第八話『渓谷の底』
〈鏖殺するバハウ〉。
プロレスラーのような体で、背はかなり高い。膝下ほどまでだらりと伸びる腕。黒い外皮に包まれ、その外皮はもはや甲殻のようでさえあった。
それはまるで、最初に戦った魔のようであり。
狂ってしまった魔の長のようであった。
「ゼ……ノ?」
千紗が絶句する。
「違うよ。自分でバハウって名乗ってたじゃないか。似てるけど別の魔だよ。それに羽もない」
千紗の耳元で囁く。
この魔には目がない。それは最初の魔と、ゼノにも共通する特徴だ。だからぼくの存在はそれほどはっきりとは認識されていないはずだ。〈揺光〉や〈邂逅〉の魔力は感じているだろうが、それはあくまで千紗の所持品と思っている――はずだ。ここでぼくが千紗から離れれば、ふたりの人間がそこにいることはわかるだろうが。
「一応聞いておこうか。なにゆえここにいる」
軍団を従える魔は、余裕ある声で言う。
「ここは人間の来るような場所ではない」
「千紗、ここはぼくが」
こくん、と千紗がうなずく。魔力によって性別がわかるなら、これでふたりいることがばれてしまう。けれど、そうではないだろうと思う。仮にわかったとしても、魔が人の性別までちゃんと認識できるだろうか。
「ゼノを倒しに来た」
びくっ、と、バハウの体が一瞬だけ動いた。それは千紗も同じで、小声で「何言ってんの!」とぼくを非難してくる。
「我らが長を?」
「長があまりに暴走しているようなので」
「なるほど……な」
バハウは意外にも、まるでよくわかるといった風にうなずいた。そこには怒りも何もなく、純粋な同意だけがあった。
「……だがここに長はおらん。そして私は私の責を全うするのみ」
ココが四散し、ぼくたちを取り囲む。
「命乞いなら、こやつらを倒してから聞いてやる」
ココは今まで戦ってきたそれとは違い、じりじりと慎重に間合いをはかっている。野性的で戦略的な、そんな間合いの取り方。ぼくたちが隙を見せたら、すぐにでもぼくたちに飛びかかってくるだろう。
そしてココには目がある。ぼくの姿もはっきりと見られている。
……もしかしたら、ココを通じてバハウにもぼくの存在はばれているのかもしれない。そう考えるほうが自然だ。
〈揺光〉を抜き、千紗から一歩離れる。もうばれるとかばれないとか、そういうことを考えている場合じゃない。
ひとまず今は一撃を入れること考えなければならない。そうしなければ、ぼくはココの速度についていくことさえできない。戦いすら始まらない。
「――――っ!」
一体のココが動いた。視界からココが消え、その動きを予想して〈揺光〉の斬撃を置いておく。
「ギャッ」
予想は的中し、ココの腹が裂けた。〈揺光〉を通じてぼくの体に力が流れ込んでくる。だが元々ココの魔力は強くない。流れてくる量も微々たるものだ。
そして今の一合が、開戦の合図だった。
怒涛の如く押し寄せる緑の波。
もはや予想と反射だけで、ぼくは波の中で踊っていた。千紗の様子をうかがう余裕さえない。じわじわと力が流れ込んでくるが、ぼくが受ける攻撃の数も並みのそれではない。けれど的が多い分、当てることも比較的容易ではあった。最悪、滅茶苦茶に振り回してもかするくらいはする。
体のあちこちから血が流れ、痛みでどうにかなってしまいそうだ。
だが、遠のきそうな意識に反して、体はより自由に動くようになってきていた。ものすごく気持ち悪い感覚ではあったが、今はありがたい。
「おおおおおお!」
自らを奮い立たせ、緑の波に挑む。波は徐々に勢いをなくし、せせらぎほどになった。ココたちはもどかしそうに、ぼくたちの回りをうろついている。
多くは乱れぬチームワークでぼくたちの隙を窺っているが、中にはその枠からはみ出る者もいた。もしかしたらそれは陽動で、ぼくたちをひっかけようとしているのかもしれない。けれども、この膠着状態ではその誘いに乗らなければ、ぼくたちの体力が持たない。あちらは数こそ減ったものの、それでもまだまだ多い。体力が限界に近ければ、他の仲間に任せて多少は休める。最悪、バハウ自身が出ても良いのだ。
輪の中から飛び出してきた――しびれを切らしてしまったココが、ぼくに飛びかかってくる。しかし、ぼくはすでにある程度の魔力を吸収し、ココの動きを見ることができる程度には身体能力は向上していた。
「ぜあっ」
ココの爪を峰で受け、返す刀でココの腕を落とした。苦痛で地面にうずくまり、悶えるココの首を落として、ぼくは残った魔に目を向けた。
ココたちが纏う空気が、より張りつめたものになる。戦意はまだまだ健在のようだが、攻めるタイミングをさっきのココのせいで逸してしまったようだ。
「思ったよりはやるようだな」
今まで沈黙を貫いてきたバハウが、ようやく口を開いた。それだけでなく、こちらにゆったりと近づいてくる。
「こやつらがふたりいると言って耳を疑ったが、どうやら本当だったようだ。どうだ、こやつらの魔力を吸った気分は」
「別になんとも」
バハウはココたちの後ろで立ち止まり、顔の半分ほどを占める大きな口を、にぃ、と引き上げた。
「ふん。我らが長を討ちに来たらしいが、それが叶う実力があるか、私が直々に試してやろう」
バハウが口を大きく広げて、大きな口を空へ向けた。
――これは、知っている!
