地球(ふるさと)の歌 ③ 真実の断片
エリィは――絵里は、記憶を失っていたわけではなかった。
「こちらの世界に吸い込まれて」からも、地球人であるという自意識は一貫して持ち続けていた。
アルネットの横で目覚めたその時から、絵里は地球での記憶を失っていたわけではなかった。混濁はしていたが、次第に治まっていった。
最初、言葉が通じ難くて困った。
アルネットが庇ってくれて、絵本を読んで言葉を教えてくれて、アルネットとの関わりを経て、他の皆とも馴染むことが出来た。
強がりで頑張り屋で優しい子――アルネット。大好き。
……ただ、これは夢なのかもしれないとは思っていた。
現実世界で崩落する「いちくらマート」で、人生の最期に見ている長い夢だと。
両親が作ったビデオゲーム――「Iscardia」――それを死の間際、思い出しているのだと、心のどこかで考えていた。
この夢の世界にドラゴンがいないのは、現実で絵里がドラゴンを見たことがないせいだとも思い始めていた。
夢とは記憶を整理するためのものと聞いていたから。
「本当の、現実の世界」で体験し得ないことは、こちらの世界には現れないと。
まさにドラゴンとか――エリィはそう思っていた。
一方でアルネットたちがドラゴンや回復魔法を知らないのは、おかしいと感じていた。
ここが夢の世界とするなら、彼女たちは「Iscardia」の登場人物であるはず。だとすれば、ゲームシナリオ上の「設定」に則った人物でなければ……おかしい。
◆◇◆
地球にいた頃のエリィ――絵里が知っていた「Iscardiaの世界」と、それを元にしているはずのこちらの世界とは、何もかもが少しずつ違っていた。
少しずつ……? いや、むしろ重なり合っている部分の方が少ない。
例えば、この世界の人々は生まれつき精霊の加護を受けていて、大気や水や物体の中に、何となく精霊の存在を感じ取ることが出来る。その感覚を磨いていくと、才能による個人差はあれど誰もが「精霊法」を使える。
エリィが想像する便利な「魔法」よりも、かなり制約が大きく、その割に不便な精霊法という力を。
これまで見て来たところ、精霊法は四つの系統があるが、そのどれもが「何かを破壊する」くらいの用途しかないのではないかと思える。しかも、エリィが地球の創作物の中で知る「攻撃魔法」に比べると、その威力は矮小と言える。
魔物の大軍を一掃できるような大規模かつ強力な精霊法を使えそうなのは、見知った顔の中では、天才と謳われるアルネットくらいしかいない。
魔物もこの世界では希少な存在のようで、精霊法の弱さと相まってか「不意に出会ったら最期」くらいに危険視されているようだ。
夏季休暇が始まる前、王都の城壁内に魔物が侵入したという事件があり、解決までの間、エリィたち寮生は、一切外出禁止の憂き目にあった。
タミアは怯え、クルネイユはぶちぶち文句を言っていたが、エリィは一人「そんな魔物くらい、ぱぱっとやっつければいいのに」と考えていたのだった……。
アルネットも。彼女はもっと年上で凛としている性格のはずだった。
人望とリーダーシップに溢れ、レノラに手玉に取られたり、クルネイユにおちょくられるような幼い人物ではなかった。
そして、アトラファ――魔王であるはずのこの人は、どうして王都ナザルスケトルで冒険者をやっているのだ? たしかにこの街は始まりであると同時に、最終決戦の舞台にもなるのだが……。
ついでにコーリー。この子のことは、エリィは徹頭徹尾、知らない。
ゲーム「Iscardia」では仲間にならないし、重要人物にもこの子の名前は無い。
◆◇◆
「うぅ~っ!! だれもわかってくれない……!」
それらの事柄が一気に頭を掻き乱し、エリィはついに叫んでしまったのだった。
狼狽えるアルネットとコーリーを他所に、一人落ち着きを保っていたアトラファが、エリィに向けて問いを放ったのは、この時だった。
「どうして、エリィは地球を知ってるの?」
◆◇◆
その言葉を聞いた途端、エリィが嘘のように泣き止むのをアルネットは見た。
――ちきゅう?
コーリーを見やると、彼女はふるふると頭を振る。
それってもしかして。もしかしなくても、エリィの故郷の――。
喉から手が出るほどに追い求め、それでも掴めなかった情報。
まさかエリィ本人の口から出るとは。あんなに訊ねても曖昧な情報の断片しか得られなかったのに。「勇者」の話から記憶が手繰り寄せられたのか。
本当は思い出していたのに黙っていた、とは思いたくないが……ともあれ、知りたい。
口を開きかけたアルネットを片手の平で制し、視線はエリィを捉えたまま、アトラファが言う。
「慌てないで。……エリィは地球に住んでた人? 本当に?」
「う、うん」
「地球人なら、この質問に答えられるはず」
そうして、アトラファはよく分からない何事かをエリィに尋ねた。
小声で聞き取り難かったわけではない。その単語の意味が分からなかったのだ。
アルネットにも、コーリーにも。
エリィとアトラファの間でだけ伝わる、暗号のような何か。
その言葉の内容は、こうだった。
「〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇を知ってる?」
対してエリィはまるで――不可解な物を目にするような顔をした。
その表情を受けて、アトラファの目には一瞬だけ落胆の色が揺らめいた。
しかし、エリィはたどたどしくも唇から答えを紡ぎ出した。
「しってる……。地球のゆうめいな楽曲……だれもが、いちどくらいは聴いたことがある……でもなんでアトラファがそれを、」
「歌えるっ!?」
一転、喜びを湛えたアトラファが寝台から飛び降り、両手でエリィの手を包み込んで顔を見つめた。
その☓印の双眸は、喜びのあまりか四角に見開かれていて――。
的外れな例えだと自嘲することになるが、この時のアトラファはまるで「好きなお歌をうたって、うたって」と母親にせがむ子供のようだと、アルネットには思えた。
「エ、エリィには……うたえない。聴いたことはあるけど……」
「……そうか。やっぱり難しい歌なんだ」
喜びに見開かれていた瞳が、きゅっと☓印に戻る。
再び落胆を目に宿したアトラファは、エリィの手を離して寝台へ戻り、すとんと腰を下ろした。
かろうじて聞き取れるくらいの声で、ぽそぽそと独り言を呟いている。
――でも、地球は本当にあったんだ。あいつの作り話じゃなかった。
そんなようなことを。
◆◇◆
こうしてアルネットとエリィが〈しまふくろう亭〉にやって来て、二日目の夜が更けて行った。
……いくつかの言葉を、アルネットとコーリーにもたらして。
地球――それがエリィの故郷の名。




