第七話『日陰の国の洗礼』
落ちている――そう気づいた時には、ぼくたちの落下は止まっていた。
そこは暗い世界だった。
空から照らす光は弱弱しく、どこか病的なものを感じる。今にも光が途絶えてしまいそうな――そんな、心細い光だ。光は空――岩が覆っているかのようにひび割れた空から、辛うじて入り込んでいるだけだ。
「千紗」
「……うん」
けれど、ぼくたちを驚かせたのはそんな暗さではない。
臭いだ。
ここに来てから鼻につくこの臭い。
鉄のようなにおいと、何かが腐ったような臭いだ。
「ひどい臭い……鼻がだめになりそうだよ」
顔をしかめながら千紗が言う。ぼくも同じ気持ちだ。こんな場所に長くいたら気がおかしくなりそうだ。
あたりは岩肌が露出していて、草木はほとんど見られない。日陰の国と言われるだけあって、本当に荒涼とした世界のようだ。
視界は荒れ、臭気がひどい。
「ねえ聖、この臭い……」
「…………」
千紗の言葉を無視して歩く。道はふたつ、ぼくは迷わず右側のほうへ向かう。それに理由があるわけじゃない。強いて言うなら、そちらには何かがある――そんな気がしただけだ。
人が二、三人通れるくらいの幅の道で、両脇をそり立つ岩壁が固めている。奥からかすかな風が吹いてきて、その優しい風とは裏腹に暴力的な臭気を運んできた。腕で鼻を覆って前に進む。
臭いがだんだんときつくなる。
めまいがしそうになるそれは、ぼくたちの精神をじわじわと蝕んでいく。
この臭いの原因は何なのか――それはなんとなくわかっている。知っている。わかってしまう。けれど、ぼくはそれを否定したかった。ずっと黙っている千紗も、きっとそうなのだろう。なにせぼくたちの考えが本当なら、この先には凄惨な景色が広がっているに違いないのだから。
そして眼前に広がる――
赤。
赤。
赤。
露出した岩肌。
草木のない荒涼とした風景。
ひび割れた空。
同じだ。
同じ。
だけど、違う。
そこは赤かった。
「――――っ」
後ろにいた千紗が走っていく音が聞こえた。足音は遠ざかり、遠くから苦しげな呻き声が聞こえた。
込み上げる吐き気を無理矢理抑えつけ、ぼくは赤の中へ歩く。足に不快な感触が伝わり、全身をぞわぞわと悪寒が駆け抜けていく。この世界に来てからいろんな体験をしてきたけれど、これほどの嫌悪感を覚えたのは初めてだ。
そして何より怖い。
ここで一体何があったのか。
想像することさえためらってしまう。
鼻をつくいていたのは死臭。
死の臭い。
できるだけ地面を見ないようにしながら、ぼくは誘われるかのように奥へと歩く。気持ち悪くて吐きそうで、それでもぼくの足は止まらない。止まってくれない。後ろから水音がして、千紗がついてきていることがわかる。相当無理をしているに違いない。数歩歩いては、その水音は止み、また何度か音がする。
「聖……なんなのこれ」
千紗の横に並んで彼女に肩を貸して、赤いじゅうたんの上を進む。
「わからないよ。ただここはぼくたちがいた世界とも、さっきまでいた世界とも違う世界ってことは確かだよね。ここにはここの在り方があるんだよ」
こんな死に満ちあふれた世界でないことを祈るばかりだ。
永遠に続くと思っていた赤の世界はほどなくして終わり、ぼくらを渓谷が迎えた。
ぼくらがいるのは谷底の一角であることがわかる。さっきまでいた場所は、たまたま回りの状況が確認しにくい場所だったようだ。ちゃんと植物は生えているし、川のせせらぎのような音も聞こえる。
今まで見たこともないような壮大な景色。谷底にいるとはいえ、この渓谷の規模が大きいだろうということは想像できた。
「聖、ちょっとごめん」
「どうし――」
