月の奇跡
「会いたい気持ち」は、心のどこから来るものなのだろう。
心なしか潮を含んだ粘つく汗を疎ましげに拭いながら歩く深夜の家路。砂浜の真ん中に敷設されたレンガ道の果てを見るにも飽きた頃。ふと見上げた空に煌々と輝く満月を見つけたら、そんな言葉が心に浮かんだ。
「満月の夜の犯罪率は、他の日に比べて多い」
どこかで読んだ記憶のあるフレーズだが、もし事実とするならば、潮の満ち干きと同様に、人も月の支配から逃れられていないという事なのかもしれない。
案外と狼男伝説もそんなところから生まれたのだろうか。
夜の街に人をひきつけるネオンライトは同様に闇夜を明るく染めるが、どこかよそよそしい。個人的な感想だが、月夜に心のさざ波を感じることはあっても、ネオンの明りに感動を覚えることはない。
人は、追い詰められた自分の状況を闇になぞらえ、活路を光に例える。それは原始の頃から引き継がれた闇を本能的に恐れる遺伝子のなせる業。つまり人は追い詰められることを闇と同様以上に恐れる、ということなのかもしれない。
光は開放の象徴。
だからこそ、月光は心の深奥を揺さぶり、開放感や安心感を与えてくれるのだろう。
闇夜を照らす月に、果てもなく詩興を抱く自分に苦笑を覚えながら、自動販売機の前で足を止める。
右と左。ビールと、缶コーヒー。
いずれにしようか少し考えたが、これからまた有に一駅半は歩かなければならないことを思うと、自ずと答えは明らかである。
小銭入れから取り出した500円玉を投じ、少し迷ってボタンを押す。この頃は缶コーヒーも種類が増えたもので、技術の進歩というか文明の発展は、いろいろな選択肢を与えてくれるが、それだけに「迷い」を覚えることも増えた。
つり銭をポケットに放り込んで、少し歩みを進め、視界全てに水平線を収めることのできる休憩所のベンチに腰掛ける。
潮騒の音に耳を傾け、一口、甘い液体をのどの奥に流し込む。
いつ以来だろう。こうして夜の海を眺めるのは。
遠くどこからきて、どこへ行くのか。いくつかの舷灯が彼方に浮かび、空と海の境目を教えてくれる。迂闊にも最終電車で寝過ごして、二駅先まで来てしまったが、たまにはこういうのも悪くない。幸い、明日は休みだ。
いつの間にか、それなりの年になったことを思えば、相当昔のことかもしれないし、さほどのことでもないのかもしれない。
今は毎日がそれなりに充実していているからというのも事実だが、時間が恐ろしく加速している。一番古い記憶では、一日がやたらと長かったような気がする。永遠にこのまま過ごしていけるような、終わらない一日を過ごしていたような。
やはり時間が過ぎる、ということに慣れていった結果だろうか。それとも、一日にやるべきことが増えたために、そんな気分になっているだけなのだろうか。あるいはこれも「年を取る」、ということなのだろうか。
「会いたい」
これから、そう思える人に何人出会えるだろう。
いままでに、何人出会えただろう。
過去に出会った人たちの姿形を思い出せる限りで、脳裏に浮かべてみる。名前だけの人も、もちろん中にはいる。
足元の砂を一掴みすくい、手のひらに載せて息を思いっきり吹きかけてみる。そこに姿が描かれるかとも思ったが、どうやら自分にはそういう能力はないらしいことを、確認しただけだった。
「たまには、いいか」
入社以来、仕事中心で歩いてきた人生だ。たまにはこんな事を考えてもいいだろう。
風に流れて消えていくささやかな希望の欠片を見やりつつ、また別の思考が、浮かんでくる。
なにやら、とことん自分を追い詰めてみたくなってきた。思い出したくないことも、単純に忘れてしまっていることも全て、シナプスを連結させ、音声と映像を、想像力と記憶の限りを尽くして頭に浮かべてみようという気持ちが湧き上がってくる。
不思議なもので「会いたい人」を思い浮かべるようとすると、「もう二度と会いたくない人」も合わせて思い出してしまいそうになる。
仕方のないことなのかもしれない。
物事は1枚の紙の表と裏。大体、良いことも悪いこともセットで体験しているものだし、細かい部分まではどうしても覚えていないものだ。だから想像力に頼る部分が出てくる。思い出を辿るという行為をどこか偽善的に感じてしまい余り好きではないが、今日はそれでもいいと思う。闇夜を照らす月の魔力ということにしておこう。
感傷をコーヒーで洗い流し、遠くに行き交う小さな明りを見つめながら、記憶の旅路を遡る作業を試みる。
ここは最後に別れを告げられた場所。一番思い出したくない、だけど忘れられない思い出の場所。時間が急速に巻き戻されていく。
「あたし、島根に帰る」
思わず誰も居ないはずの隣を見やった。
うつむき加減で呟いた彼女がそこにいる。長い髪を後ろでまとめた笑顔の可愛らしい小柄なあの娘が、あの時のまま陽炎のようによみがえる。
「出会うのが、遅かったね」
そう、確かあの時も彼女は同じ台詞を言った。
