黒き七竈の杖
トゥールキルデが、自分のいない間にやって来て、木のヘアブラシを持ち去ったことに気付いたティトは「この街を離れよう」と決めた。
お金も、何も持ってはいないけど。
〈影迷街〉は南の街道に繋がっているし、ベーンブル州を目指して歩くのも良いと考えた。ティトの故郷のスカヴィンズ州とは違い、暖かく肥沃な土地だと聞く。
いつでも水が汲めるよう、できるだけ川沿いの道を歩いて南を目指そう。
冬が来る前に、ベーンブルに辿り着けるように……。
ここで過ごしていた時のように、魚捕りの罠を拵えて川に沈めておく時間なんて無いだろうから、道中では食べられる野草なんかも探すことになるだろう。
火熾しは問題ないけど……出来るだけ早めにお金を稼ぐ方法も考えなくては。
旅に必要な物は持って行こうと、ガラクタ箱を漁っていたティトは、木のヘアブラシに加えて、刃先の欠けたナイフも無くなっていることに気が付いた。
あれもトゥールキルデが持ち去ってしまったのだろうか。刃物なんか、どうして……。ティトは、はっとあの夜のトゥールキルデの姿を思い出した――血まみれの姿を。
(……あの夜の戦いに使ったんだ)
我知らず、フォスファーの墓を見やったティトは、平たい石に軽石で字を書き付けただけの粗末な墓標の手前の土が、誰かに振り返されていることに気付いた。
周囲の土はすでに乾いているのにそこだけ少し、湿っている。
誰が。たった一人しか心当たりは無い。
そこを掘ると、ごく浅い場所に、数枚の銀貨が埋められていた。
「そう、だよね……」
なんにも無かったわけじゃ、ないもんね。
二人と一匹。橋の下の家での生活。
トゥールキルデもフォスファーも、命懸けで助けてくれたのに、最後の最後であたいが裏切っちゃった。
銀貨は、これからの旅路に何よりも必要なものだったが、ティトはそれらを全て埋め戻した。これはフォスファーのものだったから。
フォスファーにはもう会えないけど――もしも、いつかまたトゥールキルデに会えたら、「ありがとう」って言うよ。
――たとえその時、あんたが魔物になっていたとしても。
◆◇◆
もう二度と、訪れたくはないと思っていた――ドミナの薬草園。
ティトが薬草園にやって来たのは、トゥールキルデがここに居るかもしれない、と思ったからではない。
フォスファーもドミナも死んだ。たぶん、ベルガも。
そして、トゥールキルデは何処かへと去ってしまった。
生き残ったあたいが、やらなければならないことがある。
それは、薬草園の最も奥にある魔樹――黒い七竈を、伐り倒すこと。
あれが魔物としての本領を発揮する前に、あるいは、ドミナのような誰かが「自力で動けない植物の魔物」を利用しようと思い付かないうちに、始末しておかねばならない。
トゥールキルデは、正しかった。
やっぱり、あの時に伐り倒しておくべきだった。
◆◇◆
薬草園に辿り着くと、いつもドミナが茶を飲んでいたテーブルは砂埃塗れになっており、ベルガが使っていたジョウロの取っ手と注ぎ口の間には、蜘蛛が巣を張っていた。
園内の草花は萎びて、比較的に逞しいはずの甘茶蔓も、石畳の上に伸び切ってぐったりとしていた。
……たった数日、手入れをされないだけで、こんな風になるんだ。
ドミナとベルガの二人が、あまり此処を離れなかったわけだ。
ティトは、息を殺し、慎重に薬草園に忍び込んだ。
二人が実はまだ生きていて、薬草園に潜んでティトを待ち受けている――と考えたのではない。〈影迷街〉の住人が、二人が死んだのを好機として、すでにこの薬草園を占拠していないかを恐れたのだった。
……薬草園の内部には、人の気配は無かった。
ティトは念のために、甘茶蔓を収穫する時に使った剪定鋏を棚から取り出し、薬草園の奥へと向かった。
――そこにはやはり、あの樹があった。
ベルガが居なくなり、ドミナも居なくなり、トゥールキルデもフォスファーも居なくなっても、その樹だけは依然としてそこにあった。
周囲の薬草は枯れ果てようとしていても、黒い七竈の樹だけは、爛々と黄金の光を枝葉の隅々にまで行き渡らせながら、そこに根を下ろしていた。
(〈影迷街〉を離れる前に、ここに来て良かった)
ティトはそう思った。心から。
こいつを見つけてしまったから、ドミナは狂ってしまったのだ。
ベルガも多くの子供を犠牲にせずに済んだはずだ。
こいつを倒すことこそが――あたいの使命。
持っている剪定鋏を両手でいっぱいに開き、七竈の細い幹に押し当てる。
もっと太い幹だったなら、鉈や斧が必要だっただろう。
(でも、こいつは……!)
