「生きる」ということ
発作的に書いたものです。
最初から重い話になるが、私は、死のう、と思ったことが結構な回数ある。死にたい、ではない。死のう、だ。死にたいと思ったことはあっても、死のうと思ったことがある人は案外少ないものであると思う。
死ぬということはつまり、生きるということの終着点だ。ゴールというと何か目標を達成したようなように聞こえるので、あえてこの表現を使う。それが例え、自分の夢を叶えてから死のうとも、百二十歳で死のうとも、病気で死のうとも、あるいは志半ばで自ら命を絶ってしまったとしても「死」であることには変わりがない。
はっきり言おう。私は別に死ぬことが悪いことだとは思っていない。それが山手線に飛び込んだとか、無理心中をしたとかだとしたら例外だとは思うが。だってそうだろう。自分の命だ。その扱いは自分で決めるべきだ。誰かに決められるべきものではない。それも一つの権利だ。
だがしかし、私個人としての考えとして、死ぬことよりも、生きることのほうを強く勧める。別に前に述べたことを否定する気はない。生きることがプラスで、死ぬことがプラスマイナスゼロと言いたいだけだ。何回も死のうとした人間が何を言っているのかって思うかもしれないが、その末にたどり着いた答えなのでご容赦いただきたい。
あなたが生きるということは周りにどんな影響を与えるだろうか。例えば、あなたをいじめている人は不快だろう。本心でどう思っているかは知らないが、たいがいそういう人たちは「死ね」とか「消え失せろ」とかそういう言葉を使っているように思う。今回はその文字通りに意味をとってみた。
対して、あなたが生きていることで快い気持ちになる人はどれくらいいるだろうか。一般的に共通して思い浮かべられるのは、両親、だろうか。ほかの人も悲しむとは思うが、どうしても思い浮かばなかった人は、少なくとも両親は嬉しいということは胸に留めておいてほしい。
さあ次は、あなたが死ぬことで周りに与える影響だ。あなたが死んで喜ぶ人は意外とたくさんいるかもしれない。ここでは単純にあなたを嫌っている人は、あなたが死んだら喜ぶという風に仮定しよう。そうすると、人によって異なるとは思うが、結構な数がいるだろう。
悲しむ人は誰であろうか。前に述べたことの逆で両親は当然悲しむだろう。あとはそこに個々人で思い浮かぶ人を足してみてほしい。例えば、親友と呼べる人がいるならばその人も。思い浮かばないのならば、前と同じように両親とだけ思い浮かべていてほしい。
気づいただろうか、あなたが死ぬことで喜ぶ人は意外と多い。そしてあなたが死ぬことで悲しむ人は意外と少ない(意図的にそう思い浮かべてもらったのだが)。なら死んだほうがいいじゃないかとあなたは思うかもしれない。
しかし、ちょっと待ってほしい。これは単純な数の上での話である。次はそれぞれの質について考えてみよう。
あなたが死ぬことで喜ぶ人は、あなたを嫌っている人。あなたが死ぬことで悲しむ人は、両親、居るならば親友等である。
大抵がそうであるので、あなたを嫌っている人をあなた自身も嫌っている人と仮定する。するとどうだろうか。実のところ、あなたが死ぬことで喜ぶ人は、あなたにとってもとるに足らない人々なのである。それが多数だったとしても、あなたにとっては大切ではない人々なのである。
反対に、あなたが死ぬことで悲しむ人は、数こそ少数ではあるが、あなたにとっても大切な人たちなのである。自分を産み、育ててくれた両親。どんなときでも笑いあえる親友。そんな人たちなのである。
死ぬ、ということは、自分にとってとるに足らない人々を喜ばせ、自分にとって大切な人を悲しませる行為なのである。それなのに死を選ぶ意味があるのか。
多数のとるに足らない人々のために、自分の大切な人たちを悲しませる選択をする意味があるのか。
そんなことをするくらいだったら、大いに生きてやれ。自分のことを嫌っている人を大いに不快にさせてやれ。自分のことを少しでも好いている人たちを快くしてやれ。
生きることこそが自分を嫌っている人々に対する最高の復讐であり、自分を好いてくれている人たちに対する最高の恩返しだ。
それでもくじけそうになる時が来るかもしれない。そんなときは想像してみてほしい。もしかしたら明日はいいことあるかも、と。
それすらも考えられなくなった時は、胸に手を当ててみてほしい。
小さな奇跡が、そこにはある。
暖かな奇跡が、そこにある。
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