モラトリアム
その日の教室の風景は恐ろしいほどにいつもと同じものだった。
時刻は十時を過ぎたところであった。教室は生徒たちで埋め尽くされている。この授業は一時限目の授業であった。大学生は中学生や高校生が知れば驚くであろう程に学校に行かない。出席を取らない授業が大半であるし、取ったとしてもそれが評価に大きな割合を占める授業は少なく、そうした授業はテスト前に誰から回ってきたかもわからないノートをもらい、それで勉強すれば容易に単位をもらえる授業が大半だからだ。一時限目の授業であればなおさら出席しない。世間から見れば、あまり規則正しいと言える生活をしていない大半の大学生は、一時限目に行ける時間などに起きられずに、また起きる努力すらせずにそのまま寝てしまう。そのため一時限目の授業の教室は大抵空いているものである。しかし、この教室は違った。
高浜和也はこの大教室の席のなかでど真ん中とも言える席に座っていた。本当は後ろの席が良かったのだが、少々遅刻気味で来たため後ろの席は空いてなかった。そして空いているのが前の席とこの席しかなかったため、渋々この席を選んで座っていたのだ。
(眠いなあ。朝からこんな興味もねえ授業聞いてられっかよ。先輩は出席してれば単位が簡単に取れる授業って言っていたから取ったけど、大学の授業は高校と違って出席するのすら難しすぎだろ。オールで飲むのも当たり前で生活習慣なんてあったもんじゃねえ。それなのに授業は変わらず行うし。なんならテスト一発のが良かったわ)そう思いながら高浜和也は携帯電話をいじっていた。机の上には教授から配られたプリントしかなく、筆記用具すら置いてなかった。
(大学生になったら勉強しない生活を送れると思ったけど、出なきゃいけない授業は出なきゃいけないし、テスト前は大変らしいし、入る前のイメージと全然ちげえよ。よくみんなこんな授業のために起きれるな。俺はもう来週から出なくていいかな)そう思いながら高浜和也は前の方を向いた。斜め前の席に座っている女性が視界に入ったのだ。いまどき少ない綺麗な黒髪で、高浜和也にはその子がここの大学のミスコンに出ている者と匹敵するほどに可愛く見えた。(あれ、あの子可愛すぎじゃね。うちの微妙なミスコンより普通に可愛いわ。あんな子今まで見たことなかったけどこの授業取ってんのかな、仲良くなりたいなあ。来週もいたら声かけてみるか。)
高浜和也はにやけていた。するとなんと急に高浜和也の腹に激痛が走った。
(うっ、しかし朝から腹痛いなあ。昨日先輩と食ったハマグリか?)
そう思い腹を摩り苦しい顔に変わりながらも彼はその女を見つめていた。彼女は前を向き、真面目に教授の授業を聞いているように見える。
工藤梓はただひたすらに前を見ていた。しかしそれは教授の話を聞くためというではなかった。
(あれも駄目、その隣も駄目。うーん、その斜め前は顔はいいんだけど頭悪そうだから就活失敗しそうねえ。はあ、京応っていってもなかなかいい男もいないもんなのね)
実はこの工藤梓はこの大学の生徒ではなかった。他大学の生徒であり、現在就活中である。しかしそれが上手くいかず、将来の玉の輿を見つけに来ていたのだ。
(ほんと売り手市場とは言ってもそれは一部の上の大学に対してだけで、私みたいな中堅大学なんてほんと悲惨なものよ。みんな全然決まってないし、私だってやっとこさ中小のよくわかんない会社から内定もらったけど、そこだっていつつぶれるかわからないわ。それに社会人になったら出会いは激減するっていうのに、まわりは薄給で働くやつれた男だけ。そんなの寒気がするわ。やっぱり一年のうちから真面目にいい男を探すべきだったのよ)
そう思いながら工藤梓は頭を抱えた。この大学時代モテる経験はあったのだが、他にもっといい男が見つかると思い、何度も鞍替えしてきたのだった。そして工藤梓は頭を動かさずに周りをきょろきょろ見渡した。(どっかにいい男いないかなあ。イケメンで将来安泰そうな職につきそうな人。今のうちに唾つけておきたいな)彼女はそう思いながら休むことなく目を動かしている。しかし彼女の御眼鏡に適うような者はなかなか見つけられそうになかった。
