、アトラファはエリィを抱いた姿勢のまま、すとんとその場に崩れ落ちた。
エリィは呆然と虚空を見つめている。その足元に血だまりが出来ていく……アトラファの血で。
◆◇◆
――コーリーは、ティトを追い詰めていた。
果実を食べた生き物を、完全に操る……ただ命令をするだけではなく、感覚を共有し、潜在能力までも開花させる。
〈使い魔〉と化したエリィが異常に強いのはそのせいだろう。
だが、本体である七竈の樹は無力。
寄生主である、ティトの異常な執念によって復活を遂げたが、まだ……負けてはいない。素手で魔物を破壊する術を持たないコーリーは、愚直に始動鍵を唱えるしかない。
「《賢き、小さき、疾きもの! 儚き花の守り手よ》!」
風の精霊が、手の中に集まり出す……ティトはその気配に気付いていない。
接近戦――もう勝てる。逃げようとしたって、壊せる……七竈の魔物!
しかし、ティトは余裕だった。
というより、コーリーの事を気に留めていなかった。
コーリーの遥か背後を見つめ――、
「エリィとの接続が途絶えた……もしかして、勝ったの? あのエリィに?」
そう言うティトは、どこか嬉しそうだった。
やっぱり、あたいのトゥールキルデだ、と呟いている。
その隙に七竈の杖を掴もうとしたコーリーだったが――羽ばたきに遮られた。
「うっ!」
無数の鳥たちの襲撃を受け、腕で目を庇う羽目になった。
この鳥たちも〈使い魔〉か……殆どの鳥は、夜はおとなしくしているはずなのだが……ティトは王都で暮らしている間、どれだけの数の〈使い魔〉を作りだしたのだろう。
「ティト……!」
羽ばたきの音が途絶え、目を開けると……すでにティトの姿は無かった。
後ろを振り向くと、鼠と虫にたかられていたフォコンドが、地に跪いている。
あれほど、おぞましいほど蠢いていた〈使い魔〉は、皆何処かへ行ってしまっていた。
……ティトは逃げ延びたのだ。
少なくとも、コーリーたちからは。




