会社に電話しなきゃ
「春休みだからって、いつまで寝てるの!もうお昼前よ!」
仁は女性の声と部屋の雨戸を開けるけたたましい音に反応して目が覚めた。
「たまには何処かでかけたら?」
仁が起きるのを確認すると、女性はそう言って部屋から出て行った。仁は声の主に覚えがあった。
「お袋?」
起きてしばらく仁は困惑した。何故母親がいるのか?実家から出てくるという話はあったか?というか電車で寝ていたのではないのか?
目が覚めてきた仁は状況を確認する為に眼鏡を掛けようとしたが眼鏡はなかった。
「くそ、下に落ちてるのか」
ベットの下を探しても眼鏡は見つからない。その時眼鏡がなくてもよく見えることに気づいた。
「あれ、見える。なんで?」
混乱しながらもあたりを見回した仁はそこが何処だかわかった。
「実家の俺の部屋だ…間違えて実家に帰ったのか…」
仁の実家は東京23区内にある。実家の方が会社に近いのだが流石に35歳にもなって実家にいるのも気が引けるので家を出て独り暮らしをしている。
都内の一軒家に住むほどの財力があった父親を大人になって尊敬するようになった。
「お袋さっきお昼前って!やばい!会社に電話を」
フレックスタイム制ではあるが10時には出勤していないといけないのが就業規則だった。スマートフォンを探したが見つからない。
実家なら固定電話があるからと急いで部屋を出ようとした時さらなる違和感に気づいた。部屋のドアに飾ってあるカレンダーの日付がおかしいのだ。
「1995年…え、95年…こんな古いカレンダーなんで…」
しかし、カレンダーの色合いは白くとても20年以上飾ってあるものとは思えなかった。焦燥感が積もる中、何とか頭を整理しようと思考を巡らせているとドアが開いた。
「おぉ、仁。おはよう。やっと起きたのか」
入ってきたのは顔は高校生くらいだが背がとても高い大男だ。しかし、顔には見覚えがあった。
「兄さん?」
マジマジと顔を見つめる仁に怪訝な顔しながら少年は言った。
「いや、そうだけど…寝ぼけてんのか?参考書取りたいから通してくれ」
ハッとして仁は脇によけ、少年を通した。目で少年を追うっていくと部屋の中がよく見えた。
その中にランドセルと通っていた中学校の制服があるのがわかった。
仁はあり得ない出来事が起きた可能性が頭に浮かんだが否定した。
戻ってきても先と同じところに立っている仁を見て少年は言った。
「どうしたんだよ。顔洗って目覚ませ。」
そう言って、仁の頭を参考書で軽く叩いて少年は部屋から出ていった。今の話で仁は状況が何となくわかった。
「夢でも見てんのか。しかし、現実感がすごい、これは夢はない。じゃあ…」
先程考えた「過去に戻った」が正しい。
普通ではない事態に血の気の引いた仁だったが、行動が早いのが取り柄。
意を決して現状を確認する為に洗面所に向かい鏡をのぞいた。鏡に写ったのは子供の頃の仁の姿だった。
仁は机に向かって鉛筆を手に思考を整理していた。洗面所で鏡を見た仁は戸惑った。
しかし、朝食をとりながらテレビに目をやるとフジテレビの「どぅーなってるの!?」がやっていた事で事態を呑み込んだ。
非現実的な出来事に遭遇した時、人は自分の中の欲望に忠実になるのだろう。
事態を把握した仁に湧き上がったのは、人生をやり直したいとか元の時代に帰りたいとかではなく、何が起こったのかを明らかにしたいという好奇心であった。
仁は自分が全てを解き明かすことはできないだろうと考えていた。理論的にありえない現象が起こった上に実験もできない。
物理法則に何個修正を入れればいいのか見当もつかない。それでも未知の現象に対する好奇心を抑えきれないのは仁が根っからの研究者だからなのだろう。
仁は帰る方法を考える気など全くなく、思索にふけっていた。そんな仁に母親が後ろから話しかけてきた。
「何してんの?あら、お勉強。頑張ってるわね、四月からは中学生だもんね。でも母さんは落ちこぼれなければなんでもいいわぁ。」
仁は紙を2つに折って振り向いた。
「あぁ…勉強してた。おふ…母さん、午後からは出かけて来るよ」
「行ってらっしゃい」
母は笑って答え、嬉しそうに部屋から出ていった。タイムリープの研究してましたなんて言えないし、言っても空想にふけっていると思われるだけで良いことなどない。
「家でやるのも考えものだな」
独り暮らしに慣れた仁には実家暮らしが少し苦痛であったが、こればかりはどうしようもなかった。
何より資金がない。仁は家から自転車で15分ほどのところにある図書館に行くことにした。自転車に乗ろうとした仁だったが自分の自転車を見て驚愕した。
「ダサい…もうちょい良いデザインあっただろうに…」
変速機のついたマウンテンバイクだ。しかも後輪の横にカゴが付いている。過去の自分が好きだったことは覚えているが、改めて見るとダサかった。
過去に戻った仁はかつての自分の衣服や持ち物の趣味にため息しかでなかった。金のない中学生とはいえもう少し気を使うべきだ。
マンガとゲームは程々にして。過去の自分に説教したかった。
「とりあえず、基礎の確認だな」
図書館に着いた仁は理論物理の本を何冊か読んでパラパラとめくる。昔読んだ事のある教科書だった。しかし、立ち読みしていると、こっちを見て職員さんがクスクス。中学に上がる前の小僧が理論物理の本なんて読んでもわからないという事を思い出し仁は恥ずかしくなった。
「痛いガキだな…これじゃ」
羞恥心で居づらくなった仁は本を戻して帰る事にした。人目があるとやり難い…これからどうやって進めていこうかと図書館の駐輪場で悩んでいた仁に少女が話しかけてきた。
「宮田」
「あぁ、久しぶり」
少女は仁の同級生だ。親が医者で頭も良く笑顔が可愛かった彼女の事が仁は好きだった。因みに中学でフラれている。
「難しい本読むんだね。好きなの?わかるの?」
どうやら見られていたようだ。仁は恥ずかしかったが、事実を言う訳にもいかないので仕方なく答えた。
「いや、全然。でも、いつか読めるようになりたい。吉村は何読んでたの?」
恥ずかしそうに無難な質問を返したつもりだったが、吉村と呼ばれた少女の目に涙がたまり何かを訴えるような眼差しに変わった。
「宮田はなんで母親の旧姓で私を呼ぶの?」
仁は彼女が中学の時に親が離婚していた事を思い出した。現在の彼女の名前は酒井結衣。吉村結衣に変わるのは1年先であった。
仁は己の迂闊さを憎み、焦った。
未来から来ましたなんて言えるはずもなく、どうにか言い訳を考えていたが、様子がおかしい事に気づいた。
何故結衣は泣きそうな顔をしているのか。それに反応もおかしい。
吉村なんてありふれた苗字で呼ばれたら、名前を間違えられたと感じるのが普通で、何故母方の苗字で呼ぶのかという質問はこない。きたとしても最初じゃない。
仁は意を決して質問をした。
「西暦何年から来たのか教えて欲しい。」
その言葉を聞いた結衣は、泣きながら仁の腕を掴んで言った。
「やっと…!やっと…会えた!未来から来た人!怖かったよ…帰りたいよ…」
そう言って結衣は泣き続けた。質問に答えてないよなと言いたかったがやめた。