「千紗、避けろよ! 降ってくる!」
「え?」
千紗が呆けた声を上げた瞬間、バハウの上に小さな光の玉が現れ、そこから光が空へ跳び出した。光は放物線を描いて地上に降り注ぐ。光は無差別に降り注ぎ、岩盤をえぐり、逃げ遅れたココの体を弾けさせた。
光の雨をかわしつつ、よけきれない光を〈揺光〉で斬る。強い魔力がぼくに流れ込んでくるが、これを正面切って〈揺光〉で受けるのは骨が折れそうだ。
光の雨は治まらない。
「……うん?」
バハウの近くには光が落ちていない? ということは、あそこは安全圏か。
試してみる価値はありそうだ。
雨の間を縫ってバハウに接近を試みる。バハウはぼくの接近に気づいたのだろう、光の放出をやめ、大きな口を開けたままこちらへ向いた。
「おいおい――」
ぼくへ向いた口に、光が収束する。
「聖!」
動けなかったぼくの前を、見慣れた青い閃光が突き抜けた。閃光はバハウの体に直撃し、バハウを岩壁に叩きつけた。バハウは地面に倒れたが、すぐに起き上がりくつくつと笑った。
「なんとも汚い魔力だ。その大きな魔力――よほど濁っていると見える」
「うるさいっ!」
千紗はバハウの言葉を聞いて怒鳴り、また青を飛ばす。バハウはそれを避けもせず、そのままその身に受ける。
なんだろう。
このバハウという魔、戦う気がないのだろうか。
千紗がバハウとの距離を詰め、拳をバハウの腹に叩きつける。バハウはもろにその攻撃を受けて何メートルか飛んでいったが、辛うじて立ち上がった。千紗が追い打ちをかけるために地面を蹴る。
「これで――終わり!」
千紗の右腕が鋭く輝き、バハウに肉薄する――が、千紗は何かを感じたのか、人とは思えないような挙動で攻撃を中止して後ろへ跳び下がった。
岩が削れる音がその直後に鳴り、そこには一メートルほどの氷柱が二本突き立っていた。
「Д§∀ΘΨ§? §ΘΨ▼∀ζ」
岩壁の上、そこに一体の魔が立っていた。
くそ! まだ増えるのか!
「くすくす……なんだ、そこにいるのは人間かい? 言ってくれれば人の言葉を使うのに」
魔は人懐っこい笑みを浮かべると、ひょいっと何十メートルかある岩壁の上から飛び降りてきた。そして羽が地に落ちるような軽さで着地すると、ぼくらには構わずバハウへと向き直る。
「何勝手に死のうとしてるんだい? くすくす……きみは心が弱いんだね」
魔の肌は白く、周りの色を反射させてしまいそうな美しさを持っていた。艶やかかで滑らかなその肌には、傷や汚れといったものは見られない。美しい魔だ。魔によく見られる醜悪な顔ではなく、そう――ブリューナがもう少し魔に近い顔立ちをしているような。立ち振る舞いはやはり人のようで、もしかしたらこの魔も人の血が混じっているのかもしれない。
だが、必ずしもそうでもないのだろうと、ぼくはふと思い出した。あの憎い魔――かませ犬のような笑い方のあの魔も、どこか人っぽい部分があった。人っぽいというよりも、人臭いような。
「死ぬことは許さないよ。絶望するには早いんだからね。くすくす」
「このような状況でよく笑っていられるな」
バハウが苦々しく答える。
一体何の話だ。
「仕方ないだろ? これは癖のようなものさ」
「……そうだったな」
バハウは呆れた表情でうなずいた。そしてその美しい魔に手を引かれて立ち上がる。
「紹介が遅れたね。わたしは〈氷結するフェリル〉。よろしくね」
「どうして敵とよろしくしなくちゃいけないんすか」
千紗が拳を固める。
魔は敵。
敵は――敵。
敵は倒す。
それがスタンスだ。
「くすくす。血気盛んなお嬢さんだね。わたしのように淑女になりなさい」
「お前が淑女か。笑わせる」
バハウの呟きは、離れたところに立っているぼくにまで届いた。フェリルにも当然届いているだろう。
フェリルは笑みを顔に浮かべたまま、人と同じようだった手を狼のそれに変化させて、バハウの頬に三本の線を引いた。バハウは顔を押さえて呻いている。自業自得としか言えなかった。
「話し合いの余地はあると思うなぁ」
「ない」
千紗が間髪入れずに飛ばした青。
フェリルは表情ひとつ変えることなく、それを右手ではじいた。
「くすくす……お話をしましょう?」