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諸人の上に、夜の帳が下りるように ⑧

 熱をもって痛む両眼を擦りたかったが、自らの手を見ると、乾きかけた血が爪の間にまで真っ黒くこびりついていた。

 わたしは、汚れた自分の手の平に視線を落とす。


「………………」


 難局を乗り越えたというのに、ひどく気分が優れなかった。

 それでも、必要なことを成した結果がこれなのだと、自分に言い聞かせる。

 ――その時、


「トゥー……ル、キルデ……」


 呻くような声が聞こえてきて、わたしはぎくりとして、そちらを見やった。

 ドミナ。まだ息がある。だがもう何も出来はしない……身体の下半分を失って、息絶えるのを待つだけ。


 でも、お前は喜びの野には行けない。

 フォスファーの魂が導かれたであろう楽園と同じ場所には、決して。


 眼の痛みが強まるのと共に、また、何かをぶち壊してやりたいという衝動がこみ上げてくる。

 わたしは衝動に従って、瀕死のドミナに歩み寄った……止めを刺すために。

 この怒りはきっと正当なものだ。だからぶつけて良いんだ。

 そんなわたしに、息も絶え絶えのドミナが言った。


「お、前は……私の、身体の半分を……、何処にやってしまったのだ?」


 知るものか。

 楽園から最も遠い場所に、消し飛ばしてやっただけだ。

 わたしは怒りと破壊の衝動にまかせ、ドミナの「残り半分」も消し飛ばしてやろうとした。

 再び始動鍵を唱えようと口を開きかけると――先んじて、ドミナが続けた。


「『障壁を作る、守りの能力』だと? 見誤った……真実は……『殻』だ」


 げふ、と血を吐き出す。

 わたしはドミナの言葉を最後まで聞くべきかどうか、少し迷った。

 それに構わず、ドミナは勝手に喋り続ける。

 もはや、わたしに語りかけているのか自らに言い聞かせているのか、その境すら分からなかった。


「『殻で閉ざす能力』……お前が殻を作り上げ、自身を覆い尽くした時――消え去るのは、殻の内側にいるお前なのか? それとも殻の外側の世界全てなのか?」


 突然、――ああ! と叫び、ドミナは夜空に手を伸ばした。


「申し訳ありません、陛下! ……世界を滅ぼすやも知れぬ魔物を見つけながら、私は討ち漏らしました……!」


 ドミナは、わたしにでもなく自分自身にでもなく、この場所には居ない誰かに対して、懸命に訴えていた……虚空に向かって。

 死の間際、異常に饒舌になって、見えない「陛下」と会話していたドミナだったが、ついにその時は訪れる。


「何処に行かれるのですか。イスカルデ様……貴女がいらっしゃらないと……私は、私たちは――」


 伸ばされた指先が、弱々しく震える。

 結局、わたしはドミナの独白を、最後まで聞くことになった。

 王都近郊にあって無法の地〈影迷街〉――そこに居を構え、魔物を狩り、人も狩っていた女、ドミナ。


 その女が最期に残した言葉は、



「……。寂しいのです――」



     ◆◇◆



「――ティト? ……いるの?」


 待ち望んでいた声が聞こえた気がして、ティトは再び意識を取り戻した。

 開かられた戸口に見える影も、ドミナではない、小さな子供のような影。

 トゥールキルデが勝ったのだ。


 ……しかし、ティトが身を起こしても、トゥールキルデは駆け寄って来てはくれなかった。

 うろうろと両手を彷徨わせながら、辺りを探っている様子だった。

 ティトは、血塗れの手で自分を求める姿に、身体を強張らせてしまった。


「……どこ、ティト」


 ティトは息を殺して、その様子をただ見ていた。

 この時にティトは「あたいはここにいるよ」と言って、トゥールキルデの手を取るべきだったに違いない。

 でも言葉が発せられなかった。


「……ティト、わたし眼が痛くて。何処に居るか言ってもらわないと、分からない」


 その両目の端から、血の滴が流れ落ちた。

 目前にトゥールキルデが迫って来ていても、足を竦ませたティトは手を取ってあげることも、逃げ出すことも出来ないでいた。


 ティトは、濁った金の双眸に、ぴしっと横一文字にと亀裂が入る瞬間を見た。

 亀裂は両端からめりめりと二股に裂け、トゥールキルデの瞳に×印を刻んだ。

 同時、美しかった銀の髪は、ざあっと一気に灰色に変わっていった。


「あ、あぁっ……!!」


 その変身の過程を、ティトは全て目の当たりにした。

 このトゥールキルデは……ティトの友達の、人間のトゥールキルデなのか。それとも黒いヤモリや七竈と同じ、魔物になってしまった生き物なのか。


 判断は付かず――そして、ティトはまたも選択を誤った。


「ティト?」


 ×印の瞳と、目が合う。視力が回復したのだろうか。

 手が差し伸べられる――。


 トゥールキルデが差し伸ばした手を、ティトは振り払ってしまった。

 その瞬間の、トゥールキルデの表情を、一生忘れることは無い。


 それと同じ表情を、ティトはすでに見たことがあった。

 人買いの商隊に連れられていた頃、何度も見た。

 親に売られたことを知った瞬間の、子供の表情。


 その表情をかつてティトもしていたはずだった。それなのに……。

 ティトは過ちを悟った。今の自分の行動が、いかにトゥールキルデの心を傷付けたか、自らの経験を以って知った。


「あ……」


 トゥールキルデは、ふらふらと視線を巡らせた。

