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コーリーとアトラファ ⑦

 ずどっ!

 鈍い音が聞こえた。

 アトラファと黒い雌鹿は、交錯したその場所でもつれ合って共に倒れた。


 コーリーは。コーリーは祈るしかなかった。アトラファの勝利を。

 もしも立ち上がるのが黒い雌鹿だったなら、自分の生命は無い。

 だからアトラファに勝って欲しかった。森の安全だとか、正義も何も関係ない。ただコーリー自身が生き延びるためにアトラファに勝って欲しかった。

 どんなに浅ましくても、それが本音だった。


 そして――。

 立ち上がったのは、アトラファだった。

 倒れ伏した黒い雌鹿の身体の下から、アトラファが這い出してくる。


「……ちょっと、ゆだんした」


 たり、と垂れた鼻血を拭いながら、アトラファは言った。

 コーリーはアトラファに飛びついた。


「アトラファ、すごい! すごい!」


 左腕は上げることも出来なかったが、右腕をアトラファの背中に回し、ぐりぐりとアトラファに頬ずりした。アとラファは目を白黒させながら抱擁を受け入れた。

 コーリーは腕の痛みもこの時ばかりは忘れ、生命を拾った喜びを噛み締めた。


 そしてまた、この戦いで生命を失った者もいる。それが怪物であっても。


 ――黒い雌鹿の死骸は、完全に凍り付いていた。

 アトラファが最後に放った、氷の精霊法の効果だった。


 死骸はその末端から徐々に白く変化し始め、やがて全身が白化したかと思うと、瞬く間に崩れ、塵となって消え果てた。

 あれほどに強く、恐ろしかった怪物が、瞬く間に消えてしまった。

 その様子を見守っていたアトラファがぽつりと言う。


「……魔物は、死んだらこうなるの」

「あれが魔物だったの? 本物の魔物?」

「うん」


 アトラファは、黒い雌鹿の死骸があった場所に跪くと、何かを拾い上げる。

 ひと粒の、赤黒い石。


「それは……?」

「魔物が死ぬとこれが残るの。血核って呼ばれてる。これをギルドに持って行けば討伐が成功したことになって、報酬がもらえる」


 アトラファはその赤黒い石を懐に入れようとし、ふと思い付いたように、それをコーリーに差し出した。


「いる? お金になるよ?」

「い、要らない。やっつけたのはアトラファだし、アトラファのにして」

「そう……」


 アトラファは赤黒い石を懐にしまった。

 お金になると言われても、いかんせん、恐ろしい黒い雌鹿から出てきた物は薄気味悪くて受け取る気になれなかった。

 何より、あの怪物と勇敢に戦い勝利を収めたのはコーリーではなくアトラファだ。報酬を受け取るのもアトラファでなければならなかった。


 その後、アトラファはまずコーリーの左腕の負傷を診た。


「……折れてない、と思う。街に戻ったらすぐ医者に診せたほうが良いけど……痛む?」

「うん。今もすっごく痛いの……」

「なら、いちおう吊っておく」


 アトラファは自分の荷物から布を取り出し、テキパキとコーリーの応急手当てをしてくれた。その荷物は魔物との戦闘が始まる前に置き捨てていた物だという。

 コーリーの荷物より容量が倍くらい違う。

 ピクニックに行くようなリュックを背負ったまま、採取に没頭していたコーリーとは何から何まで違う……。

 アトラファは小さな薬瓶を取り出し、コーリーに手渡した。


「これ鎮痛剤。でもまだ飲まないで」

「なんで?」


 痛みを抑えられるのなら、すぐにでも飲みたい。


「飲んだら眠くなるから。荷物とコーリーをいっしょに背負っていくのは、無理」

「そう……そうだよね……」


 我慢することにした。

 腕は痛い。本当に痛いが、見ず知らず同然の自分のために命懸けで戦ってくれたアトラファに、これ以上の迷惑を掛けるのは憚られた。


 アトラファは砕け散った朽木の残骸とその周辺を調べ回っていた。

 まだ何か危険があるのかとコーリーは不安になったが、何をしているのか問うと、飛び散ったコーリーの道具を探してくれているのだという。


「ダメになってるやつもあるけど、使えるのは回収しておく……いるよね?」

「うん……いる。ありがと……」


 その上、アトラファは無事なホタルヤドリタケをも拾い集めてくれた。

 黒い雌鹿の攻撃で、コーリーが集めたものは袋ごと砕かれていた。

 そして、その後の戦闘で森のキノコ畑も荒れ果てていた。


 アトラファはその中から状態の良いキノコを集め、袋に詰め直し、自身の荷物の上に載せた。そして事もなげに振り返った。


「じゃ、帰ろう」

「あ、あのね、アトラファ。なんで」


 なんで、そこまでしてくれるの。

 その問いを口にするより早く、アトラファは背を向けて、ランプを手に森の出口を目指して歩き出した。コーリーは慌ててその背中を追った。


 左腕がズキズキと痛み、額からは脂汗が噴き出したが、コーリーは懸命に歩いた。アトラファが二人分の荷物を持ち、山刀で下草や木の枝を打ち払ってくれなければ、到底、森の出口に辿り着くことは出来なかっただろう。

 痛みに耐えて歩きながらも、コーリーの胸の中には一つの疑問がずっと居座っていた。


(何でこんなに良くしてくれるんだろう?)


