雌鹿の魔物 ②
絶対に生きて帰ってやる。
コーリーは両手の中に生み出した風の糸玉を、更に圧縮させた。
石よりも硬く、矢よりも速く――。
「《弾けて礫の如くなれ》!」
キキュン。と空気が軋んだ。
風の糸玉はもはや糸玉ではなく、周囲の景色が歪むほど濃密に圧縮された、空気の砲弾となった。
それまで圧倒的な優位に立ち、獲物を品定めしていた黒い雌鹿は明らかに怯んだ。本能的に危険を感じ取ったのか、初めて防御や回避と受け取れる行動に移った。後退して朽木を盾として利用したのである。
攻守は逆転した。コーリーは風の砲弾を撃ち放つ。
「行けっ!」
放たれた砲弾は、瞬きの間も必要とせず、盾となった朽木に着弾する。
ごぅ―――――っ!!
爆風がコーリーの髪を揺らす。
そこにもたらされた破壊は、貫通などという生易しいものではなかった。
大気を震わす轟音と共に朽木は爆砕した。紙切れが飛石を防ぐ盾となり得ないように、朽木もまた、風の精霊法で作り上げられた砲弾を防ぐ盾には成り得なかった。
ホタルヤドリタケの胞子が、もうもうと辺りに立ち込める。
コーリーは様子見をせずに、素早く移動した。
胞子の煙が晴れるまで待つ、という選択肢をコーリーは選ばなかった。
相手は得体の知れない怪物だ。全くダメージが無いということは考えたくなかったが、いつまた煙の向こうから伸びる舌の攻撃を放ってくるか分からない。
「《賢き小さき疾きもの》……」
コーリーは射撃位置をずらしながら、口の中で小さく始動鍵を唱える。
煙が晴れてあいつの姿がちらとでも見えたら、二発目を食らわせてやる。
やがて薄れてきた煙の中に、よろめきながら立ち上がろうとする黒い雌鹿の影が見て取れた。効いている。むしろ「あれを食らっても倒し切れない」ということこそ驚嘆に値すべき、黒い雌鹿の怪物たる所以だったが、間違いなくダメージは負っている。
「――《弾けて礫の如くなれ》!」
コーリーは二発目を撃った。
胞子の煙を切り裂いて飛翔した風の砲弾は、ようやく体勢を立て直しつつあった黒い雌鹿の胴体に直撃する。黒い雌鹿はもんどり打って煙の奥に吹き飛ばされた。
やった。今度はこの目で直撃する所を見た。
気力との勝負だが、このまま遠距離戦に徹していれば勝てるかも知れない。いや、勝つ。勝って生きて帰る。
帰ったら報酬を受け取って、美味しいご飯を食べて、いつか〈学びの塔〉に戻るんだ。
油断だってしない。一発撃ったら煙が晴れる前に射撃位置をずらして――。
――ばしぃっ!
ほんの一歩。コーリーが立ち位置をずらした、その一瞬前に立っていた地面を、煙の向こうから放たれた攻撃が打擲した。
「えっ……きゃ!」
不意を突かれ、運よく尻もちをついたコーリーの頭上を、追撃が通過していく。
言うまでも無く、黒い雌鹿の鞭のような舌による攻撃だ。
ダメージからの回復が早すぎる。風の砲弾を食らって、さっきはよろめいていたのに。
コーリーは歯噛みしながら、立ち上がって走り出す。
黒い雌鹿の攻撃は苛烈さを増してきていた。
狙い澄ますのを止めたのか、「口が開くのを見てからでも避けれる」と思った時に比べて精度は落ちている。しかし一歩も足を止めていられない程の連続攻撃だ。一撃でも当てられたら、即死か行動不能は避けられない。
再び攻守は逆転した。
なまじ善戦してしまったために、相手を本気にさせてしまったことをコーリーは悟った。
「でも、諦めない……負けない……!」
防戦一方のままでは、やがて追い詰められるのは目に見えていた。
もう一度、攻勢に転ずるほか活路は無い。
「さ、《賢き小さき》……」
そうだ、攻勢に転じて、転じて……。
……その後どうする?
自分の、初級の風の精霊法で倒し切れるのか? 倒し切るまでに気力は持つのか? あと何発撃てる? こっちの攻撃は本当に効いているのか……?
