第14話 サーベルタイガー
剣歯虎は艶のある群青色の体毛を身に纏い、王者の風格を漂わせ悠然と立っていた。
猫科の猛獣の顔はともすれば笑っているように見える。そう感じるのは剥き出しになっている巨大な牙のせいだろうか。
お互いの視線はずっと合ったままだ。野生動物は視線を逸らした瞬間に襲ってくると何かで聞いたことがあるが、Noahの獣にもそれが当てはまるのかはわからない。
普通ならレアモンスターに遭遇すれば喜ぶのかもしれない。だが今のサツキにとっては生命の危機でしかなかった。そもそも森林虎ですらサツキ一人ではぎりぎりで勝てる敵なのだ。そのレアモンスターであるからには、強さは推して知るべしだろう。
逃げるにしてもグリンディンヴァルトは絶望的なまでに遠く、近隣の村がどこにあるのかもわからない。そもそも昨日着いたばかりで、このエリアの地理はまだ頭に入っておらず、見当違いの方向に逃げる可能性が高かった。
最も問題なのは虎の足が速いことだった。巨大ミミズや砂漠アリジゴクなどとは違い、逃げたところで振り切れないのである。それはグリンディンヴァルトに来るまでの戦闘で確認していた。
ギルドチャットで助けを求めたところでニルたちが間に合うはずがない。ならばいらない心配をさせることはないだろう。
サツキは覚悟を決めて曲刀の両手剣を構えた。
剣歯虎はサツキが迷っている間はそれを待つように微動だにしなかったが、シャムシールが抜かれるのを見ると、その刃の輝きに誘われるように襲いかかってきた。
人の歩幅ならば十歩はある距離をひと跳びで詰めると、その長い牙を突き立てるように口を大きく開けて噛みついてくる。
サツキは転がるようにしてかろうじてそれをかわした。
しかし立ち上がったところに鋭い爪を持った前脚が振り下ろされる。シャムシールで防ぐことができずに、ニルたちに貰ったえんじ色の革鎧に爪の痕がついた。サツキにそれほどダメージがなかったのはこの鎧の防御力のおかげだろう。
守っていても勝てるわけがない。攻撃は最大の防御と渾身の突きを繰り出す。だが剣歯虎は後ろに跳び退り軽々とそれをかわした。
サツキは諦めずに追撃をかける。右から袈裟に斬り下ろし、それをかわされても動きを止めずに流れるように左から横に払う。剣歯虎は状態を低くしてそれをかわした。サツキはまったく同じ攻撃パターンを繰り返し、それがことごとくかわされると、三回目の攻撃を右袈裟の斬り下ろしまではいっしょだが、次の連携を横に払うのではなく、思い切り踏み込んでの左下からの逆袈裟に変えた。
サツキの鋭く斬り上げたシャムシールが確かな手応えを感じた――が、刃は剣歯虎の巨大な牙によって防がれていた。
そのまま剣と牙での鍔迫り合いになる。
だが力でかなうはずがない。このままだと押し込まれる――そう思った時、押してくる力がふっと抜けた。サツキがバランスを崩して前のめりになると、剣歯虎が二本の牙で絡め捕るようにして、サツキの手からシャムシールを弾き飛ばした。
あっと思う間もない。そのまま眼前に巨大な牙が迫り、首に深く突き刺さるかと思われた瞬間――サツキは間一髪で『蜃気楼』を発動した。
サツキの姿をした幻影が剣歯虎の牙に突き刺されて、ゆらめきながら消えていく。
これが砂漠の民がLv25で覚えるアビリティだった。その効果は幻影を作りだして身代わりにさせることで、敵の攻撃を一回だけ完全に無効にできる。
しかし命拾いをしたとはいえ状況は絶望的だった。
ルナティックダンスを発動しようにもシャムシールは剣歯虎の背後、サツキからかなり離れた地面に突き刺さっている。あそこへ行くまで攻撃を避け続ける自信はなかった。ミラージュのリキャストは10分である。
今からでも逃げられるだけ逃げてみるべきだろうか。
サツキがそう考えた時、鋭く風を切り裂く音がしたと思うと、剣歯虎の眉間に一本の矢が突き刺さった。
剣歯虎は大きく咆哮すると、サツキを突き飛ばすようにして矢の飛んできた方向へ猛然と駆け出す。
振り向いたサツキの目に映ったのは、凄まじい勢いで迫り来る剣歯虎を前にしても、顔色ひとつ変えずに長弓を構える、美しい女性エルフの姿だった。
剣歯虎が大きく跳躍して跳びかかる。彼女がぎりぎりまで引きつけて放った矢は、狙いにたがわずその胸に深く突き刺さったが、剣歯虎の勢いは止まらずそのまま前脚を振るう。それをぎりぎりでかわした女性エルフの髪が数本宙を舞った。
サツキはそこで我に返り、シャムシールへと駆けよると地面から抜き取る。そのまま加勢しようとすると鋭い声で止められた。
「来るな! 誤射したらおまえが死ぬ、離れていろ」
そう言いつつ女性エルフは一度に三本の矢をつがえた。
