第一球 最初に覚える変化球はフォークボールであれ -3-
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本杉陽朗は校庭で一番高い所……マウンドに立っていた。
「どうして、こうなった……」
チラっと視線を横に向けると、十人程度の人たちがヒロを注視していたのである。
保健室で野球部に入部したいと発言したら、偶然にもタチバナ沙希は野球部のマネージャーだったのだ。ここでも橘沙希と一緒だったことに、ヒロは驚きを超えて呆れてしまった。
その後、沙希の案内で野球部の監督と部員を仲介して貰い、急遽入部テストが行われていたのである。
テストの内容は、マウンドから捕手に目掛けて投げるだけのピッチング(投球)テスト。ヒロは右利き用のグラブとスパイクを貸して貰い、今こうしてマウンドに立たされていた。
とんとん拍子に進行してしまった為に、野球に対する心構えを整えることが出来ず、若干手足が震え、瞳は右往左往と泳いで動揺していた。
落ち着きが無いヒロを見かねて、
「なんだ、緊張しているのか?」
優しい目をしている男性が話しかけてくれた。男性は、ヒロを保健室へと背負ってくれたサイに似ていた人だった。
「あ、いや、その……」
「はは、大丈夫、大丈夫。意識せず、いつもの通りやればいいさ。自分の合図で始めてくれ」
いつもの通りと言われても、ヒロは今まで野球を競技したのは前にも述べたが、体育のソフトボール程度。ましてや投手をするなんて、これが初めてだ。
「はぁ……」
ヒロは不安と心配が入り混じった相槌を打つ。そんなヒロの気持ちと呼応するように天気の雲行きも怪しくなっていく。
「おや。 天気が悪くなってきているし、速く始めた方が良いな。それじゃ、ほれ」
優しいの目の男性は白い球……野球の硬式球をヒロに投げ渡すと、その場から少し離れ、ヒロの背後に移動する。どうやら、後ろでヒロの投球をチェックするようだ。
ホームベースには捕手が既に腰を落とし、打席の近くでは少し長い髪を後ろに結んでいた部員がバットを振っていて、いつでもテストが開始されても問題無いように準備をしていた。
ヒロは投げ渡された白球を右手で握りしめ、ヒロを見学している監督や部員たちの見えない重圧から逃げる為に、球を見つめる。本来ならキャッチボールをなどして、肩慣らしをするべきなのだが、そういった知識も欠如しているので、その発想が無かったのだ。
(どうしよう……)
心の中で思った不安の声に、野球の神様が反応する。
『なにナヨナヨしているのよ。さっきの男の子が言っていたでしょう。いつもの通りやれば良いだけのことでしょう』
(だって野球をするのも、こうやって投げるなんて初めてなんですよ! ロクな練習もしないで、急にこんなことになるなんて……)
『ただその球を、あのキャッチャーのミットに目掛けて投げるだけじゃない』
(どうやって投げれば良いのか解らないのにですよ。野球の神様なら、なんか助けてくださいよ!)
『う~ん。あんまり神様が簡単にアドバイス(天啓)するのは、良くないんだけど……。今回の場合は、仕方ないわね。そうね……。ねぇ、ヒロくん。どっかで誰かのピッチングフォームとか見たことがない』
(ピッチングフォーム……)
ふと、幼少の時に観た独特のフォームで投げる投手の姿が思い浮んだ。そのイメージを野球の神様も感受したらしく、
『あるわね。だったら、そのフォームを真似て投げなさい』
「えっ!?」
思わず声が出る。
様子を伺っていた部員たちが何事かと注視してきたので、ヒロは思わずグローブで顔を隠してしまった。
『現時点でアレやコレやと教えても、その通りに出来る訳がないんだから……。今はただ、思い浮かんだフォーム通りに投げてみなさい。それじゃ、頑張って』
「ちょっ! 神様!」
それっきり野球の神様から返答は無かった。後は、ヒロ自身で何とかしろということだった。むしろ、ヒロ自身が投げるしか選択は無い。
ヒロは大きく息を吐き……覚悟を決めた。いや、開き直った。
「行きます!」
自分を奮い立たせるように、そして不安や戸惑いを吹き飛ばすように、大きな声で叫んだ。
その声に素振りをしていた打者が打席に入り、いつ球を投げられても良いように打つ姿勢を取り、バットを構えた。
ヒロの頭の中には、幼き日に見た動画……あの投手のフォームがリフレインしていた。朧気だった追憶の映像が、不思議と鮮明に甦っていく。思い浮かんだ動きをまさしく投影したかのように、ヒロは一挙一動そのままに同じ所作を取る。
両手を高々と大きく振りかぶり、上げた両手を下ろしながら上半身を右後ろへと大きく捻る。
ヒロの背中が打者に見えるほどで、その独特の姿勢に打者の部員や捕手、見学者一同は驚きで目を大きく開いてしまった。そして無我夢中を越え、無我の境地に達していた精神状態のヒロは、限界まで捻った後は、身体が戻る反動に身を任せて、腕を振り切った。
竜巻を体現された投法から投じられた球は唸り上げて、捕手が構えたミットへと突き進み、
――ズッバーン!