切羽詰まった声で千紗が言うので、ぼくは聞き返そうとした。が、千紗はぼくの返事を聞く前に岩壁の方へ駆けていた。岩陰に隠れるようにうずくまったため、もしかしたらどうしても我慢できなくなったのかもしれないと思ったけれど、よくよく考えると今までは堂々とそうだと言っていた。よくわからずそっちを見ていると、またうめく声が聞こえ、続けて水音が聞こえてきた。
「千紗!」
近づくことで鼻につくのは、あの独特の酸っぱい臭い。
「大丈夫か?」
千紗は苦しそうに顔を歪め、何度もおう吐した。ぼくは千紗の背をさすりながら、突然の千紗の異変の原因を探る。とはいえ、その原因はさっきの光景と臭いだろうという結論にすぐに至った。こういう反応を見ると、むしろどうしてぼくが平気なのかという疑問が出てくるのだけれど、それについては考えないことにした。ぼくだって吐きこそしないけれど、精神的なショックは大きい。大きいはずだ。
「ごめん……ちょっとここの魔力が濃すぎて……慣れるまで時間がかかりそう」
「そっか。じゃあもう少し歩いたところで休憩しよう」
本当はここで休憩したいところだけど、さすがのぼくでもここからは早く離れたいと思っていた。あんな凄惨な場所の近くで休憩なんて、気が狂ってるとしか思えない。
「うん……」
ふらふらと立ち上がる千紗に肩を貸して、ゆっくりとその場を離れた。
木や草が少なからず生えているおかげで、気分は少し楽になった。ずっと岩肌だと、こっちまで殺風景な心持になってしまう。
木陰に腰をおろして、カバンから水を取り出して千紗に渡した。最初はショルダーバッグだったカバンだが、大きいのは邪魔ということでどんどんと小型化していった。今はカバンとは言ったものの、実際はカバンではなく、ベルトにつけるポーチを利用している。複数つければ、ひとつの容量の少なさをカバーすることができる。
「ここはあんまり魔がいない場所なのかな?」
ぼくたちの世界でも、どこにでも人がいるわけじゃない。いるところには集中しているけれど、そうでないところには本当に誰もいない。ここはそういう場所なのだろう。
「そうかな……あたしはそうでもないと思うよ」
「そう?」
「だってさっきのあれ、誰かがやらないとならないよ」
さっきのあれ。
赤の絨毯。
「それもそうか……」
となると、やはりいつ魔と遭遇してもおかしくないわけか。
「ちなみに今、魔はいる?」
「ごめん、まだそこまで余裕ないんだ」
「いいよ。とりあえず今は休もう」
どうせあっちも魔力を感じとることはできる。こちらが気づいた時は相手も気づいている。魔はどういうわけか不意打ちというものをしてこない――今まではそうだった――ので、ある時突然攻撃されるなんてことはないだろう。
いや……さすがにそれは甘すぎるか。
千紗がこんな状態だから、ぼくが気を張って回りの状況を見ておかないと。
魔力を感じられない代わりに、視界の隅々に不審な――危険な影がないかを探す。
「来る――!」
千紗が岩壁の向こうを見ながら言う。
「なんだって!」
今、千紗は戦える状態じゃない。ふらふらだ。逃げることも意味がない。千紗は魔力を持っていて、どこに行ってもそれを追跡すれば良い。ぼくは魔力を持っていないが、いくつかの魔具を持っている。魔力による追跡を避けるためには、それらを全て放棄しなくちゃいけない。
当然、そんな選択はできない。
まずあらわれたのはココだった。
一体。
二体。
三体四体五体……。
一団が――緑の一団がゆらゆらと、岩壁の間から現れた。それは今まで見たココからは想像もできない統率された動きだ。乱れぬ足取りで緑の列が進む。
「まさか私が仕事をする日が来るとは思いもしなかった」
緑の列――もはや壁とも言えるそれの奥から、どこかで見たことがあるような魔が姿を現した。
「私は〈鏖殺するバハウ〉だ。門より迷い込んだ者を始末する者」
顔の半分以上を占める大きな口を広げ、バハウは一歩、ぼくたちに迫った。