第一球 最初に覚える変化球はフォークボールであれ -2-
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「…い、大丈…か!」
「しっかり……! だ、誰…、保健の先生を……でこい!」
「いや、保健室に連れて………方が良い………ないのか?」
真っ暗な空間に、騒騒しい声が聞こえてきた。
「う……うん……」
慌ただしく騒がしい声に呼び覚まされ、ヒロは目蓋を開いた。その途端、眩しい光が目に差し込んできて、思わず目蓋を閉じてしまった。すると思い出したかのように後頭部からズキズキとした痛みを感じた。
「痛た……」
我慢しつつ、ゆっくりと再び目蓋を開くと、周りを多数の人たちが取り囲んでおり、ヒロの身を案じてくれていた。
「おっ! 気付いたか。おい、どうだ。身体の方は大丈夫か?」
後頭部の痛みと共に、頭の中がグワンクワンと揺れては少し朦朧している。野球の硬球が当たったのだ、脳震盪の一つぐらい発症しているかも知れない。しかし、我慢できる範囲だった。上半身を起こし、
「ええ、なんとか……あれ?」
後頭部を擦りながら周囲を見渡したヒロは、首を傾げた。
自分の周りに居る人物たちは見覚えの無い人たちばかりで、記憶の中にある顔見知りの仲の良いチームメイトや部活の先輩の姿などは、どこにも居なかったのだ。
一時的な記憶喪失なのか。まだ頭がハッキリしておらず、ボンヤリしている。その所為なのか、周りに居る人たちが誰なのか、誰一人も解らないでいた。
そうこうしていると、取り囲んでいた一人の男性が呼びかけてきた。
「君、大丈夫か?」
その男性は体格の良い体をしていて、目が細く柔らかい物腰で優しい雰囲気を醸し出しており、なんとなくだが動物のサイに似ている感じがした。
「あ、はい……。大丈夫です……」
「そうか。いや、いきなり倒れたから、どうしたかと思ったよ」
「倒れた……。自分は倒れていたんですか?」
「ああ、そうだよ」
倒れていた理由……その記憶は在った。
部活の練習……ランニングの最中に、飛んできた硬球が運悪く後頭部に当たったのだ。それで運悪く死んでしまったのだが、野球の神様に……。
ヒロは反射的に再度辺りを見渡して、ある人物……野球の神様を探したが見当たらなかった。そんなヒロの突然の行動に、最初に声をかけてくれたサイに似た男性が「どうした?」と不思議がる。
「起き上がれるか?」
「あ、はい……」
立ち上がろうとすると足下がふらついてしまい、再び地面に尻もちをついてしまった。
「まだ、無理をしない方が良いな……」
ヒロたちの様子を伺っていた野次馬の一人が話しかける。
「おい、一応保健室に連れていった方が良いんじゃないのか?」
「確かにその方が良いな。よし!」
そう相槌を打ち、サイに似た男性はヒロの方に背を向ける。
「ほら、保健室まで担いでやるから、乗っかりな」
「え、あ、その……」
「いいから。速く」
「あ、はい……」
ヒロは言われるがままにサイに似た男性の背に乗っかかると、軽々と背負われてしまう。
「それじゃ、行ってくるわ」
「あとでマネージャーにも行かせるから、お前はすぐに練習に戻ってこいよ」
「はは、わかってるよ」
男性はヒロの重さを気にすることは無く、軽やかに走りだした。
こうして誰かに背負われるのは何時以来だと感慨にふける間もなく、ヒロは流れる景色を見て、違和感を生じた。どうも見覚え無かったのである。
高校に通い続けてもう四ヶ月以上は経っており、流石に学校の見た目や構造は把握している。にも関わらず、ヒロたちが向かっている先にある校舎は、初めて観る建物のようだった。
「こ、ここは……うっ!」
混乱により頭に響く頭痛が増していき、本当に記憶を喪失したのでは無いかと不安になる。そんなヒロの気持ちを露知らず、サイに似た男は逸早く保健室に辿り着くべく凄まじい速度で走っており、安定性を犠牲にしているので揺れが激しい中、落ち着いて考えられる状況ではなかった。
●○●
保健室に担ぎ込まれたヒロは、おとなしくベッドに寝かされていた。保健室の担当医がいなかった為に、ここまで運んでくれた男性は先生を探しに、すぐさま退出していったのである。
ヒロはポツーンと一人となっていたが、やっと落ち着いた環境となったので、自分と現状について考えていた……というより振り返った。まずは自分が記憶喪失になっていないかを確認する。