心が千々に乱れた。
そして、そんなコーリーの心に、風の精霊は応えなかった。
手の中に形作ろうとしていた風の糸玉が、一瞬にして解け、霧散していく。
「あっ」
それは致命的な隙となった。
黒い雌鹿は頭を振り回し、射出して伸び切った舌を横薙ぎに叩きつけた。今まで見せたことのない攻撃に、コーリーは対応出来なかった。
――みしっ。
横殴りの一撃を受けた左腕から、嫌な音が鳴った。
くの字に折れ曲がったコーリーの身体は、一瞬だけ浮き上がった後、次の瞬間には森の広場の縁にまで吹き飛ばされていた。
光るキノコの中をごろごろと回転してから、コーリーの身体は静止した。
◇◆◇
「う……うっ……」
息が。息が出来ない。
それでも意識を失わなかったのは奇跡だった。
立ち上がろうとするが、上体を起こすための腕が全く使えない。
(うで。私の腕……どうなってるの?)
一撃を受けた左腕の感覚は無く、右手で触れて確かめようとするものの、失敗しバランスを崩したコーリーは、べしゃっとキノコ畑に倒れ伏した。
じわりと左腕が熱を持った……腕は、まだある。
けれども、その熱は一秒ごとに痛みへと変化していった。
コーリーは心が折れる音を聞いた。
ずしゃ、と湿った地面を踏みしめる音に顔を上げると、息が掛かるほどの間近に、黒い雌鹿の顔があった。
濁った金の双眸がすぅっと細められる。
仕留めた獲物を――肉を見る目だった。
コーリーの瞼に、あの食い荒らされた哀れなイノシシの亡骸が映し出された。
絶望……殺される。食べられて、死ぬ。
「……ゆるして。……食べないで……」
死にたくない。
大粒の涙がボロボロと零れ落ちて行く。
黒い雌鹿は、コーリーの懇願を、当然受け入れなかった。
その大顎ががぱりと開かれ、乱杭歯が覗く。そして――。
「――《凍てつく星の光、吐息に触れて粒となれ》」
朗々たる起動鍵の詠唱が、森に響いた。
黒い雌鹿はびくりと面を上げ、詠唱の源を探す。
コーリーは倒れ伏したまま、その聞いたことのある声の主に思いを馳せた。
彼女のことを何も知らない。
何が好きで何が嫌いなのか。どんな夢や志を持っているのかも。仲が良いとか悪いとか以前に、本当に何一つ、彼女について知っていることなど無いのだった。
強いてあげれば、お風呂にこだわりを持っていることくらいか。
コーリーが現実に打ちのめされ、落ち込み、蹲っていた夜。一晩の屋根と糧を分け与えてくれた少女。
「アトラファ……!」
なんで。何でここにいるの? 何でまた助けてくれるの?
アトラファは何も言わず濃紺のローブのフードを払って、コーリーと黒い雌鹿の間に立った。
灰色の髪。金の眼に×印の瞳孔。
コーリーの眼前に居るのは、あの夜に変な歌を聞かれて恥ずかしがったり、上手く言葉を伝えられなかった人見知りの少女ではなかった。その背中が、静かな自信と覚悟に満ちているのが分かる。コーリーがまだ知らない冒険者の背中だった。
アトラファの周囲を、指先ほど小さな六つの光球が回っている。
氷の精霊法だとコーリーは推測した。光球から発せられる冷気がこちらに伝わってくる。
アトラファは始動鍵によって精霊法を「発動」させるのではなく、「発動直前の状態で維持」し続けている。どうすればあんなことが出来るんだろう。〈学びの塔〉で中級や上級を修めている人でも、あんな技は使えなかった……。
黒い雌鹿は、苛立だしげに前足で地面を蹴っていた。
せっかくの「食事」を邪魔されたことに腹を立てているのだろう。
「――《指に触れて針となれ》」
アトラファが始動鍵を完成させると、六つの光球は鋭い針へと形を変え、ピタリと回転を止めた。その針先は全て黒い雌鹿へと向けられている。
一拍ほどの僅かな緊張の後、アトラファがおもむろに手をかざした。
呼応して、弾けるように黒い雌鹿が疾駆する。
〈縁あり銀〉の冒険者と、鹿の魔物との戦闘が始まった。