心地良い大きな音を響かせて収まったのである。
打者はヒロの独特のフォームに目を奪われてしまい、バットを振ることが出来なかった。
驚いたのは打者だけではない。捕手も外で見ていた沙希や他の部員たちも同様だった。そんな中で、ヒロの背後にいた優しいの目の男性の目つきが鋭くなっていた。
「な、なんだ、今のフォーム……」
驚きの表情を浮かべたまま打者がポツリと呟く。捕手は取った球を握り、
「球速は驚くほどでも無いが、勢いがあるな……。おい!」
そう言いながら球をヒロに投げ返した。
ヒロは不慣れに球を捕球すると、続けざまに捕手が声をかける。
「さぁ、続けて投げてこい!」
当然ながら、さっきの一球でテストが終わる訳では無かった。言われるがままに、ヒロはさっきと同じフォームで再び投げる。
今度は打者も振ってくるが、独特のフォームに惑わされてタイミングを合わせられずに、捕手の腰を上げるほどストライクゾーンから外れた球に勢い良く空振りしてしまった。
「ふむ……」
サイに似た男性の優しい目は鋭くなり、ヒロに話しかける。
「お前さん、名前はモトスギくんだったな」
「あ、はい」
「ストレートは解った。今度は変化球を投げてくれ」
「え……変化球?」
今しがた、生まれて初めて直球を投げた人間が、変化球を投げられる訳がない。投げ方を知らないのだから。しかし、なんとしてでも変化球を投げないといけない状況であった。
(ど、どうしよう……)
思考回路がショート寸前になるまで思索にふける……いや、どっちかというと思い出そうとしていた。かつて、今投げた投法を知った時に変化球らしきものも知った……あの記憶を。
なんとか思い出そうとしていると、ポツン――と小さな雫が肩に落ちてきた。それが雨だと認識した途端、小雨がちらつき始めた。この程度の雨なら投球に支障が無いと判断されたのだろうか、誰も中断を口にしない。
ヒロは雨で中止になってくれたらと思ったが、中止になったとしても、結局自分が野球をしなければいけないのだから、ここで雨が降っても別段意味が無いのだ。
額に滴る汗や雨の雫を右腕で拭うヒロ。
「あっ!」
雨のお陰なのか、若干頭が冷えたのが良かったのか。思い出した。あの変化球の投げ方を。
グラブに収めている球ら、父から教わった通りに右手の人差し指と中指の間に深く挟んだ。バスケをしていたからなのか、ヒロは人より指が少し長い。その為か、挟んだ指の間に痛みを感じるものの、しっかりと挟めた。痛みも我慢出来る痛さだ。球が外れないように強く挟み続けた。
「行きます!」
先ほどと同様に大きく振りかぶると上半身を捻り、勢い良く腕を振りきった。実感出来ないほど球が指からスッポ抜けた、無回転で大した速さでも無く直進して行く。
一見、打ち頃の棒球――
「貰った!」
打者の感嘆が漏れ聞こえるかの如く、バットを振る。バットの真芯で球を捕えた――と思った矢先、打者の手前の所で一瞬、球が僅かに揺れる。直近に居た打者、捕手がこの微細な動きに反応すると同時に、球は瞬く間に目の前から鋭く落ちた。
「ッ!」
バットは虚しく空を切り、球はホームベースの上でワンバウンドすると捕手のミットを逸れて後ろへと転がっていった。
打者、捕手、そしてヒロの背後に位置取っていた優しい目の男性だけが、ヒロが投げた変化球に衝撃を覚えたのである。
「消えた……」
打者が先ほどの変化を、そう言い表した。
呆然する中、上空からゴロゴロと重い雷鳴が鳴り響くと、すぐさま激しい雨が降りだした。まるで滝のような雨だ。
「これはイカン。みんな、屋根のある所に避難しろ!」
優しい目の男性が大声で叫んでいる間にも、部員たちは自分のグラブなどの野球道具を手に持ち、監督が率先して走り出していた。
「モトスギくん、テストはひとまず中断だ。ほら、俺たちも速く屋根の所に行くぞ」