(京応ってミスターコンテストに出ているような人がたくさんいるイメージだったけどそういうわけでもないのね。まあ考えてみれば当然よね。やっぱりがり勉みたいな陰キャラっぽいのもチラチラいるし。一番前にいるあいつなんてもろにそうね)そう思いながら工藤梓はこの大教室で一番前に座っている男に蔑むような視線を送った。
伊藤正志は真面目に授業を聞いていた。この教授は声が小さいのにマイクを使わないし、板書もせず口頭でしか授業が展開されない。そのために真面目に授業を聞くためには一番前の席に座るのが一番だった。しかし伊藤正志はこの授業に興味があるわけでもない。怠け者と言われる大学生と言えど、授業にはどんなつまんないと感じても真面目に出るべきと考えていたからである。
(この授業はつまんないな。まず教授のレベルが低い。東大はおそらくそんなことないだろう。俺も東大に行っていればもっといい環境の中で学ぶことができたのに)そう思いながらも伊藤正志は真面目にノートを取っている。彼はこの緊張しい性格から試験で実力を発揮できず東大に落ちてしまう経験があった。全国でも有名な進学校出身であるため周りの友人の多くは東大に受かっていて、それもまたコンプレックスを生じさせる一因でもあった。
(東大がなんだよ。模試でいったら俺だって十分合格圏内だったんだ。それが二次試験で急に緊張で下痢が止まらなくて、試験中漏らさないように戦ってたら全然集中できなかったさ ! くそ ! やはり一回くらい浪人すべきだったのか・・・)
そのとき後ろの方からなにより奇妙な匂いがしてきた。後ろを振り向くとなんと学ラン姿の男がこんな時間から弁当を食べている。しかもその弁当箱がなかなか大きい。教授は話すのに夢中で気づいていないようだ。(授業中に弁当を食べるなんてありえないだろう。一体何を考えているんだこいつは。学ランを着てるってことは体育会か。こいつらいつも偉そうなんだよな。キャンパスで集団になって肩で風を切るように歩いて。『俺らはサークルの連中と違って真面目にきつい練習をしてる』みたいな雰囲気ばりばりだ。授業中は騒いでばかりで真面目に勉強しないくせに、それなのに就活では体育会は最強とまで言われてる。本当に腹が立つ連中だ。)伊藤正志はそうしてその学ラン姿の男をにらみつけた。
小林泰成は黙々と弁当を食べていた。この一時限の前に朝練があったため、十分お腹が減っていたのだ。いつも昼食は学食で食べるようにしていた。体重をどんどん増やしたいからである。彼はラグビー部に所属していた。練習は厳しく、オフも週一であるためこの授業の時間も彼にとっては貴重な休憩にもなった。本来はたった今もみんな練習中であるが、体育会のほとんどの部は、出席をしなくてはならない授業であれば、抜け出して授業に出席することができる。
(あー今日の弁当美味いなあ。朝から走り回ってくたくただし、これからまだ練習があるって考えると辛い。ちょっと早くても腹になんか入れなきゃ倒れちゃうよ。しかし大学の部活は高校のものに比べて遥かに緩いって聞いたから入ったが、確かに緩いところも感じるけど、高校の部活が厳しすぎただけで、大学も十分大変だよ。それに普通の大学生は遊びまわって楽しそうにしているのになあ。就活がいいってだけで安易に入るんじゃなかった)小林泰成の箸は止まらない。周りで怪訝そうに見てくる者が何人かいたが気にしなかった。すると後ろの方から騒がしい笑い声が聞こえてきた。ちらっと振り返ってみるとどうやら後ろの方に座っている茶髪の男達が談笑しているようだった。授業を聞く気はなく、出席カードを出すために教室にいるのだろう。
(なんだあいつら楽しそうにしやがって。きっとテニサーにでも入って毎日適当に遊びまわっているんだろう。どうしようもないな。きっとああいう奴らは就活の時や社会に出た後にとてつもなく苦労するのだろう。いい気味だぜ。絶対今辛いことをしている俺が勝つ)そう思いながら小林泰成は豪快に飯を口の中へかきこんだ。
「はっはっは!! それ最高だなっ!!」稲村貴斗は笑っていた。同じサークル仲間と一緒に先日の飲み会の時の話をしていたのだった。稲村貴斗は比較的派手と思われるサークルに所属していた。しかし彼の浮かべてた笑顔は作り笑いだった。
