私にも打算はあったから
小学校6年生のとき仁と結衣のクラスの担任だった笠谷翠は40代前半の女性教員である。赴任して10年がたち、別の小学校に異動になった。
保護者とも良好な関係を築いていた笠谷の異動は皆に惜しまれ、送迎会をやることになったのだった。
BBQになったのは彼女の希望。アウトドア好きらしい。
仁が結衣の相談を聞いた数日後の日曜日。送迎会当日。
仁は保護者の代表の一人である母親とBBQが可能な川沿いの施設の最寄駅に来ていた。
車で行かないのか?と思った仁であったがビールを買う母を見て納得した。
仁は母の血を色濃くついだことを感じた。
「じゃあ、みんなで準備しましょう」
その掛け声とともに一斉に準備に取り掛かる。
仁は結衣を守るにはどうしようか考えながら一心不乱に玉ねぎを切っていた。
「あれ、家でやらない割に包丁使うのうまいのね?」
「あー、母さんを見て覚えた」
嘘である。大学入学以来親元を離れていた仁は自炊は一通り覚えていたのだ。
「へー意外な才能」
結衣が近づいて来たので、母親が離れていった。あとで何聞かれるのか考えると憂鬱だったが結衣と会話するには都合が良かった。
「才能とは違う。一人暮らしが長いだけだよ。10年以上もやっていれば嫌でも身につく。」
「作ってくれる人いなかったの?」
「いなかったわけじゃないよ、それでも独身だったけど」
「どんな人?」
結衣は過去の恋愛について仁に聞いた。結衣はとても楽しそうな顔をしていた。完全に興味本位で聞いているのだ。
「普通のOLだったよ。大学の頃からの付き合いだったけど、俺が就職して別れた。」
「あとは?」
「合コンで知り合った人と何回か。どれも短期間だった。そういう酒井は?」
「秘密」
「なんだよ、それ」
笑っていると視線が刺さるのを感じた。母親の視線である。
気にしても仕方ないので、会話を続けた。
「母親がビール買ってるけど、さすがに飲めないよなぁ。BBQだしビール飲みたい」
「それは無理ね。私はワインの方が好きだから我慢できる」
「ワインと日本酒は次の日に残るからあまり飲まないようにしてる。」
「それはいいのを飲んでないからよ。いいワインは悪酔いしないよ。」
「おぅ、お金持ち発言。でも研修医とか大学病院の勤務医って儲からないんじゃなかったけ?」
「おじさんの医者は若い女に奢るのが好きなのよ。」
「なるほど。」
「友達はそれで不倫してたけどね。私は嫌だったから丁重にお断りしてた。」
仁は「自分もおじさんだから気持ちはわかる」と言おうとしてやめた。
そんな会話をしているとクラスメートが寄って来て、結衣を連れて行った。
遠くの方で、
「二人で何話してたの?結衣ちゃんと宮田くんて仲よかったけ?」
と聞かれているのがわかったが、結衣の反応は聞かなかった。
35歳になっても小心者なのは変わらないことに仁は自分で呆れた。
別の野菜を切ろうと思っていると、ニヤニヤしながら男子生徒が話しかけて来た。
「お前、酒井さんと何話してたんだよ。」
「医者はすごいなって話だよ」
仁は嘘にならない程度に適当に答えた。
話しかけて来たのは藤原治。仁の友人だ。仁が結衣に思いを寄せていることは知っているので揶揄いたかったのだろう。
「なんだよそれ。好きな人の話とか聞かないのかよ?」
「やだよ。きっと俺じゃない。」
「確かにねー聞いた話だと酒井さんは新城が好きらしいぞ」
「俺が凹むのわかってんじゃん。」
新城は新城輝という男子生徒だ。スポーツができる生徒で、学年一脚が速い。顔も整っているほうだ。
性格もよく仁にも気軽に話しかけくれる。
「治、あんまり仁をいじめるなよ」
もう一人話しかけて来たのは相本圭太。圭太も友人の一人で三人で行動することが多い。
「わかってるよ、圭太。でも、気になるじゃん。」
「気になるのはわかるけどな」
あまり止める気は無いようだった。
「火がついたよー肉と野菜持ってきてー」
「よし、これもって行ってくれ」
二人に野菜と肉を渡す。
「仁の手料理…」
治が呟いたが、彼の中では野菜を切るだけで手料理扱いなのかと思ってそこが引っかかった。
「これからは料理できる男子がいいらしいよ」
「私よりうまいのはひく」
女子の反応はこんな感じである。仁は少し納得がいかなかった。
一通り食い終わり片付けをしここからが本番である。
ここから先は自由行動である。仁はとりあえず結衣を探したらすぐに見つかった。
「結衣ちゃんも、川行こうよ」
「うーん、今風邪引くとまずいんだ。今日寒いからやめておくよ」
「えー大丈夫だよ、行こう」
結衣はクラスの友達数人とそんなやりとりをしていた。
本当に困ってる時だけ助ければいいんだから、手を貸す必要はないだろう。
仁はそう思い遠巻きに見ていたら、
「あ、宮田くんだ。何してるんだろう」
「宮田くん、結衣ちゃんが好きなんじゃ無いの?でも、宮田くんはなぁ」
結衣はその発言を流して返事をしようと思ったが、かつて告白して来た時の尋常じゃ無いほど緊張していた仁を思い出して少し笑った。
「何か私に話があるんだよ、きっと。ちょっと行ってくるね」
そう行って仁の方に歩いていった。
「宮田くんはカッコよく無いってさ」
「なんだそれ。少し目立つかな。でも隠れる場所ないし」
「隠れたら怪しいよ…」
「確かに」