「あ、はい」
男性も駆け出して行き、ヒロはその背中を追いかけて部室がある場所へと向かった。
●○●
豪雨とは、こういうことを言うのかと思わせるほど、強く激しく水の雫が無数に降り注ぐ。あちらこちらに水たまりが出来ては雨音がはっきりと聞こえてくる。短時間では止まない雨模様だ。例え雨が止んだとしても、グラウンドは水浸しで暫くは使用不可であろう。
だがヒロは、そんな雨よりも気に掛かることがある。その方向を、黙したまま見つめていた。ヒロの視線の先には、先ほどのテストに立ち会った三人……打者、捕手、そして優しい目の男性が監督に呼ばれ、部室から少し離れた場所で話し合っていた。
「で、どうだった?」
テストの間、ずっと黙って見ていただけの監督が訊いてきた。
「そうですね。一言で言えば面白いですね。あのフォーム、それにあの変化球も初めて見るものでしたよ」
捕手を勤めた男子が感想を述べると、打者の男子が口添えをした。
「あの変化球は凄かったですよね。初めは抜け球で絶好球に見えたんですが、いきなりパッと目の前から消えたんですよ」
「消えた?」
監督は訝しげな表情を浮かべつつ、「おい。後ろから見て、どうだった?」と、優しい目の男性に訊ねた。
「モトスギくんが投げた“あの変化球”は、地面に向かって落ちるように曲がっていました」
「落ちるように? 縦スライダーか?」
「いえ。握りを見ていたら、これも変わった握りをしていましたよ」
「変わった握り? どうなんだ?」
「人差し指と中指でボールを挟んでいました」
「指で挟む? パームボールみたいな投げ方だが……違うみたいだな。あれは親指と小指で挟むし、変化の仕方も……」
「ええ。あの変化は、今まで見たことが無い変化でしたよ」
「んー、そうか……」
一通り意見を聞くと、監督は頭を下げて暫し考え――さっと顔を上げた。
「エースから見て、どうだ?」
優しい目の男性が答える。
「スピードもコントロールも目を見張るものではありませんが、あの変化球には可能性を感じました。多分、あの変化球は一流のバッターでも手こずると思いますよ」
「……そうか、わかった。しかし、本当は捕手が欲しかったんだけどな……」
そう独り言を呟き、再び頭を下げたのだった。
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監督たちが話し合っている姿を、遠目でヒロは不安そうな表情で伺っていた。
周りには雨宿りしている他の部員がいたが、誰もヒロに声をかけず、余所者さんの扱いで見て見ないをフリをされていた。だから自然と距離を取り、隅っこで小さくなっていたのである。
そんなヒロを気にしてか、マネージャーの沙希が話しかけてくれた。
「モトスギくん。なに、元気無い顔をしているのよ」
「あ……だって、テストが……」
まさに水入りでテストが途中で終わったことに悪い結果しか浮かばない。たった三球しか投げていない。ましてや、その内の一球は変化したものの捕手が取れなかった。これで合否の判定がされたら、不合格の可能性の方が高い……と、戦々恐々としていた。
「すごい球投げていたじゃない、大丈夫だよ!」
「……そう言って貰えて嬉しいよ」
初めての投球に、よくよく考えたら自画自賛したい程だった。ちゃんと球は真っ直ぐ投げられ、変化球もかつて見た通りのような変化の仕方をしていた。とても初めて投げたと思えないほどに。好きな人に似ている沙希に褒められたからなのか、先ほどの不安が薄れプラス思考になった。そして、これまでの緊張や疲労が若干和らいだ。
「ねぇ、モトスギくん。あの投げ方って、どこで覚えたものなの?」
「え? えーと……昔に、ちょっとね……」
「誰かに教わったりしたの?」
「教わった……といえば、教わったのかな……」