自分の名前は、本杉陽朗。先月十六歳になったばかりの高校一年生。好きな食べ物は、カルボナーラ。
「うん、自分の名前は本杉陽朗だ。それは間違いない。で、通っている高校は蒼海高校……なんだけど。高校の保健室って、こんな感じだったかな……」
普通に学校に通っていても、滅多に保健室には行くものではない。過去に一度、足を挫いた時に来ただけだった。だから保健室の構造をよく覚えていなかったが、大体保健室はどこも似たようなものなので、大きな違いを見つけることは出来なかった。
中学校の保健室もこんな感じだったと、ヒロは過去の記憶を思い返していた。
「いや……。保健室よりも、やっぱりこの高校だよな……」
背負われて移動している間、校舎内もある程度確認していたが、明らかに自分の高校……蒼海高校とは様子が違っていた。まるで別の高校に来ているようだった。
そして次に気になったことを考察する。自分が倒れていた時に取り囲んでいた人の中に、バスケ部の面々がいなかったことだ。
その流れで、なぜ倒れていたことを思い返す。土曜にも関わらず、部活……バスケ部の練習があって高校に来ていた。
「確かあの時……グランドで走っていた時に、突然後頭部に痛みが奔って、気を失って……」
幽体離脱をしたような時に、バスケ部や野球部の連中が取り囲んでいたのが見えていた。もしかしたら、気を失った自分をほったらかして立ち去ったのでは、とも考えるが……。
「それは無いよな……」
四ヶ月の付き合いだが、そこまで薄情な連中では無いと否定する。そもそも人間としての同義で、怪我人を放置したりはしないだろう。
「その後は……」
その後の出来事。忘れようにも脳裏に焼き付いてしまった出会い。野球の神様と称する女性と出会ったことを思い返すと、思わず頭を抱える。
「あっちの方が夢だったような……」
『夢じゃないわよ』
ヒロの独り言に返答があった。
ふと声がした方へと顔を見上げると、現時点で唯一見覚えがある人物が宙に浮いていたのが視界に入った。ヒロと目が合うと、
『ハロー』
気軽に挨拶をしてきた。その人物は、昇天している時に逢った女性……野球の神様だった。
「うわっ!」
突然の登場に驚きの声を上げるヒロ。野球の神様は、まるで霊体のように透けており、背後が見えていた。その姿に普通の人間ではないということは一目瞭然だった。
『どうも~。どう、元気している?』
「た、たしか……野球の神様、の方ですよね」
『オッケーイ(その通り)! ふふ、覚えてくれて嬉しいわ』
「はぁ……」
明朗なテンションに、初めて逢った時と同様にヒロは気後れしてしまう。
『さてと、なんで私がこうして現れたのかは……。まぁ、ウスウス気付いていると思うけど……実はココ、君がいた世界とは別の世界みたいなんだよね……』
「へっ?」
野球の神様の衝撃的かつ理解不能の発言に呆然とするも、その言葉の真意を確認する。
「別の世界、というのは?」
『いわゆるパラレルワールド(並行世界)とか異世界ってやつ。ほら、マンガやアニメとかでよくあるでしょう。現実の世界とよく似たような世界が、別次元にあったりする』
「ええ、まぁ……」
人並みにマンガなどは嗜んでおり、パラレルワールドが何であるかは理解してはいるが、
『それが、ここみたい』
「はっ?」
意味が解らない。というより、理解の許容範囲を遥かに越えてしまっている。いや、指摘された通り、そこはかとなく勘づいていたが理解したくなかった。
『ほ、ほら。人を甦させるなんて初めてだったし、ちょっとミス……じゃない。初めてのことは、大体トラブルやイレギュラーは起きるもんよ!』
仕方がなかったと、野球の神様は弁明する。
「な、なんで生き返させたら、別の世界なんかに……」
『その理由は、流石の私(神様)でも解らないの。ゴメンね……。人間を蘇生するなんて、物凄く超常なことだからね。それに伴って超常的なことが起きても、変じゃないわよ』
野球の神様ではあるが、神様は神様である。その神様ですら解らないことが、ただの人間であるヒロが解るはずが無くて当然だ。
「まぁ……生き返せてくれたくれたのは、ありがたいと思っていますが……。それじゃ、元の世界に戻してくれませんか?」
生き返させてくれたのなら、元の世界に戻すことぐらい出来るだろうと軽く考えていた。そんなヒロの発言に、野球の神様は笑顔で首を傾げてしまった。その態度にヒロは察した。予感したことに青ざめつつ、震える声で問い掛ける。
