第十六話『二度目の対峙――最後の戦い』
長い旅だったと思えば確かにそうだし、本当に色々な事があった。元の世界――本来ぼくたちがいた世界では考えられなかったようなことが――ファンタジー世界で起こるはずのことが、唐突にぼくたちの目の前に現れた。旅の中で何度も泣いたし、何度も怒ったし、何度も笑ったし、何度も敵を憎み、その敵とも話しをした。
長かった。
けれど、短かったようにも思う。
振り返ればあっという間だった。
ここまで。
最後の対峙までは。
問題はこれからだ。
最後の魔――魔の長ゼノ。人の女性を愛し、その愛が砕かれ狂った魔。この世界で屈指の力を――否、最強もしくは最凶といって差し支えない力を秘めた魔。秘めているだけならよかったが、それを世界に向けて振るってしまった。
当然、彼女を奪った人間に対して。
同胞の魔に対して。
その凶拳は振るわれた。
赤い魔。
二対の翼を持つ禍々しい魔。
「フェリルを斬って魔力を持ってるから、ぼくの存在もすでに気づかれてると思う」
ぼくが持っていた利点の一つ、魔力を持たないが故に、敵に気づかれにくいという性質。元々役に立っていたとは言い難いけれど、それでもあって助かったことはある。今回はその性質をハナから捨てている。これで奇襲のようなことはできなくなった。作戦が少し狭まったと言える。
とはいえ、ぼくたちはそんなスマートな戦い方をしたことがない。もっと愚直に、正面から戦ってきた。それでいい。ぼくたちはこのスタイルを貫いて、この最後の戦いに臨むのだ。
ぼくたちは坂を下りて、あの墓地へと向かった。どこにいるのか、その正確な場所は相変わらずわからないけれど、ゼノがいる可能性がもっとも高いのは彼女のところだろう。そういう考えもあるにはあったけれど、本当のところ、ぼくたちは何かに導かれるようにして歩きだしたのだった。
そこは前に見た時と何も変わっていなかった。壊れた墓と、たったひとつだけきれいに保たれている墓。そして――赤い魔。
ゼノはそこにいた。
今はどちらが表に出てきているのか。どちらが表に出てきていたとしても、ぼくらがやることは変わらない。だけど戦うならば、ゼノと戦いたいというのがぼくの本音だった。同じ戦うのであれば、彼自身と戦いたい。
墓の前で座り込んでいたゼノがゆっくりと立ち上がり、こちらへ振り向いた。その体は不安定に揺れ、今にも倒れてしまいそうだ。
「聖……」
不安そうな千紗。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか、自分でもよくわからなかった。平静を装っていても、ぼくの足は笑っている。ぼくの手は汗で湿っている。だけどぼくの心は猛っていた。
ここで終わる。
終わらせる。
「久しぶり? 久しぶり! 会いたかったよ! この身が焦がれるほどに会いたかった! 会いたくなかったのかな!」
「ぼくたちも会いたかったさ」
まさかあの廃坑で遭った魔こそが、ゼノだったとは。誰が予想できたか。圧倒的なまでの不吉。それが今でも、この魔から発せられている。
名もない魔。
狂った魔。その魔は唐突に動き出す。
今までぼくの視界の真ん中にいた魔は、瞬きをした次の瞬間には右の端へと移動していた。〈揺光〉で強化された状態でやっと、ぼくはその動きを見ることができた。魔が大地を蹴ると、そこの地盤はえぐれて砂煙が舞い上がる。風に吹かれて砂煙が流れてしまう前に、魔はぼくの目の前に距離を詰めてきていた。
「聖!」
千紗がすぐにフォローに回り、術式によって強化された拳で魔の頭を横から殴った。魔は豪快に吹っ飛ばされ、数メートル転がってやっと停止した。
まさに神速。
〝武神〟にあてられていた魔力を〝力は満ちて〟に回したことにより、その強化幅が大幅に向上されている。その速度も攻撃力も、決してあの魔に劣ってはいない。
速い。
「キュアアアアアアアアア!」
甲高い雄たけびが空をつんざいた。この声は何度も聞いた。そしてその度に全身に恐れが走るのだ。今回もその例外ではなかったけれど、今までのように体がすくむようなことはなかった。
むしろぼくの体は、目の前の敵を打ち倒さんと唸っているようでさえあった。
起き上がった魔は地を割り、ぼくらの頭上高く跳躍した。魔の後を砕けた石が追い、空からぱらぱらと降り注ぐ。それを〈揺光〉で軽く払い、飛来する魔を注視する。千紗の〝武神〟が使えない今、この距離から攻撃する手段はない。
千紗が一瞬、追いかけて跳ぶような仕草を見せた。ぼくはとっさに彼女の手を掴み、それを阻止する。ここで跳びあがってしまっては、敵の思うつぼだ。こちらは魔法を使えないが、あちらは思う存分使うことができる。もっとも、今の状態のアレが魔法を使ったことはない。だが、絶対に使わないとも限らない。
「危険だ」
千紗はうなずいて、相手の着地地点を予測しながら移動を始めた。ぼくも彼女と何らかの連携が取れるように、目配せをしながら移動する。
「千紗!」
魔が落ちた。
さながら隕石のように、それは一個の弾丸のように、地を割った。もうもうと舞う土煙の中で、大きな影が動く。動き始めるのが早い。魔が砂煙の膜から姿を現し、そしてまたぼくへと向かってくる。前回の戦闘で覚えられてしまったか。
せまりくる魔に〈揺光〉を置くように突き出す。あの勢いで突っ込んでくるなら、その力を利用して魔の体を貫く。それが一番効率が良いはずだ。