ベンチから立って、浜辺へ向かって歩いていく自分の後姿を見送るのは少々奇妙な気分だ。
半ば呆然としながら、あの時背中で聞いた涙交じりの彼女のつむぐ言葉をすぐ左隣で聴く。
さながら映画の中に紛れ込んだ観客だ。
「あたしがもっとあなたのこと好きになる時間があったなら、そしたら、あたしきっと」
「もう、止そう」
あの時は「決めたことだから、仕方ない。俺も大事にしてあげられたとはいえないし」
そんな思いも、心の中にあった。
「俺はここにいる。当たり前にここにいる。この街で生きて、死んでいくつもりだよ」
この町を捨てられない。素直な気持ちだった。
「そっか、そうだね」
砂浜の背中を追って、少しずつ彼女の声が遠ざかる。
「ねえ、どうして、あたしたちこうなっちゃうのかな」
背中に額をつけそうな角度で彼女が言う。
「お互い捨てられないもののため。かな」
「そしたら、いつかまたあたしがここに来たら」
「ここにいるさ」
「じゃあ、その時に、もし結婚してなくて、まだ一人だったら」
「その頃は、俺ももう子供の一人や二人いるかもしれないよ」
「絶対、しっかりした子供だろうね」
「んで、俺の子の先生になったりしてね」
「えー、あたしその時まで一人なの?」
「さあ?」
月明かりに照らされた波間に向かい拾った小石を放る背中に、彼女がどんとぶつかる。180センチの大男に150センチそこそこの娘がぶつかり、少し前に揺らめく。あの頃は、まだ現役剣士だったから体力はあったはずだけど、それだけ彼女の思いが強かったんだろう。
「大きいね。暖かいね」
彼女が後ろから小さな手を前に回し、小さなリングを作る。確か、そっと片方の手を重ねた。
「さよならは、言わないよ」
「もっと早くに出会いたかった。この街であなたと一緒に一杯過ごしたかった、映画を見たり、買い物したり、一杯一杯話して、二人の思い出作りたかった」
「そうだね」
「もっと早くに出会えてたはずなのに」
「そうだね」
いつの間にかまた涙声になっている彼女の震える声を聞きながら、その場に立ち尽くしていた。
そのまま彼女を抱きしめて、さらってしまいたい衝動に耐えていた。
どれくらいそうしていただろう。
沈黙があたりを支配する。遠くから、少しだけ季節を追い越した花火の音と楽しそうな声が聞こえる。
「もう…」
「行きたくない」
やがて意を決していった言葉に即答した。
「これが最後の別れって訳じゃないんだから。生きてたら、また会えるんだから」
「大切にする」
思いもよらない答えが返ってきた。
「何を?」
「いろんなもの、短い間にもらったいろんなもの」
「そっか」
「短い間」と彼女が言った間の記憶は、もう薄れている。あの頃は、もう二度と忘れまいと思ったのに。握り締めた左こぶしにその思いが込められていた。
「また、ね」
彼女は、俺の背中にコートをかけて、その言葉を最後に俺の後ろに名残惜しげなリズムを刻む砂音を残して行った。
思い出の劇場は、そこで終わる。
そういえばこの間、彼女が教員試験に合格した事を聞いた。今頃は島根で学校の先生をしているんだろうか。エレクトーンは上手くなっただろうか。
あの時、抱きしめていたらどうなっていただろう。
今とは違う自分が居たのは間違いないけれど、どんな自分だったのかは想像もつかない。そんなことを考えていくと、世の中は奇跡に満ちている。毎日新しい何かが始まるかもしれない。だけど、始まらない物語も世の中にたくさんあるんだろう。
物語を動かすもの。それは、奇跡の種の形をしたホンの少しの勇気なのだろう。
同時に思う。
先ほどよりは少し角度を変え、更に明るさを増した月に向かって手のひらを差し伸べながら。
「もしいまこの手に月をつかみたいと思い、それが叶うなら、それは奇跡というより、たちの悪い冗談というものだ」
砂浜の更に奥、波打ち際に向かって足を踏み入れる。
そして、よりきめ細かい足元の砂を一掴み取り上げ、折りよく吹いたそよ風に載せてみる。
「だけどこの砂粒の中に、ひょっとしたらダイヤの欠片があるのかもしれない。それは、奇跡と言っていいのかもしれない」
言葉に少し遅れて、ゆっくりと風に乗った砂の最後の一粒が風に溶けて、月明かりに消える。
結局、人は自分の力の及ばぬところでは何もできはしない。
ただ、目に見えるもの、手の届く範囲のもの。
それだけを思って生きて行くしかない。
であれば、悩みながらも、考えながらも歩いていくしかない。
ようやくまた、家路へと着く気分になった。
家に帰ること。そして休むこと。
それが、いまの自分にとって何よりも大事な事なのだろう。
また刻んだ一歩を、踏みしめた。
「そういえば、さっきの砂の最後の一粒は、星よりも明るく輝いていたような」
月が俺に与えてくれた一筋の光明だったか。
それともあるいは。
少し進んで、満月を振り返り、「遅くてもなんでも、間に合ってたんだよ」最後に小さく呟いた。
あの頃の自分に惜別の思いを込めて。