黒き七竈の魔女 ①
――だいぶ昔。
〈影迷街〉という、王都の南の城壁の外の、真っ白で汚れた街にティトは住んでいた。白くて汚れてるなんて、おかしな言い回しだと思うけど、間違ってはいない。
あの街は、どこもかしこも真っ白な漆喰で塗り固められていて、中身は汚れ切っていた。でもティトは〈影迷街〉で、宝石と輝く星に出会った。
〈土の民〉として生を享けた自分に、精霊が施してくれた、最初で最後の祝福だと思った。
なのにティトは何度も選択を誤って、宝石も星も、どちらも失くしてしまった。
――引き換えに、黒い七竈の若木を手に入れて。
初め、黒い七竈の杖はティトの助けとなるものではなかった。
助けどころか、隙あらばティトを殺して自らの糧にしようとすらしていた。
魔物とはいえ、自ら動けない植物である、黒い七竈がどうやってティトを獲物にしようとしていたかは……この魔物の能力に関わってくる。
馬鹿なやつ。あたいを殺したら、お前もどちみち死ぬんだ。
お前の切り株は、根っこは、半身は――灰みたいになって崩れちゃったんだ。
あたいが血を与えてやらないと、お前もそうなるんだ。
そう言い聞かせるも、もちろん相手は魔物……しかも元が植物の魔物なのだから、言うことなんて聞くはずもなかった。聞いているのかすら分からなかった。
あの賢かった犬――フォスファーとは全然違う。
それでもティトは諦めなかった。
毎日ではなかったが、樹が弱ってきたと感じた時に、自らの血液を少し与えた。
初め、野鼠や魚なんかの肉を与えれば問題あるまいと考えていて、その通りに与えていたのだが……ある経験をしてからは、ティト自身の血以外の養分を、この樹木の魔物に与えてはならないと理解した。
数年を経て――ティトは、黒い七竈の杖を完全に我が物とした。
魔物としての能力も把握していた。
それどころか、魔物の能力をティトが自在に扱えるまでに使いこなせるようになった。
この魔物は、ティトを自分の失われた半身――「根っこ」だと勘違いしている。
ティトが自分の血だけで、この魔物を生かし続けて来たからだ。
だから黒い七竈はティトの意思に従って、能力を発動させるが……もし、どこかでティト以外の味を知ってしまったら――たちどころに気が付くだろう。
だからティトは、この魔物に自分の血液以外は与えない。
◆◇◆
――六年の時を経て、王都に戻って来たのは、気まぐれだった。
特に用事があったわけではない。ただ試してみたかった。
帰って来て、心が痛まないのか。
あの日の思い出はちゃんと癒えていて、古傷になってくれているのか。
それとも、まだ癒えていなくて、血を流したままなのか。
乗合馬車に揺られて、かつて暮らした〈影迷街〉――その表通りを見ても、何ら己が心に波を起こすことは無かった。ティトは安心した。自分は思い出を克服できている、と。
動揺したのは、在留許可申請の審査には数日を要する、と城門の係官から告げられた時だった。
――数日!? そんなにかかるなんて、聞いてない。
まずいことになったとは思った。
王都にやって来たら、すぐに仕事を始めるつもりだったので、正直いって路銀がかつかつだった。
ついでに、黒い七竈の杖を、門番に悟られずに城壁内に持ち込む手段も考えなければいけなかった。占い師の仕事をするのには杖が必要だったし、何より魔物なので、そこらに放置しておくわけには絶対にいかない。
もっとも、黒い七竈の杖を王都に持ち込む術は、すぐに思い付いた。
大した策があるわけでもない。夜、上空から城壁内に杖を輸送すれば良いだけだ。黒い七竈の能力ならば、それが可能だ。
ティトにとって疑問なのは、王都の城壁は何のために築かれたのだろうということだった。獣などの侵入は防げるだろうが、例えば空を飛べる魔物などには、全く効果を示さないだろう。
とすれば、人間の侵入を制限するため――もっと言えば、敵軍の侵攻を阻むために作られたとしか思えない。
かつて人間同士の戦乱の時代があったことは知っているが、今はどの州も王都も、関係が安定している。
何もこんなに堅固に関を設けなくても良いのではないか。
……とにかく、数日。
数日を、少しの路銀を節約しつつ過ごさねばならない。
特に火急の用事があったでもなし、王都に入れないなら、引き返して……街道を北に進み、ハーナル州に向かうのでも良かった。街道沿いには宿場町がいくつもあるし、そこで稼いだって良い。
……けれど、ティトは在留許可の審査を待つことにした。
今より幼い子供の頃、入りたくても入れなかった、王都ナザルスケトル。
この機会を逃したら、もう訪れることは無いかもしれない。
せっかくだから……路銀は心許ないが、城壁の中の街並みを、目に焼き付けておこう。
それくらいの気持ちだった。
◆◇◆
……王都に入ってからが問題だった。
路銀は尽きて、宿を取るどころか、食事すらおぼつかない。
城壁の外だったら、その辺の草をむしって茹でて食べるのだが……。
道行く人々も皆、せかせかと歩いていて、辻占いなんか全く必要としていない様子だった。
まずい……非常にまずい……。
計画通り、黒い七竈の杖を回収し、旅行鞄を装った長持に隠すことはできたものの、何か食べなければ行き倒れる。
半ば本気で死を覚悟しかけた時――、
蕎麦の実のような黒っぽい茶髪の少女が、サンドイッチとスープを載せたトレイを手に、ティトの近くにやって来て、すとんと腰を下ろした。
ティトの存在に気付いていないのか、無心にサンドイッチに齧りついている。
あれは……たぶん魚のフライを挟んだやつ。厚切りでソースもたっぷり。玉葱とトマトまで挟んである!
