第十三話『雨降って…』
フェリルが出て行った穴倉の中は、ずいぶんと静かだった。ぼくたちはとくに何かを話すこともせず、じっと座っていた。そんな時間がしばらく続き、いい加減その沈黙に飽きてきた頃、千紗が「ねぇ」と不機嫌を隠さずにぼくを呼んだ。
「どうしたの? 不機嫌そうだね」
「どういうつもりなの?」
千紗がぼくを見る目は、今までで一番厳しいものだった。裏切られた――そう言っているようにも見える。
「なんでそんなに怒ってるのか、ぼくにはよくわからないよ」
千紗が怒っている原因は、おおよそ予測ができる。けれど、あれは当然の判断だったように思う。たしかに完全に信用できるかと言われれば、それは難しいだろう。しかし彼女の言い分もまた正しいのだ。そして今回は命に関わる問題で、ぼくたちの旅には目的がある。その目的を果たすためには、少しでも生存する確率が高い選択をしていかなくちゃいけない。
今の状態でゼノと戦い、どうして生き残ることができるだろうか。相討ちさえも疑わしい。そんな戦いに挑むわけにはいかない。
「こんな敵陣の真ん中で休めるわけないじゃん」
「そうは言っても、その千紗の補給用の魔力を準備してくれたのは他でもなく彼らだぜ? それを使うのにもためらうのかい?」
この補給用の魔力を準備することは、敵に塩を送るようなものだ。彼らが無策にそんなことをするとは思えない。それにぼくたちが邪魔なら、すぐにでも殺すことは可能なのだ。バハウと戦うのもふたりがかりでやっと。それに加えてフェリルだ。いざ戦うとなれば、ぼくたちではおそらく勝てないだろう。
こういう状況になって、改めて――レミアさんの言葉を実感するのだ。これまで戦ってきた魔が――あまり強くなかったという事実。外に出てきて暴れていたのは、おそらくゼノの暴走を止めようしなかった魔なのかもしれない。魔は日陰の国の住人だと言っていたから、もとよりあの世界にいたというわけではないだろう。何かのきっかけがあって、流出した魔が――その中でも荒い気質の魔が暴れいていた。そんなところだろう。
「それは……」
千紗は言い淀む。
頭ではわかっていても認めたくない――そういう思いなのだろう。魔は敵。敵は敵という認識でここまでやってきた。なかなか認められないことなのだろう。
「千紗だってわかってるだろ? ぼくたちは限られた選択肢の中で、限りなく悪い選択肢の中で、それでも最善の選択をしなくちゃいけないんだよ」
「わかってるよ……! わかってる。大丈夫だよ、ちょっと混乱してただけ」
「…………」
本当にそうなのだろうか。
千紗は本当に納得したのだろうか。
これはぼくだけの旅じゃない。
千紗だけの旅じゃない。
今までふたりで旅を続けてきたし、世界もかかっている。あの魔がどういう動きをするか、予想すらできない。あのまま彼女の墓で静かに過ごすなら、あるいは平穏なのかもしれない。だがアレには憎悪を抱えている。
人に対する憎悪。
それがいつ、再び爆発するともわからない。
そして何より――アレはぼくたちを認識した。敵として認識してしまったのだ。ぼくたちが向かわずとも、あちらからしかけてくる可能性がある。
「あたしはなんていうのかな……戦闘馬鹿だからさ、難しい判断できないや。でも、聖に任せてたら失敗しないよね? 〝最弱〟って言われていても、あたしに会うまでひとりで生き抜いてたんだもんね」
いつもの自信にあふれた千紗はそこにはいなかった。そこにいるのは、ぼくの知らない卑屈な千紗だった。
「それでも――ぼくはきみがいないと、ここまで来れなかった」
これは慰めで言っているんじゃない。ぼくの飾らない本音だ。旅に指針をくれたのも、戦う力をくれたのも、不毛な旅に色を付けてくれたのも、それは全て千紗だ。彼女と出会ったことによって、ぼくの旅は変わった。行き当たりばったりの旅から、計画を立てる旅になった。
人という字は――なんていう聞き飽きた説教があるけれど、今回ばっかりはその説教を信じたっていい。ひとりではどうにもならない。ふたりいてもどうにもならないかもしれない。けれど、だからといって、大人数いたらどうにかなるってわけでもないだろう。
そこに誰がいるか。
誰かがいてくれるか。
それが大切なんだ。
「よく言うじゃん。人間得手不得手があって、それでも補いながら生きていくんだ――って。だからそんなに思いつめないでよ」
思いつめている千紗を見ているのは――つらい。
「思いつめてなんか……」
千紗は言う。