鋏なんかで切れるだろうか?
疑問を抱きつつ、ティトは力いっぱいに鋏を閉じていく。じわじわと鋏の刃が幹に食い込んでいくのが眼に見えたが――バギンッ!!
黒い七竈の幹を完全に断つ前に、鋏は左右の刃の留め具が壊れて、反動で飛んで行ってしまった。その際、思わず眼を庇ったティトの手を、鋏の片割れがかすめ、浅い傷を作った。
ティトは、怪我をして流れ出た血はそのままに、深く切れ込みを入れた黒い七竈の幹を蹴った。何度も蹴った。
黒い七竈の樹は、悲鳴を上げるように、金色の光をその葉脈から幾度も明滅させていたが……ついに、
――――キイィィ――――ィン。
普通の樹木の繊維が裂けるメキメキという音ではなく、金属的な高い音と共に、薬草園の魔樹は地に倒れた。
切り株は瞬く間に白い石に変質し、それすらも砂塵となって崩れていく。
ズン、と大きな衝撃が来て、ティトの足元の石畳が沈んだ。
驚いた、が……黒い七竈の魔物が死んだことで、薬草園の地中に張られていた根も白い塵となって崩壊し、その分だけ地面が陥没したのだろうと気付いた。
地上に出ていたのは若木みたいに見えたのに――この樹は、地中でどれだけの血をすすっていたのだろう。
(でも、これで……)
全ての後始末は済んだ。
心置きなく――とは、とても言えないけれど、出来る限りのことはした。やっとこの街を出て行ける。
そう思って、薬草園を後にしようとしたティトの視界に、有ってはならない物が映った。
――黒い七竈の樹……地上に出ていた部分。
さっき、ティトが剪定鋏で伐ろうと試み、結局は切れ込みを入れた箇所を蹴りに蹴って倒した部分。未だに黒曜石のように黒く、金色の光を弱々しく光らせていた。
まだ生きてる。切り株と違って、白い石になってない。
止めを刺さなければ。勝手に根を伸ばすかも知れないし、誰かが挿し木にして生き長らえさせようとするかも知れない。
魔物になったナナカマドが挿し木で育つのかは知らなかったが、このままにしては置けない。こいつが完全に滅びる様をこの目で見なければ、この〈影迷街〉を去ることなど出来ない。
「………………」
鋏は壊れてしまったが、どうにかしてへし折ってやろうと、ティトは黒い七竈に歩み寄り、死に掛けの魔樹を慎重に拾い上げた。つい先程、鋏が壊れた時に怪我をした手で。
瞬間――根っこを失って生き延びすべはないはずの、黒い七竈の魔物は、急に元気づいて金の光を強く放ち始めた。
ティトは、呆然とその光を見た。
手を離そうとしたが、吸い付いたかのように離れなかった。
(こいつ、あたいの血を飲んでる……あたいを食べようとしてる?)
ドミナが言っていた――魔物は子孫を残さない。
それなのに、この魔物化したナナカマドの樹は、実をつけている。だとするなら、この実は繁殖のためではなく、黒い七竈の樹にとって何らかの「都合の良い結果」をもたらすものに違いない、と。
ティトは理解した。
この魔物は、黒い七竈の樹は、生き延びようとしている。
失った本当の根っこの代わりに、ティトを「根っこ」として利用しようとしている。
「お前なんかの、思い通りに……!」
魔物とはいえ、死にかけの奴なんかに操られたりはしない。その折れた若木を投げ捨てようとする……やろうと思えば出来た。
でも、ティトはそうしなかった。
――トゥールキルデ。あの子との別れ際の顔が、脳裏をよぎったからだった。
もしも、あたいが〈土の民〉じゃなくて精霊法のような力を使えたら。
そしたら、ちょっとでもあの子の役に立てたのかな?
フォスファーを死なせないように、上手く立ち回れたのかな?
……あの子を、失わずに済んだのかな?
「あたいは……」
ティトは――魔樹の若木を折ることを止めた。
〈土の民〉として生まれてしまったけれど、後ろめたい生き方はしたくないと思っていた。誰に恥じることなく生きたいと。
――もう、その生き方はやめる。
この黒い七竈の樹は、あたいを支配しようとしている。
失った「根っこ」の代わりにしようとしている。
そうはさせない。逆に、あたいがお前を支配してやる。お前の魔物としての能力を解き明かして、利用してやる。
トゥールキルデ――もし次にあんたに会えたら「ありがとう」って言うよ。
あんたに出会えて良かった。
あたい、ちょっと強くなれた。これからはもっともっと、強くなる。
ティトは駆け出した。
黒い七竈の樹を、その両腕に抱えて。
――そして、薬草園には誰も居なくなった。
◇◆◇
コーリーが「アトラファ」に出会うより、六年前の出来事――。