 アトラファは、出会った時から「異常に」親切だった。

 いくらコーリーが同じ年頃の少女とはいえ、なんの理由も無く風呂を覗いた相手を泊めてくれるものだろうか。

 更には、たったそれだけの接点しかないコーリーの窮地に駆けつけ、自らを危険に晒してまで戦ってくれた。アトラファがそこまでする理由に、コーリーはとんと見当が付かなかったのだ。


 前を歩く金の眼の少女がどういう人間なのか、コーリーは全く知らない。もしかすると何かを企んでいる悪人である可能性だってある――。


(そんなこと考えちゃ、だめ)


 コーリーは頭を振って、胸に湧き上がった疑念を打ち消そうとした。

 アトラファがどんな人間だろうと、何を考えていようと、コーリーのために戦い生命を救ってくれたことだけは、疑いようのない真実だ。


 暗い森の中を、二人は言葉も無くひたすらに歩いた。

 そして、ようやっと木立から抜け出した時には、西の空がオレンジ色に染まっていた。



     ◇◆◇



 街道に繋がる小道。

 小川のせせらぎが聞こえる辺りで、アトラファが「野営する」と言い出した。

 まだ日がある内に薪を集めるから、コーリーはその辺で休んでいろと。


 コーリーは、まだ歩けると主張した。

 腕の痛みと疲労はあるものの、今夜は人気のある場所で眠りたかった。あんな恐ろしい目にあった森のすぐ横で眠るのはぞっとしない。

 王都までは二時間。到着する頃には晩の刻を過ぎ、城門が閉まっているが、南門の外には〈影迷街〉がある。


 あそこにだって宿屋くらいあるだろう。治安が悪いとはいっても、魔物が出る森の近くよりマシのはずだ。

 しかし、アトラファはコーリーの主張を却下した。


「あそこはダメ」

「どうして? 私、まだ歩けるよ。街の近くの方が危険が少ないと思うし……」

「〈影迷街〉は魔物より怖い人間が棲んでる。怪我してるコーリーを連れて行っても守り切れない。昼に通るだけなら良いけど、夜は絶対にダメ」


 そういえば、今朝コーリーを荷馬車の荷台に乗せてくれたおじいさんも、「昼に通り抜ける分には何も起こらない」みたいなことを言っていた。やはり、あの場所を夜に訪れると何かがあるのか。


 結局、コーリーはアトラファの言に従った。

 今日だけでいくつも失敗を犯し、生命すら脅かされた自分だ。先達者の意見は真摯に受け止めるべきだった。


 アトラファは小道の脇の、大きな針槐の木が立っている平地を野営地に選んだ。

 小川の近くの方が水場も近いし良いのではないかと提案したが、「万一、夜中に雨が降ったら大変だから」と、これも却下された……。

 自分は雨が降ったら水没しそうな水路の側の小屋に住んでいるくせに。


 石を積んでかまどを作った後、二人は薪を拾い集めた。

 休んでいて良いとは言われたものの、じっと座って腕の痛みに耐えているよりは、何かしている方が気が紛れたので、コーリーは薪拾いをさせてもらった。


 森の近くなので薪にはこと欠かない。

 拾い集める途中、コーリーは野ばらの群生地を発見した。


 ちょうど開花期のようで、薄桃色の五枚の花弁を開いた花がコーリーの目を楽しませた。野ばらの茂みの下には、詰め草が繁茂していた。こちらも開花期のようで、すでに花開いているもの、まだ蕾のものが混在している。


 晩春の、美しい自然の風景であった。

 ところで、野ばらも詰め草も、その新芽を食用にすることが出来る。

 野ばらや詰め草の柔らかそうな新芽をぶちぶちと手折り、左腕を吊っている布に仕舞い込んだ。

 ……今夜のおかずにしよう。


 野営地に戻ると、すでにアトラファが火を熾していた。

 食べられる野草の採取にかまけていたため、遅れてしまった。

 アトラファは簡易かまどの上に小鍋を載せ、湯を沸かしている。


「これ、いい?」

「いいよ」


 コーリーが採取した野草を取り出すと、アトラファは頷いてかまどの前を開けてくれた。

 沸騰した湯の中に、野ばらと詰め草の新芽を投入する。長時間は茹でず、緑色が濃くなった時点で取り出して冷まして置く。これで青臭さが抜ける。


 コーリーが野草の下処理を終えると、今度はアトラファが荷物の中から小さな釜を取り出した。口の窄まった丸っこい釜だ。これに麦をザラザラと入れ、小川から汲んだ水を多めに加える。今夜のメニューはお粥だ。