しかし離れていろと言われても、元はといえばサツキの戦いである。Noahの敵占有権は最初に攻撃した者にあるので、救援に入った人間には経験値もアイテムも手に入らない。つまり彼女は何の得にもならないのに助けてくれているのだ。黙って見ているわけにはいかなかった。
そこで何気なく彼女のステータスを調べてみてサツキは驚いた。隠された状態になっていなかったのだ。
名前:Mystia
所属ギルド:
種族:エルフ
血統:光の眷属
職業:弓術士
Lv:51
ミスティアという彼女はLv51だった。それだけあれば剣歯虎の相手は一人でも大丈夫ということなのだろうか。だが遠距離攻撃役は防御に関してはほとんど後衛と変わらないと聞いたことがある。せめて盾となるように動くべきだろう、サツキはそう考えてミスティアの前に立とうとした。
「来るなと言っただろう!」
ミスティアが声をあげる。その集中の乱れをついて剣歯虎が跳びかかってきた。
ミスティアが一度に放った三本の矢は剣歯虎の両目と口に突き刺さるかと思われたが、引きつけが不十分だったために直前で牙によって叩き落されてしまう。
サツキとミスティアは重なるように地面に伏せて、なんとか剣歯虎の攻撃をかわした。
「おまえは言葉がわからないのか! 離れていろと言ったはずだ!」
「わたしが盾になります!」
「必要ない! 盾役でもタゲが取れないのに攻撃役のおまえに取れるものか」
倒れたままの状態で言い合う二人に、剣歯虎は再び襲いかかってきた。サツキとミスティアは右と左に別れて横っ飛びにそれをかわした。
サツキはすぐに立ち上がって構えるが、剣歯虎の視線は完全にミスティアへと向いていた。おそらく最初に剣歯虎の眉間に突き刺さったあの一撃だけで、ミスティアへのヘイトがサツキを上回ったのだろう。
ミスティアは従容と立ち上がると矢をつがえ、ぴたりと静止した。
思えば彼女は最初からずっとこの構えをしていた気がする。防御のことをまるで考えていないような、敵に体をさらした状態でただ弓を射るタイミングをはかっているような。
するとミスティアが抑えた声で話かけてきた。
「誰にでも自分だけの戦い方というものがある。おまえにもおまえだけの戦い方があるだろう、同じように私にもそれがある。今からそれを見せてやる、離れていろ」
「……わかりました」
サツキは返事をすると、ミスティアの射線に入らないように退いた。
ミスティアと剣歯虎は対峙したまま動かない。ミスティアは矢をつがえてはいるが、弓は体の斜め前に下げたままだ。おそらくこの構えが剣でいうところの正眼の構えなのだろう。
剣歯虎は頭を低くして左右に二、三歩ずつ歩きながら間合いをはかっているようだったが、なんの前触れもなくいきなり駆け出した。
ミスティアはそれを見て弓を頭上に持ち上げ、左手を剣歯虎のほうへと押し出し、ゆっくりと矢を引きながら弓を下ろしていく。素人のサツキが見てもほれぼれするような奇麗な弓引きだった。
そして右手が口元までくるとぴたりと動きを止めた。そのまま迫り来る剣歯虎を見据えて微動だにしない、弓術でいうところの『会』と呼ばれる間だ。
剣歯虎は最後の一歩を大きく跳躍して襲いかかる。その牙がミスティアに届くかと思われた時、弓の正面に障壁のような光が現れたかと思うとそれが収縮して矢先に集まり、放たれた矢が光に包まれて剣歯虎の体を一直線に貫いた。
慣性の法則を無視するように剣歯虎はそのまま地面へと崩れ落ちた。
サツキが確認するとHPは0になっている。
これ以上ない見事な一撃必殺だった。
サツキがイメージしていた弓術士の攻撃は、遠距離からダメージを積み重ねていくものだったが、ミスティアの戦い方は全く違っていた。防御を捨てた超至近距離からの一撃必殺。これが彼女の戦い方なのだろうか。
剣歯虎が消滅するとサツキには経験値が入ってきた。アイテムドロップはなかったが盗賊がいないのならばそんなものだろう。
サツキはミスティアに向き直り、深々と頭を下げて礼を言う。
「危ないところを助けていただいて本当にありがとうございました」
ミスティアは長弓を背負うとサツキのことを上から下まで見やる。
「見かけない顔だな」
「はい、昨日グリンディンヴァルトに来ました」
「こんなところで何をしている?」
「クエストを――そこの洞窟からヒカリゴケを採ってくるやつです」
ミスティアはサツキが指さした洞窟を眺めた。
「あのクエストは今のおまえだと厳しいと思うがな」
「わたしもそう思って進めていません。あらためてギルドのみんなと来ようと思っています」
「なぜそんなことをする」
「え?」
「なぜ必死になってクエストを消化しようとするのかと聞いている」
「なぜって……」
ここにきてサツキもようやく気がついた。ひょっとして自分は責められているのだろうか?
