喋る白猫は毛を繕う【短編】
「君はどうしてそんなに絵が上手いんだろう」
廊下に張り出された絵の中で、少年は一際目につく絵に見蕩れていた。
その絵は、黒い背景の全面に一匹の白い猫が座って毛繕いをしている絵だった。
少年はここのところ、何日間もこの絵の前で腕を組み、なんとなしに賞賛して帰っていく。
誰一人として生徒の姿は見えない放課後に、少年はすっかり静まり返った学校に居残ってその絵を獲物でも狩るような瞳で見ていた。
「またお前か、懲りずによく来るもんだ。」
白猫が喋り出した。
「君、喋れるの?」
少年の問いかけに白猫は何も答えなかった。
ただ、毛繕いをしている。
「懲りず、ってどういうこと?」
少年は真っ直ぐな瞳を輝かせ、明瞭な呂律で問いかける。
「誰かに言われるでもないのによく来るもんだなって言ったんだ。」
「ふうん。」
少年が言葉の意味を聞いた時も、それに答えている時も、白猫はずっと毛繕いをしていた。
廊下にある窓はどれも開かれており、時々吹く夏の風が張り出された絵をゆらゆらと揺らめかせた。
「君は、悩みとか、ある?」
「悩みなんかないさ、あったこともない。」
「そっか、偉いんだね。」
少年は感心して笑った。
白猫は変わらず毛繕いをしている。
「少年はどんな悩みがあるんだ?」
「僕のことはいいんだ。君のことを知りたい。」
「いいやだめだ。そう言うなら俺はもう喋らない。」
「分かったよ。僕、絵が下手って言われるんだ。」
少年の声が少し曇った。
「そうか、落ち込んでいるのか?」
白猫は誰にそう言われているのだとか、お世辞に上手だとか言うわけでもなく、そう聞いた。
「落ち込んでいるね。」
「絵が嫌いになりそうだったよ。」
後半、少年は嗚咽混じりにそう告白した。
白猫はそんな少年の姿に見向きもせず、ただ毛繕いをしている。
「少年、嫌いになるようなことをやるんじゃない。好きになったことだけをやるんだ。他に何かしろって言われても、他人なんだから無視して構わない。たとえ失敗して、人に笑われたり怒鳴られたりして泣き出してしまっても好きだと思えることを手放すことなくやり通せ。それが上達するための簡単な方法だ。」
白猫が全てを言い終える頃には、少年の頬を滴っていった涙は夏の風になぞられて乾いていた。
「ありがとう、白猫さん。僕は絵が好きだ。」
「そう、少年は絵が好きだ。」
「僕は絵が下手だ。」
「今はそうかもしれないな。」
「でも絶対上手くなってみんなに描けないような絵を描いてやるんだ。」
「そうか。」
「懲りずに、ね!」
少年は廊下に放っていたランドセルを肩にかけ、教師のいない学校の廊下を思いっきり、徒競走でも走るかのように早く走り抜けていく。
少年の足音がそこらじゅうにめいっぱい響き渡り、そのうち風は吹きやんだ。
そんな出来事から十九年の月日が経ち、世紀の画家とまで呼ばれた男がいた。
男は新聞記事のインタビューでこう語った。
「僕は小さい頃、自分の絵と話をしていましたね。まあ一度しか話したことありませんし、本当に話せていたのかもあの時だから分からないです。なにせまだ小学校低学年の頃でしたから。人に絵が下手だと言われた時に自分の絵を褒めていたら、ある日突然喋り出したんです。『懲りずによく来るもんだ』って。」
男の名前は世界中に響き渡り、一枚の絵を売れば高級な住宅でも丸ごと一軒、それに一流の家具も付け加えてもまだ釣りが来る程のかなり高価値なものだった。
それというのも、男の描く絵はほかの画家と似通う点が一切なく、技法も自分で開発したものを扱い、独創的で親しみのある絵であるためだ。
彼のデビュー作の名前は『白猫』。
どこかふてぶてしくも可愛げある表情の白猫が、忙しげに毛繕いをしている絵だった。