このまま何事もなく終わってくれればそれでいいのだが…仁も結衣もそう思っていた。
「でもあと少しで終わりだから大丈夫。心配してくれてありがとう」
「任せなさい」
「調子に乗らない」
気づいたら女子生徒はいなくなっていた。
「もう平気だろう。ちょっとトイレ行ってくる」
そう行って場を離れて戻ってきたら、結衣が女子生徒に手を引かれて川に近づいていた。
「大丈夫だよ、少しだけだし折角きたんだから」
「いや、そうなんだけど今日はまずいの、ね?」
「結衣さん、そう言わずに」
結衣は説得したが聞いてもらえなかった。クラスの輪から少し離れて一人でいたのがまずかったようで、担任も仲良くしているとしか見えないようだった。
仁は大急ぎで走ろうとしたが、そこでクラスの男子に捕まった。
「宮田落とそう」
「さっきも酒井さんと話してたし、一度沈めよう」
「よし運べー」
ノリノリである。このままでは間に合わないが、抵抗しても難しそうなので抵抗はしなかった。
「よし投げるぞー」
仁はいきおいよく川に飛び込んだ。
すぐさま起き上がりあたりを見ると結衣はまだ岸にいた。
自分の方に誘導するように目線を出す。
気づいているかはわからなかった。
「行くよーせーの」
結衣が投げられた。仁がいる方に来たのでアイコンタクトはできていたのだろう。
川の中をがむしゃらに進みギリギリのところで落下点に入る。そして結衣が川に入るギリギリで受け止めた。
「おー宮田すげー」
「えー面白く無い」
「お姫様抱っこだー」
様々な賞賛や批判を浴びたが仁はやりきった顔をしていた。
川岸まで結衣を運び、ふと母親の方を見るとこれまで見たことがない表情をしていた。
夜がめんどくさそうだなと思った。
結構怖かったようで、結衣はうつむきながら仁に礼を言った。
「ありがとう…」
「無事で何よりだよ」
気の利いたことを言おうとしたが、特に言葉が出てこなかったので川岸に座り込んだ。
結衣を投げた女子がやって来て身構えたが、結衣が本当に嫌がっていたことを理解したことで結衣に謝罪した。
これでなんとかなったろう。仁は安堵した。
後日、仁は風邪で寝込んだ。
あの川の水はあまり良くないようで、結構な人数が風邪をひいたらしい。
誰もいない家の自室で横になる仁。母親は
「王子様みたいことをしたのに最後の最後で締まらないわね。でも寝てれば治るんだからほっといても大丈夫」
と言ってパートに出かけた。結衣の親と違うなとも思ったがパートは休むと給料に響くから仕方ないか。と仁は納得した。
その日の夕方、結衣がお見舞いに来た。住所は連絡網で調べたらしい。
この時代には全員の連絡先が書いてある連絡網があったことを仁は思い出した。
家にあげようと思ったが玄関先で少し話すだけでいいとのことで玄関で話している
「体調は大丈夫?」
「どってことないよ。お母さんは大阪に行けた?」
「うん、無事に。毎晩電話でお父さんがいることも確認したから今回の危機は大丈夫」
「そうか。よかった」
「うん、本当にありがとう。これお見舞いの果物」
結衣は果物を仁に渡した。
「おぅ、ありがとう。食べて風邪治すよ」
その後、姿勢を正し結衣は頭を下げた。
「今回は本当にありがとう。おかげで危機を乗り切れました」
「あぁ、いいよ。昔迷惑かけたらそのお詫び」
「昔って前の中学のこと?」
仁は頷いた。
「あはは、中学生男子なんて今思えば可愛いものだよ。」
結衣は少し考えて続けた。
「それに…私にも打算はあったから。」
いいように使われていたのは仁もわかっていたことだ。
おそらく、仁が結衣を見捨てないことも結衣はわかっていたのだろう。
惚れた方の弱みである。それでも言い返したかったので、
「女って怖い」
震える仕草をつけて大げさに表現する仁。
結衣は少し不満そうに反論した。
「えー、笑顔が可愛いあなたが好きですって手紙に書いてあったのに…」
「それ以上いけない」
結衣は大きな声を出して笑った。釣られて仁も笑った。
「はー面白い」
笑い終わった結衣は自分の父親に対する気持ちを仁に話した。
「最近少し心の整理がついたから、宮田には話すよ。私が立ち会った手術の患者は離婚した父親だったの。」
「バイトで入った夜勤の病院でさ、父が入院してたんだ。今度会ったら文句の一つも言ってやろうと思ってたのに、父は弱り切ってた。私は文句も言わせてももらえなかった。」
「医者になったことを告げたら父は喜んでくれたよ。父が喜んでくれたことが嬉しかったのが自分でも意外だった。」
「父が入院してることを母に告げたら、助けてあげて欲しいってお母さんにお願いされた。お母さんがなんでそう言ったのかわからなかった。」
「でもそういうなら、父親も母親も2人とも助けたいと思ったのよ、その時。そしたらその後こうなった」
こうとはこの世界に来た事だろう。仁は黙って話を聞いた後、
「みんな助かってよかったな」
とだけ結衣に言った。
「本当に、そうだね。」
そう言って結衣は帰って行った。
結衣は自分がこの世界に来た理由を自分なりに考えていた。
考えた結果、嫌悪も何もかも飲み込んで家族のために行動した。
仁はそのことで結衣を少し尊敬した。
ひょっとしたら自分がこの世界に来た意味があるのかもしれない。
そんなことを考えるようになった。