あらためてミスティアの姿を観察する。髪は薄い色をした金髪で、流れるように腰まで伸びている。エルフにしては背がかなり高く、人間の男性と変わらないだろう。エルフらしいクールビューティという言葉が似合う美貌だったが、今その顔に浮かんでいるのは冷たさよりも怒りに見える。
「……あの、わたし何かいけないことをしたでしょうか?」
「いけないことか。あえて言うなら外へ出たことだな」
「外へ?」
「そうだ。なぜ街でおとなしくしていない」
「それは、さっき言ったようにクエストをするために……」
「だからなぜそんなことをする」
どうにも話が噛み合っていない気がした。
サツキはどうこたえればよいものか迷い、話の接ぎ穂をみつけられないまま黙り込んでしまった。
ミスティアも積極的に会話を続ける気はないようだった。
「おまえにも現実世界で待っていてくれる者がいるはずだ。これからは余計なことはせずに街で待機していろ。こんな馬鹿げたことがいつまでも続くわけがない、必ず助けがくる」
それだけを言うと背を向けて歩き去る。
サツキはミスティアの真意がわからず、その姿が木々の間に消えるまで見送り続けた。
グリンディンヴァルトに戻り、夕食の席でそれぞれの報告をしている間もサツキは上の空だった。
ニルとティムがそれに気づき心配そうに声をかけてくるが、曖昧な返事を繰り返し、少し疲れたので早めに寝るとだけ言い残して自分の部屋へと戻った。
サツキはずっとミスティアのことを考えていた。だが情報が足りない。
しばらく横になったまま時間を過ごし、ニルたちが部屋に戻った頃を見計らってベッドから抜け出すと、再び食堂へと向かった。
食堂には宵っ張りのプレイヤーが数人残っていたので、勇気をだしてミスティアのことについてたずねてみた。
彼女はグリンディンヴァルトでは有名人らしく、そこにいた全員が知っていたが「毎日森を巡回している変わり者」という認識で、詳しく知る者はいなかった。
だが最後の一人から思わぬ情報を聞くことができた。彼女はあの日以前は、有名なレアモンスター狩りギルドでギルドマスターをしていたというのだ。
それがあのシステムメッセージが流れてすぐにギルドを解散して、彼女のゲーム開始地点であるグリンディンヴァルトに戻り、今では隠遁生活を送っているとのことだった。
この話をしてくれたプレイヤーは最後にこう付け加えた「ようするにあいつは腰抜けなんだよ」と。
果たしてそうだろうか。
サツキは部屋へと戻り、ベッドに横になりながら昼間のミスティアの戦いと会話を思い返した。
まず彼女は間違いなく強い。以前レアモンスター狩りギルドでギルドマスターをしていたという情報でそれは裏付けられた。
そしてミスティアは今のNoahに強い不安を抱いている。もっと突っ込んで言うならば、Noahでの戦闘不能が現実世界での死ということを人一倍意識している。だからこそギルドを解散し自身は隠遁し、この地域の巡回をして一人でも多くのプレイヤーが戦闘不能にならないように気を配っているのだろう。
そして他のプレイヤーにも、もっとその意識を持つようにと思っている。彼女がサツキに怒っていたのはそのせいだ。
そこまではわかる。わからないのはミスティアの戦い方だった。
剣歯虎を倒したミスティアの戦い方、あれは彼女のオリジナルだ。普通の弓術士はあんな戦い方は絶対にしないはずだ、遠距離攻撃の利点を全て捨てているのだから。
問題は戦闘不能を強く意識しているはずの彼女が、なぜあんな危険な戦い方をするのかということだった。矛盾している。
もちろんそこには何か理由があるのだろうが、少なくとも彼女は腰抜けではない。
サツキはそんなことを思いつつ、いつしか眠りに落ちた。