幼少の頃に見たネットの動画と父親の姿を頭の中に浮かべていると、
「え、それは誰に?」
沙希が興味津々とヒロに接近してきたのである。沙希の吐く息が顔にかかってきそうなほどの距離。誰かに背中を押されようとしたら、間違いなく青春の一ページに残る思い出が生まれる。と、淡い期待で胸を膨らませてしまうが、残念ながらそんなことはならない。
ヒロは少し熱を帯びた頬を沙希から逸らし、
「そ、その……。子供の時に、ネットで見たんだ。こういう投げ方をする人の……」
何気ない発言に、沙希が「ねっと?」と不思議そうな顔した。それを見て、ヒロも不思議に思った。『ネット』なんてものは、今の時代……コンピューター社会でなら誰だって知っている用語なのに。
続けて話そうとしたが、
「うっ!」
周りから殺気が込められた視線をヒロは感じた。それは野球部員の大半がこちらを見ていたのである。
やはりマネージャーは、どこも部のアイドルのようなものだ。それを見ず知らずの野郎と仲良く話しているだけでも、敵意を向けられるは当然である。なので、沙希から一歩離れた。それだけじゃまだ充分では無かったみたいだったので、もう一歩離れた。
「あ、戻ってくる」
そうこうしていると話しを終えた三人がこっちへと近付いてくるのを、沙希が気が付いて声をあげる。だが、監督は反対方向へと歩いていくのが見えた。
その行動にヒロは大きく落ち込んでしまった。一番偉い人がそっぽを向いて、どっかに行ったということは……。
肩をガックリと落としているヒロの前に、あの優しい目の男性が立った。
「えーと、こういうのは本来、監督とかキャプテンが言うのが良いんだけど、監督は用事でさっさと帰ってしまってな」
申し訳なさそうに言うと、気を取り直して真面目な表情でヒロを見つめると、優しい目の男性は自分の右手をヒロの前に差し出した。
そして、一言。
「おめでとう」
「へっ?」
「テストは合格だ。今日からお前さん……モトスギくんは野球部だ!」
自分が思っていた正反対の言葉にヒロは呆然となり、開いた口が塞がらない。そうしていると沙希が拍手をして、
「おめでとう、モトスギくん!」
祝福の言葉を述べてくれた。ここで、ヒロはハッキリと理解したのである。
「受かった、ということですか?」
「ああ、そうだ」
優しい目の男性は、より優しい表情で差し出していた手でヒロの手を取り、強く握った。
「期待しているよ。これから宜しくな!」
その言葉がヒロの耳に響き渡る。しかし、未だ信じられない。たった、あれだけ……三球しか投げていないのに。完璧なる野球の素人が合格した事が理解出来なかった。
愕然としたヒロの代わりに、宙に浮いていた野球の神様が胸を撫で下ろし、ニッコリと喜んでいた。
『まず第一関門は、オッケーイ! ってことかしらね。でもフォークボールで、あんなに驚いて……。もしかして、この世界って……』
この異世界について思考を巡らせていると、いつの間にか降っていた雨が弱くなり、遠くの雲の切れ間から光が差し込んでいた。しかし、ヒロの心は晴れてはいなかった。合格したものの、野球は素人である。そして此処は、自分が居た世界とは別の世界。他にも様々な不安要素があり、これからの先を考えると不安でしかなかった。
「そう言えば自己紹介がまだだったな。オレの名前は、イナオ和久。三年で副キャプテンを務めている。ところで、モトスギくんは何年何組なんだい?」
「え、あ、それは……」
早速、不安である要素の一つを突っついてきた。
言葉に詰まるヒロ。なぜなら自分はここの学生……元より、この世界の住人ではないからだ。戸籍すら当然ながら存在しないだろう。自分が何者なのか証明するモノが無い。
迷いに迷う。だけど、迷っている時間は無い。沈黙が続けば怪しまれてしまう。苦悩するヒロが捻り出した言葉は――
「じ、じつは……転校生なんです」