(あーこいつらの話ほんとつまんねえなあ。下品な女の話しかしねえ。もっと清楚な子と遊びたかったのに周りはチャラい子しかいない。大体大学入ったらみんな髪染めなきゃみたいな風潮やめてくれよ。黒髪のがいいだろ)そう思いながら稲村貴斗は作り笑いを浮かべ続けて話を聞いている。
稲村貴斗は高校まではあまり教室で目立つようなものではなかったが、大学生になったら心機一転しようと思い、大学に合格してから入学するまでの数か月間研究に研究を重ねてどうにか大学デビューに成功したのだった。
(しかし人種が違うとこんなに話のツボが合わないのか。俺はもっとアニメとかゲームの話をしたいのに、この前ちょっとそんな話をしようと思ったら場が凍りそうになったぞ。危ない危ない。一気に努力が水の泡になるところだった。サークル掛け持ちでもするか。でもそんなオタクなサークル入ってるのばれたら嫌だしなあ。高校まで仲良かったやつも最近よそよそしいいし・・・)
すると彼の視界に全身黒服の男が目に入った。自前のパソコンでアニメを観ているようだった。(あっあれ今度観ようと思ってたやつじゃん。やっぱり面白いのかな。しかし教室で観るなんてすごい度胸だな。俺には到底できない。しかし周りを気にせずに自分のやりたいことができててうらやましいなあ)稲村貴斗は作り笑いも忘れて、うらやましそうにその男を見つめていた。
田中大地はイヤホンをつけながらアニメを視聴していた。昨日バイトで観そびれてしまっていたのだ。大学に入ってからアニメを観るのを辞めた友人は何人かいるが、彼は決してそんなことは考えなかった。彼らには一生愛すると誓っていたキャラクターがいたはずだ。それなのに、環境が変わってしまっただけでそれに興味を無くすなんてそんな者薄情者に他ならないと田中大地は考えていた。
(この作品はいまいちだな。声優のキャスティングが悪い。それ次第でもう少し面白くなるはずだけど)
田中大地は視聴するのをやめて匿名掲示板を開きそのアニメの評価について書き込んだ。
(あー大学楽しくないなあ。友達もネットでしかできないし。騒いでるやつらはうるさいけどうらやましいなあ。僕もあんな風に学校で騒ぎたい。僕も大学デビューしとけばよかったかなあ。そうすれば学校も楽しいだろうし)田中大地の手は止まらない。
(はやく帰りたい。授業おわんないかなあ)田中大地はそう思いながらパソコンをいじり続けた。
高浜和也は戦っていた。先ほどの腹痛が治らないのである。
(授業終わるまであと二十分だったから我慢してたんだけど限界だろうか・・・。諦めてトイレに行こう・・・)そう思い高浜和也は立ち上がった。するとなんと急に吐き気と気持ち悪さに襲われた。一旦床にしゃがみ込む。動けない。
「すいません ! 病人が出ました ! 」誰かが叫ぶ。どうやら周りにいた親切なひとが教授に伝えようとしたらしい。教授はその声がする方向を見る。
「なに、そうか・・・。君、出席にしとくから彼をトイレに連れてってあげなさい」
教授は急に授業を中断されて驚いたがすぐに状況を理解して指示した。その男は気持ちのいい返事をして高浜和也をトイレまで連れて行った。髪は金髪で派手な服装であった。彼が高浜和也を連れていくの見届けると、「今のは病人かな。風邪も流行っているようだし今日は早めに終わらせましょうか」教授言う。 すると教室は一気に騒がしくなった。
(あら ! この空いた時間にイケメンに声かけなきゃ !)
(なに、授業は関係ないだろう。しっかりやるべきだ全く)
(えっ練習行かなきゃならないじゃないか ! まだ飯食い終わってないぞ !)
(早めに終わるのか。やっとこいつらと話さずに済むな。よし、早く帰ってアニメみるぞ!)
(ちょっといいサークル探してみようかな。今更遅いかもしれないけど)
続々と生徒は立ち上がり帰っていった。どうやら授業について質問してくる者もいないようだった。教室は静寂に包まれる。
「ふぅ・・・」教授はため息をつき、自分のものを片してから携帯電話を取り出した。中年でありながらスマートフォンを使いこなしている。そして何者かに電話をかけ、つながった。
「あっ徳さん?私です。いま終わりまして、ええ。最近学事が真面目に授業しろってうるさいんですよ。ははは、すいません。駅前の雀荘ですよね? 点ピンですか、うわー負けられないなあ。すぐ向かいますね。ええ、はい失礼しますー」
教授は笑顔で教室を去って行った。