だけど、その声が思いつめてないというなら、どんな声を思いつめていると言えばいいんだろう。彼女の声に重さがあったなら、それはあまりに重く、地面をへこませていたに違いない。
「じゃあ強がってるよ。千紗は背負いすぎてる」
「それは聖だよ。聖こそなんでもかんでも背負ってる」
「まさか。ぼくはぼくにできることをやってるだけだよ」
「世界を救うことが?」
――――っ
それは……それを言われると、何も言い返せない。
「あたしもそうだけどさ、実際、この世界とか関係ないじゃん。元の世界に戻れない? だったらこの世界で住めばいいじゃん。旅の途中で逃げ出せばいいじゃん。〈邂逅〉? 適当にごまかせばいいじゃん。本当に嫌なら逃げ出せるじゃん。簡単じゃん。魔力がないんだから、魔力を発する全てのものを捨て去れば、聖は認識されないんだから。誰にも見つからないんだから。簡単なんだよ? それでもここまで来てる……。それを背負ってないっていうなら、聖は文字通り聖人だよ」
そんなの――常軌を逸してる。
「…………」
「ごめん」
「いや、構わないよ。きみは溜めすぎてたんだ。たまに発散したからって、だれも怒らなし、気に病む必要もないよ」
もっと言い方があるだろうが。
気の利かないやつだ、ぼくは。
「……ちょっと、外の空気吸ってくる」
立ち上がり、出口へと向かう。
「千紗」
危ないよ――そう言いたかったのだけど。
「なに?」
そう聞かれて、ぼくはその言葉を飲み込んだ。
「気をつけて」
「うん」
彼女は静かに、光の差すほうへ歩いて行った。
薄暗い穴の中で、ぼくは息をついた。とはいえそれは安堵のそれではなくて、沈鬱なそれだったわけだけど。
どうしてうまくいかないのだろう。
ただ旅を確実に進めたいだけなのに。
どちらかが欠けることなく、この旅を終わらせたいだけなのに。それでもこういう悩みがあるっていうのは、もしかしたらぼくが求めたものなのかもしれない――そんな風にも思う。ひとりで旅をしている時は、仲間が欲しかった。共に苦難を乗り越えて、日常を共にする仲間が欲しかった。だったら――今、ぼくたちは乗り越えるべき壁の前に立っている。そういうことなのだ。
「しまった……」
まだ千紗に、対ゼノ戦でのぼくの考えを伝えていない。彼女も彼女なりに考えているはずだけど、明日発つというのなら(彼女はそう考えているだろう)お互いの考えを示しておかなくちゃいけないのに。
いや。
本当はもっと早い段階でやらなくちゃいけなかった。迫る問題を伸ばして……もう後に引けないところまで来ている。
「今からでも――」
だがどうする?
彼女はきっと、ぼくがついていくことを良しとしないだろう。ひとりになりたいはずだ。自分の気持ちを落ち着けるために、煮だった頭を冷却するためにここを去った。なら、ひとまず帰りを待った方が良い気がする。
本当にそうだろうか。
どうにもぼくには、嫌な予感がしてならない。
気づけばぼくは立ちあがり、そこから駆けだしていた。外に出たところでフェリルを見かけた。
「千紗がさっき出て行ったと思うんですけど」
「んー? 門で世界を移動する仕組みについて聞かれたから、本人の意思によって移動するとだけ教えたよ?」
「――何してくれてるんですか!」
キョトンとしたフェリルを無視し、岩壁の間を走った。
だんだんと死臭が臭いはじめ、『あの場所』へとたどり着く。道の先で水音がした。
「千紗!」
規則的にしていた水音が、ふいに止んだ。足を止めずに音のしたほうに走った。そこには予想通り千紗がいて、こちらには向かず、じっとぼくに背を向けている。その先には門があったはずだ。
「どうしてここにいるの?」
「それはぼくの台詞だよ」
「あたしの台詞だよ!」
千紗の声が岩壁に反響する。
「きみがひとりで行くんじゃないかって思ったんだ」
ここで争っても意味がない。ぼくはすぐに折れた。ここで大きな溝を作ってしまってはいけない。
「あたしが信用できなかったんだ?」
「そういうわけじゃない。ただ不安だったんだ」
「同じだよ。でもまあ、行くのはやめにするよ」
「行く気だったんだ」
「……うん」
うなずいて、千紗はこっちに歩いてきた。悔しそうで、泣きそうだった。いや――彼女はすでに泣いているのかもしれない。薄暗いこの場所では、千紗の表情ははっきり見えない。
「ごめん、聖」
「いいよ。でも、次からは怒るよ」
「うん」
ため息をひとつついて、落ち込む千紗の手をとって、フェリルたちの元へ戻った。