 開け放たれた戸口の外の血だまりを見て、血が真っ黒に乾いた自分の両手を見て、もう一度ティトの顔を見た。

 ティトの瞳に映っている、異形へと変貌しかけている自分の姿を。



 ――違うの、トゥールキルデ。びっくりしただけなの。



 せめてこの時、そう言えていれば――。

 何も言えなかったティトの前から、トゥールキルデは姿を消した。

 背を向けて駆け出し、闇夜の中へと消え去った。



     ◆◇◆



 ――フォスファーの遺骸だけは、このままにして置けないと思った。

 ティトは、血だまりの中からフォスファーの身体を抱き上げ、橋の下の家に戻った。


 あれからティトは、橋の下でトゥールキルデが帰って来るのを待ち続けた。

 トゥールキルデが帰って来たら、謝ろう。

 あの時、助けに来てくれたことにお礼を言えなかったこと、差し出された手を振り払ってしまったこと。

 そして、もう危ないことはしないことにしよう。


 アイオリア州かベーンブル州か、何処か暖かい土地に移り住んで暮らそう。

 燕麦や蕎麦の育て方はティトが知っている。トゥールキルデにも教えてあげる。

 毎日いっしょにご飯を食べて、たくさん話をして、喧嘩をして仲直りをして、雲が無い夜には、星を指差して歌おう。


 ――そんな想像をしながら、ティトは泣いた。


 なんであの時、トゥールキルデの手を取ってあげられなかったんだろう。

 世界でたった一人、自分だけは、トゥールキルデの側に居るべきだった。

 あの手を振り払ったりしてはいけなかった……。


(トゥールキルデが帰って来たら……)


 あの子の好きなご飯を作ってあげよう。

 いっつも自分の好きなものしか食べないけど、好き嫌いも許してあげよう。

 あの子の宝物の、木のヘアブラシで、髪を梳かしてあげよう。

 あの夜、トゥールキルデの髪が銀色から灰色に変わってしまうのを見た。

 でも、髪の色が綺麗だったから、梳かしてあげていたんじゃないんだ。


 ――トゥールキルデが好きだったからなんだよ。


 もう一度、それを伝えよう。

 あの子が、トゥールキルデが帰って来たら。



     ◆◇◆



 橋の下で三日ほど、物もろくに食べずに待った。

 トゥールキルデが帰って来るとしたら、この橋の下しかないのだから、離れるわけにはいかなかった。


 書き置きを……駄目だ。トゥールキルデは字を読めないんだった。

 こんなことなら、勉強嫌いのトゥールキルデが簡単な文章を読めるくらいには、字を教えておくんだった。そうすれば書置きを残した上で、あちこち探しに出歩けたのに。


 四日目の朝、ようやくティトは、トゥールキルデは戻って来ないのではないかと考え始めた。


(なら、やっぱり探さないと)


 ティトは橋の下を離れ、トゥールキルデを探しに行くことにした。

 この〈影迷街〉にいるとすれば――お金は持っていないだろうから宿屋ではない。もう秋が深まろうとしている時期。どこか、夜露をしのげる場所にトゥールキルデはいるはずだ。


 会うことさえ出来れば、いくらでもやり直せる。

 暖かい所に移り住んで……トゥールキルデは勉強が嫌いだから、農業を覚えないかも。でも強くて精霊法を使えるから、正規の冒険者にはなれるかも。

 そしたら、あたいは家でご飯を作ってトゥールキルデの帰りを待とう。

 トゥールキルデは冒険者として働いて、あたいをいつもハラハラさせて、そして帰って来る。


 そんな未来の夢想に耽り、ほろほろと涙をこぼしながら、トゥールキルデを捜し歩いた。

 けれど〈影迷街〉の中でティトが思い当たる、ほとんど全ての場所にトゥールキルデの姿を見つけることは出来なかった。



     ◆◇◆



 丸一日、トゥールキルデを探し歩き、橋の下に帰り着いたティトは、何となく違和感を覚えた。何かが棲み家を空ける前と違っている気がした。


 とりあえず、ガラクタ箱を開けてみる。

 ティトの財産といったら、ここに入っているものが全てなのだから、例えば泥棒が来たのだったら、ガラクタ箱を開ければ何が無くなっているのかすぐに分かるのだった。


 箱を開けたティトは知った。友達を永久に失ったことを。

 あの、木のヘアブラシだけが無くなっていた。今のガラクタ箱には、大した額ではないけれども値打ちのある物も詰まっている。

 それらは全部残っているのに、思い出深い、互いの髪を梳かした木のヘアブラシだけが無くなっていた。

 ティトは、ガラクタ箱の中身を地面にぶちまけて、木のヘアブラシを探した。


 見つからなかった。

 それは、トゥールキルデがここに来たこと、そしてもう二度とティトに会うつもりが無いということを意味していた。

 ゆかりの無い泥棒の仕業だったら、木のヘアブラシだけを選んで盗んでいくはずが無い。

 トゥールキルデがここに来たんだ。ティトの居ない時間を見計らって。

 そして、木のヘアブラシを持って何処かへ行ってしまった――。


 ――ティトは、泣き叫んだ。

 あの夜、トゥールキルデの手を振り払ってしまったことを、過ちを犯してしまったことを悔やんだ。

 ただ一度の過ちに、弁解の機会さえくれないトゥールキルデを、心の中でなじった。何もかも、取り返しは付かなかった。

 そしてまた、何日もかけて、ティトは受け入れた。



 ――トゥールキルデを失ったことを。

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