……嫌がらせか!
この時、ティトの食への渇望が伝わってしまったのか、黒い七竈の杖が暴走しかけてしまった。
――きゅー。きゅる、ぐきゅるるるる。
お腹も鳴った。胃が食物を欲している。
その音に気が付いたのか、茶髪の少女は初めてこちらに視線を向けた。
その手に持っているトレイの上には、玉子サンド。それとたぶんスープ。
また、お腹が鳴る。溜め息も出る。
その少女は、何度かこちらを気にするように視線を向けたが、結局、手付かずの玉子サンドとスープを持って、何処かへ行こうとした。
思わず、声を掛ける。
「ねぇ……、お前さん。哀れな女の子を見捨てて、どっかに行っちゃおうとしてる薄情そうなそこのおまえ」
「うっ」
いかにも、面倒くさそうな奴に絡まれた、という表情で少女は振り返った。
怯えた風な少女は、小声で主張した。
「な、なんでしょう……お金はありません」
別にお金を取ろうだなんて思ってない。
お金……恵んでくれるなら有難いが、今は切実に栄養を欲している。
「お金はいらないわ。ただ、もしもおまえが持っている玉子サンドを、あたいにくれたならば、」
言いかけると、少女はティトの窮状を察したように、食物を差し出してくれた。
「そんなにお腹空いてるんだったら、サンドイッチくらいあげますけど」
「えっホント!? 悪いわね! あたい一目見て分かったの! おまえはきっと困ってる人を見捨てて置けない、心優しい子だって!」
なんて良い子なんだろう。
一目見て分かったなんて嘘っぱちだけど、間違いなく優しい子だ!
受け取った玉子サンドを頬張る。
表面がさくり、中身がふわりとしたパンの食感。それに潰したゆで卵の塩加減が絶妙。お腹が減っていたのもあって三口くらいで食べきった。
急いで食べた物だから、喉につっかえてしまう。
胸を叩いていると、少女がカップを差し出してくれる……玉子サンドに加え、スープまでもお恵み下さるというのか。
ティトは差し出されたカップを掴み、スープを飲み干した。
「はぁ……、助かった」
やや、まんぞく……。
しかし、少女が持つトレイの上には、ピクルスが残されていた。
嫌いだから残してるのかな……残すくらいだったら、あたいが食べちゃっても……でも、意地汚いし……でもでも、残すんだったら……。
そんな葛藤が渦巻いているところに、すっとトレイが差し出される。
……食べろと。何も言うな、そんなに腹が減ってるんなら、食べろと。
「………………」
ティトはその心意気に応え、無言で手掴みでピクルスを貪った。
そんなティトを後に、少女は立ち去ろうとする――何も言わずに。
◆◇◆
お礼をしなければいけない。名前も聞いとかないと。
ティトは、強引にその蕎麦茶色の髪の少女を引き留めた。
あたいの――黒い七竈の能力は「完璧」なのだから、この少女にとっても悪い結果にはならない。手順は面倒だけど、どんなことでも出来る。
あぁ、そうだ……人に名前を聞く前に、自分から名乗らないと。
ティトは、黒い七竈の杖が入った長持から腰を上げた。
立ち上がってみると、少女は自分よりもずいぶん背が低いことに、ティトは気が付いた。
そしてティトは、少女に――コーリーに対して名乗った。
「――あたいは、ティト」