 アトラファはそこに塩と、キューブのような何かをぽとん、と落とした。


「それ、なに?」

「固形スープのもと。最近、冒険者の間で流行ってるんだって。野外でも手軽で美味しく作れるって」

「へぇ……」


 コーリーはまじまじとアトラファの手元を見た。

 アトラファは、それまで淀みなく調理していたのに何故か急にぎこちなくなって、そそそ、とコーリーから距離を取った。人見知りなんだろうか。コーリーは追求しなかった。


 それから、特に会話も無いまま、お粥は炊き上がった。

 アトラファは荷物からチーズを取り出した。そのまま齧ったら歯が折れそうな、かちかちのチーズだ。

 ナイフを使ってチーズを釜の中に削り入れる。


 チーズの香りが立ち込め、コーリーのお腹がくきゅっと鳴った。

 そこに、先ほど湯がいて冷まして置いた、野ばらと詰め草の新芽を加えたら完成だ。


「どうぞ」

「ありがと……」


 コーリーは粥をよそわれた木の椀と、匙を受け取った。

 左手が使えないので、両膝で椀を挟んで、右手に持った匙で粥を啜る形になった。

 固形スープとやらの効果か、麦粥は芳醇な旨みをコーリーの舌にもたらした。それにチーズの香りが加わり、野草のほろ苦さが粥の甘みを引き立てる。


「美味しい! ね、アトラファ!」

「……ん。美味しい」


 野外での夕食に満足した後、コーリーは渡されていた鎮痛剤を飲んだ。たちまち痛みが引く、というわけではなかったが、薬を飲んだことで少し安心した。


 アトラファが、針槐の大きく張り出した枝の下に二人分の寝床を作っていた。

 かまどから出た灰を撒き、その上に敷布を広げる。


「なんで灰を撒くの?」

「蛇が寄って来なくなるから」


 そうなんだ……。

 コーリーが知らない冒険者の知恵を、アトラファはたくさん知っていた。



     ◇◆◇



 針槐の枝の下に、二人は横になった。

 楕円形の葉が連なる枝の向こうに、星々が瞬いている。

 コーリーは、うとうとし始めていた。鎮痛剤が効き始めたようだ。

 眠りに就く前、ずっと聞きそびれていたことを思い切って尋ねた。


「……アトラファ、起きてる? あのさ、なんで……私を助けてくれるの?」


 問いかけるも返事は無かった。もう眠ってしまったのだろうか。

 横を見ると、アトラファは仰向けのまま胸の上で手を組み、星空に何やら祈っていた。


「ねぇ、アトラファ……?」

「……精霊にお祈り。今日はお風呂に入れなかったけど、どうかお許し下さいますように」

「お風呂に……」


 別に一日お風呂に入らないくらい平民には何でもないことだ。

 少量の水か湯で身体を拭くのが当たり前で、たっぷりの湯に毎日浸かることの方がおかしい。王都は水が豊富だが、湯を沸かすための燃料はそうでもないからだ。

 でも、アトラファにとってお風呂に入るという行為は特別な意味があるんだろう……。


「そっか……うん、そっか」


 そう思ったとき、コーリーは胸に巣食っていた疑念がすぽんと抜け落ち、お腹の奥へ消え去って行くのを感じた。


 アトラファは、悪人なんかじゃない。何かを企んでもいない。

 お風呂に入れなかったことで精霊にゆるしを乞う悪人なんか居るわけない。

 アトラファは、何を考えてるのか分からなくて、人見知りで、強くて優しくて……。


 つまり、良い子なのだ。

 ずっとそう思える根拠を探していた。コーリーは、アトラファを好きになりたかった。


「コーリー、さっき何か言った?」

「……ううん、何も言ってないよ」


 コーリーは思う。

 この子と、アトラファと友達になりたい。

 アトラファは「そう」と言って、それきり何も話さなかった。

 コーリーも何も話さなかった。何か話したかった。でも、伝えられなかった。


(なにが好きなの? ずっと王都で暮らしているの? どうして冒険者になったの?)


 聞きたい。知りたい。

 とりとめのない言葉たちが、泡のように生まれては、形を成す前に消えて行く。

 しかし幸いなことに、今この場で全てを伝える必要など無いのだった。

 何故なら、二人は生きている。明日も明後日も、コーリーとアトラファは、少しずつ互いのことを知って行けるのだ。それは何より幸福なことに思えた。


(私、生きてる。アトラファが助けてくれたから)


 暖かな希望が胸を満たしていた。

 やがて鎮痛剤の効果か、コーリーはまどろみの中に落ちて行く。


 ――針槐の枝の下、眠る二人の少女に、星の光が降り注いでいた。

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