「えっ!? ま、まさか……戻れないんですか?」
『うん、あ……。戻してあげたいのは山々なんだけど、今すぐは無理かな~』
「今すぐは、ってことは、戻ることはできるんですか?」
『そうね。君が、この世界で“野球”で活躍したりして、貢献したらね!』
「へっ?」
またしても不可解な言葉に呆気に取られ、言われた言葉を繰り返す。
「野球で活躍? 貢献? な、なんでです?」
『一応、私は神様でしょう。で、神様って奉られる存在で、奉られてなんぼの存在でもある訳。ここまでは解ってくれている?』
「ええ、まぁ……」
『それで、奉られてこそ私たちの力にもなって、奉じてくれた方にある程度、還付することが出来たりするのよ。そうしながら、人間と神は付き合っているのよね』
「はぁ……」
『さて。君、私は何の神様だったでしょうか?』
何度も紹介されたり、精神洗脳まがいなことも受けたので、目の前の人物が何者かは当然知っている。
「それは野球の神様ですよね」
『そう。つまり、野球の神様が求めることは、何か解るわよね?』
「それは、野球ですよね」
ヒロの答えが正しかったのか、野球の神様は満面の笑顔で返す。
『オッケーイ! そう。野球の神様に奉納するべきものは野球。そして、君に求めることは、君が野球で活躍することが奉じることになって、私の力となり糧となるのよ』
言いたいことは解った。しかし、
「だ、だからって、なんで自分が野球をしなくちゃいけないんですか?」
『君を甦させた時に、非常に膨大な神通力って言う、パワーを使っちゃたのよ。もう空っぽでね。それで、そのパワーを回復するために野球を奉納して欲しい訳よ。それで奉納してくれる相手は、当の本人であれば、尚の良しよ!』
これまでの話しをまとめて、自分なりに解釈すると。
「……つまり、自分が野球をすることで、神様の力を回復することが出来て、力が回復すれば、元の世界に戻れる……戻してくれるってことですか?」
『オッケーイ! その通りよ!』
野球の神様の真意を理解したが、今ひとつ付いていけていなかった。理由としては、これまでの展開が急過ぎるのもあるが、いきなり野球をしろと言われても中学の体育授業でやったソフトボール程度で、本当の野球はやったことは無い。
少し前に野球は楽なスポーツだと思っていたりしたが、簡単なスポーツだとは思ってはいない。当然ヒロは、困惑するしかなかった。
そんなヒロの気持ちなんか露知らず、野球の神様は話しを続ける。
『幸い、この世界には野球が在って盛んみたいだし、君が元いた世界とよく似ているからそんなに心配しなくても大丈夫よ』
「あ、いや、そういうことじゃなくて……」
ヒロと野球の神様の会話の途中で保健室の扉が開けられ、一人の女子が入ってきた。
「あ! あなたがグランドで倒れていた人ね。どうですか、体調の方は?」
その女子をひと目見て、ヒロは驚きの顔を浮かべて思わず呟く。
「橘、沙希ちゃん……!?」
保健室に現れた女子の顔や髪型や姿などの見た目が、元の世界で野球部のマネージャーでヒロが密かに想いを寄せている橘沙希にそっくりだったのだ。違いがあるとしたら、眼鏡を掛けているぐらいだろうか。
「え! どうして、私の名前を? どこかでお会いしましたか?」
偶然にも名前までそっくりだったようだ。
見ず知らずの相手から、突然自分の名前を呼ばれて驚く沙希。不審に思い、歩み進めていた足を止めた。
「あ、いや。その……」
(どういうことだ?)と、そう頭の中で思い浮かべると、
『パラレルワールドだからね。他人の空似でしょう』
野球の神様が答えてくれた。しかも、この声はヒロだけにしか聞こえていないようで、神様の姿も橘沙希に似ている女子には見えていないようだった。
(そうなんですか?)
『間違いなくココは、君がいた世界じゃないからね。まぁ偶然、似た子が居てもおかしくないでしょう』
野球の神様の言葉にヒロはなんとなくだが納得し、訝しげの眼差しでこちらを見ている沙希の誤解を解くことにした。
「あ、ごめん。自分の知っている子にそっくりだったから……」
「そ、そうなんですか……。でも、どうして、私の名前も?」
「そういえば名前も……。君も橘沙希って言うの?」
「はい。私の名前は“タチバナ沙希”です。貴方の知り合いの人も、タチバナ沙希って言うんですか?」
「う、うん……」
相槌を打ちながら、野球の神様に語りかける。
(こういうことって、あり得るんですかね?)