「ぜぇっ!」
踏み込んで、両手で〈揺光〉を突き出す。ぼくが踏み込んだことによって、さらに間合いがつまる。魔にしてみてもそれは予想外だったらしく、一瞬、動きにためらいが見えた。そして〈揺光〉の切っ先は魔の体に接触した。魔力が流れ込んでくるのを感じる。さらに後ろから、さらなる追撃を加えようと迫る千紗の姿が見えた。
「イイイィィヤアアアァァァイイイ!」
触れた途端に魔は叫び、真上に跳び上がった。いや、それは不可能だ。魔は宙返りをしながら、ぼくを飛び越えた。その動きに対応する前に、後ろから大きな衝撃音が響く。
「あたしが!」
攻撃し損なった千紗が、その勢いを殺さないままにぼくの隣を駆け抜ける。彼女が通り過ぎたのを目で追うと、その先では魔と千紗の打撃戦が始まっていた。だがぼくに視認できる速度ではなく、ただ殴り合っているのだろうという推測しているだけだ。
〝力は満ちて〟を全力で行使する。
それは今の千紗の速度よりも速い。
あの時――あの町で彼女が速度に特化した時、その場にいたぼくとあいつは千紗が動いたことさえ認識できなかった。圧倒的な破格の力。だが、それを行使する魔力の枯渇を意味するに等しいはずだ。あの時の彼女は、それだけ命をかけた選択をしたに違いない。
魔の長と戦う今でさえ、あれほどの速度を出していないのだから。〝武神〟の触媒に溜めていた魔力を千紗自身に移しているのだから、いくらか〝武神〟に残しているとはいえ、その魔力の総量は今までの比ではないはずだ。それともそれは楽観的観測だろうか。
今はこんなことは考える必要はない、か。
千紗が戦ってくれているうちに、ぼくはあいつにとどめを刺す手段を見つけなければならない。あの魔の反応速度は異常だ。一撃で仕留めなければ、二撃三撃と加え続けるのは骨が折れる。前回と今回では、お互いに戦闘に向けている意識が違うのだ。
あちらも悟っている――ということだ。
ぼくたちが自分自身を目的にここへやってきたということを。
「リィィイイイィイズ!」
魔が彼女を呼ぶ。その叫びはこの一体を震わせたが、それだけだ。そこに何の攻撃性も戦略性もない。いつものアレの理解できない言動。そのひとつにすぎない。気にする必要はない。それで刃を鈍らせる必要だってない。
彼らの周りに赤い色が目立ち始めた。どちらか、もしくは両者が傷ついている。戦っているのだから当たり前だし、ぼくたちは魔を殺しに来ている。だがそれでも千紗が傷を負っているかもしれないと思うと、気が気でない。
早くこの戦いを終わらせないと。
魔の後ろに回り込み、さっき千紗がやろうとしたように攻撃を仕掛ける。しかしぼくが〈揺光〉を振りおろそうとした瞬間、魔を中心として、まるで空気がぼくを弾くような衝撃が発せられた。その衝撃に耐えられず、ぼくの身体は後ろへ飛ばされた。すぐに立ち上がって魔がいたほうを見ると、千紗の姿もそこにはない。そこから数メートル離れたところでひざをついていた。
魔は甲高い叫びを上げ、今まさに立ち上がろうとする千紗へと駆けた。魔の剛腕が千紗に振り下ろされる。しかし、その攻撃が千紗に当たることはなかった。
千紗は気づけば魔の後ろに立っていて、右手にフェリルに作ってもらった球を持っている。魔獣から抽出した魔力だ。彼女はそれを握って壊した。それだけで彼女の顔色が少しだけ良くなった。
魔力によって千紗の位置を察した魔が、その巨体に似つかわしくない軽やかな動きで千紗に追撃を加えようと接近を試みる。そのネコ科の獣のような動きに、千紗は動じた様子もなく応じた。
身を低くかがめて魔の懐に潜り込み、両者の勢いを利用して魔の腹に拳を突き出した。魔の体は宙に浮き、千紗がそれに合わせて跳び上がる。
そこまでを確認し、ぼくも走った。今が攻め時だ。もしさっきのように弾かれたとしても、その時はその時だ。それにあれが魔力による衝撃なら、〈揺光〉で無力化できるかもしれない。
宙を飛ぶ魔に、千紗が両手を組んで魔に叩きつけた。さすがの千紗でも空中で動作を制御することはできない。そのまま宙返りをして、危なげなく着地した。ぼくはその間にも魔に接近し、魔が地面に叩きつけられたとほぼ同時にその場所までたどり着いていた。そしてまだ体に受けた衝撃で動けないであろう魔に、〈揺光〉の切っ先を突き立てる。土煙でその姿を確認することはできなかったけれど、そこには確かな手ごたえと、魔から流れてくる魔力を感じた。
流れてくる魔力で息がつまる。
思考が鈍くなる。
どろどろとした魔力と思念が、ぼくの中を汚していくようだ。
「痛い! 痛いいタいイたい痛いイタイ!」
魔力を吸われる苦痛に魔が悲鳴を上げた。
「千紗!」
ここで止まってはいけない。ここで止まってしまうと、それは前回と同じことになってしまう。
「わかった!」
千紗も駆けつけ、土煙が晴れ、露わになった魔の顔面めがけて右のストレートを放つ。地に倒れ――左腕をぼくの《揺光》に貫かれた魔にガードする術はない。だが、そもそもガードなどする必要がなかった。
「ひっ――」
千紗の口から短い悲鳴が漏れた。放たれた拳に合わせて、魔の顔の半分以上を占める大きな口が、飛び込んでくる拳を待つように、獰猛に――開かれた。
「駄目だ! 千紗!」
千紗の右手のグローブが、青い輝きを放った。