『ん~。珍しい名前って訳じゃないから、有り得るんじゃないの。現に、君の世界でも同じ名前はいたりするでしょう?』
本杉陽朗――未だかつて、自分と同じ名前どころか苗字すら同じ人に会ったことは無かったが、今はそれに留意する時では無い。
(まぁ、そうだと思いますけど……)
橘沙希にそっくりで、しかも同じ名前。これは偶然では片付けられない、一種の奇跡だとヒロは思った。それは沙希に似た女子も同じ気持ちだっただろう。
「その人も同じ名前なんですか。すっごい偶然ですね」
「うん。自分もそう思うよ……」
「そういえば、あなたのお名前は?」
「自分の名前は、本杉陽朗って言います」
「モトスギ、ヒロさんですね、解りました。それでモトスギさん、体調の方は大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ。ちょっと、まだ頭に少し痛みがあるけど……」
「そうですか。それじゃ、まだおとなしく寝ていた方が良いですね。あ、ここに来る途中、イナオさんから事情は聞きました。今、保健室の先生が出掛けていていないみたいですけど、体調が落ち着くまでゆっくりしてください。何か飲み物でも持ってきましょうか?」
「あ、はい。お願いします」
「それじゃ待っててくださいね。持ってきますから」
そう言うと沙希は保健室を出ていく。
別人だとは言え、自分が思い寄せている女子に似ている子から名前を呼ばれ、少しお喋りしたことで、ヒロは少々惚けてしまっていた。そんなヒロの夢を覚ますために、
『えーと、ヒロくん』
先ほど名前を名乗ったことで、ヒロの名前を知った野球の神様が“くん”付けで呼びかけてきた。
「うわっ! ああ、野球の神様……。そういえば、いたんですね……」
『いたわよ。そんなことより、元の世界に戻るために野球をしないと!』
「あっ……」
自分が成すべきこと……本題を思い出す。
「でも、野球って……」
『仕方ないでしょう。私が野球の神様なんだから。野球で奉ってくれないと、還付することが出来ないんだけど。まぁ、私が恋愛の神様だったら、ヒロくんが恋愛成就するだけで良かったんだけどね……』
と言いつつ、ニヤニヤとした表情でヒロに生暖かい視線を向ける。一瞬で赤面になるヒロ。さっきの沙希への態度で、野球の神様に自分の想いがバレたことに焦ってしまう。
「なぁっ! えぁ、あ、その!」
『とりあえず、こんな所で寝てないで、さっさく野球をしに行きましょう』
「野球をするって……何処で?」
『一応、ここは高校みたいだし。野球部はあるでしょう。そこに入部しましょう』
「ええっ!」
『ほらほら。元の世界に戻りたくないの?』
「そうだけど……。あっ、ちょっと……」
野球の神様はヒロの手を取ってベッドから引っ張り出そうとしていると、保健室の扉が再び開き、コップを手にして沙希が戻ってきた。
「あ、もう起き上がっても大丈夫なんですか?」
「えっと…その……」
今から未知なる冒険のようなものに出掛けようとしているヒロは、返す言葉が見つからなかった。すると野球の神様が肩を叩く。
『お、ナイスタイミング。丁度いいわ、この子に野球部が在るか訊きなさい』
「でも……」
『君は、野球をするために野球部に入るしか無いんだから、覚悟を決める前に行動しなさい!』
沙希は、突然黙り込んだヒロに疑問に思い、声をかけようとしたが、その前にヒロが話しかける。
「あ、あの!」
ヒロの額には汗が浮かび、少々強張った表情になっていた。沙希は思わず臆して、一歩後退りしてしまう。
ヒロに選択する権利も迷う権利も無かった。この見ず知らずの世界から、元の世界に戻るためには、野球の神様が提示したことを成し遂げるしか無いのだ。
いや、他にも方法があるのでは?
と、蜘蛛の糸をたぐり寄せるように淡い希望を膨らませてみたが、先ほどみたく心を読まれたのか、野球の神様が『ないない』と素っ気なく手を横に振った。
目に見えない重圧が自分の肩に乗っかった感じがした。どうやら、この運命から逃れられない。観念したヒロは渋々と、弱く、小さく、儚げな声で口にした。
「野球部に入部したいんですけど、野球部は何処にありますか?」