第四話『魔の棲む森』
この大陸最大の森――そこはツキガセと呼ばれている。森の木々には桃色の花が咲いているものが多いが、それ以外にも多種多様な木が乱立している。人の往来は少ないようで、あるのは獣道だけだ。
森に入ってからは驚かされることが多い。見たことのない生物、植物があちこちに見られる。空飛ぶクラゲのような生き物があちこちでふよふよとしているし、と思えば、一見トンボに見えるがトンボより体がふた回りほど大きく、そして鎧のように堅そうな外皮に覆われている虫が飛んでいる。虫だけではない。木の上を見れば、手足が異様に長い猿のような獣がこちらを見ている。
「ぼくたちが気づいていないだけで、そこらにいるんだろうな」
「そうだね。しかもあの猿みたいなやつ、魔力も少し強いよ」
もちろんぼくにはわからない。ぼくが感じることができるのは、魔が放つ不吉だけだ。もしかしたらそれが魔力を感じているということなのかもしれないけれど、人や動物から全く感じないとなると、どうもそうではないらしい。
魔力を感じるとはどういう感覚なのだろう。
「魔の魔力は感じない?」
門がある森ならもしかしたら、と思ったけれど、千紗は首を振った。
「感じたらすぐに教えてるよ。特に変わった様子はないなぁ。もっと奥に行けば変わるかもしれないけれど」
「そんなもの?」
「そんなもんだよ。どうもこの森自体、かなり魔力が濃いみたいだし」
「ふうん?」
それもぼくにはわからない。
ぼくはただ、見慣れない生き物を見て感嘆の息を吐くだけだ。
背の高い草がぼくたちの行進を邪魔する。それらを手で払い、時には〈揺光〉で刈りながら先へ進む。
「それにしてもその地図、全く役に立たないね」
ぼくが眺めている地図をあごで指して千紗がぼやく。
「まあ仕方ないんじゃない?」
地図はなんというか、説明するのも心苦しいほど頼りないものだ。方角と距離は書かれているが、道順などはない。当然だ。この森には人が通るような道がないのだから。
「でもおかしくない? 人の往来が皆無だったとは思えないんだけど」
「それは……確かに」
多少なりとも人の往来があるなら、それらしい道はあってもいいはずだ。だが道はない。けれどそれはおかしい。もし人の往来が皆無ら、キモンの情報が外に漏れるはずがない。門についてはともかく、〈大いなるもの〉やキモンが滅んだことが知られるはずがない。
「魔法で連絡を取り合ってたとか?」
「いや……たぶんそれはないよ」
魔法での連絡――ぼくが知っているのは『彼女』の魔法〝風の音〟とアランさんの〝小人の贈答〟だ。このふたつは相手を知っている――より正確には、相手の魔力を知っていることが使用の条件となる。人の往来がないなら、そもそもこの条件が満たせない。
「魔法も万能じゃないってことっすねー」
「だね。それに万能だったら術式も作られなかったと思うよ」
「そうかなぁ……万能でも結局は作られたと思うよ?」
「そう?」
「うん。だって万能ってことはその魔法に制約がないってことだよね? でも結局ひとりが扱える魔法はひとつ、多くてもふたつ、ごくごく稀にみっつってところでしょ? だったら扱える数を増やすために術式を使う――自然な流れだと思うけど」
個々の魔法に問題がないなら、あとは利便性を求めるという発想か。生来の魔法がたとえひとつでも、術式という技術を使えばいくつもの魔法――術式を扱うことができる。しかもそれは魔法とは違い、扱いたい術式は自分で選択することができる。
分配可能な魔法の技術――それが術式だ。
あくまで技術であって能力ではない。
その違いは大きくて、やはり能力を補うための技術は生まれてくることは当然なのだった。
「それに――」
突然、千紗の右手から青い閃光が森の天蓋を貫いた。
「――やっぱりあったほうが安心だよ」
青の残滓が消えようとした頃、ドサッと音がした。
駆け寄ると、そこには半身が焦げた異形がいた。緑色の小型の魔だ。
「うん、加減して撃ったからこんなもんだよね」
この魔は知っている。一体が仲間を呼べば怒涛のごとく攻めてくる魔だ。名前は知らないけれど、個々の能力ではなく集団の能力で戦う魔。
「〈団結するココ〉――こいつの名前だよ」
「軍団、ね」
名を知れば、納得できる行動だ。ココという魔の性質の性質をよく表している。
「仲間はまだ呼んでないと思うけど、近くにいるのは確かだよ」
そしてここは視界のきかない森の中。あちらに先に気づかれ、戦闘を介さずにまず仲間を呼ばれれば、いくらなんでも楽な戦いにはならない。千紗はともかく、ぼくはあれの動きを視認できないのだから。
だがこれは好機だとも言える。二、三体なら偶然で終わるが、何体も出てくるならここに門がある可能性が濃厚になる。
うまくいけば位置を特定できるかもしれない。
「え? あれ?」
「どうしたの?」
上を見上げる千紗が、信じられないものを見るような目で息をのむ。その方向はさっき千紗が〈武神〉を放った場所だった。
ぼくもその方向を見上げる。
「なっ――」
さっきまで青に焼かれて消失していた森の天蓋が、まるで何事もなかったように再生していた。今は風に木の葉をゆうゆうと揺らしている。
ぼくは〈揺光〉を抜いて、適当な草や木の枝を切った。何も起きない――そう思った矢先、切断面から光の玉のような物が吹き出し、見る間に再生していく。大した時間もかからず、切られた植物は元の姿を取り戻された。
「これじゃあ道が作れないわけだよ」
「この地図もこれ以上の書き方がないわけか。ジオンさんも言ってくれたら良かったのに」
言ってくれれば何かがあるわけでもないけれど、それでも知らないよりはいい。こんな特殊な性質をもった植物がはびこる森だと知っていれば、もう少し行動も変わった――かもしれない。
そして少なくとも、植物に何らかの傷をつけて目印にするということはできなくなった。
つけた目印がその場から再生してしまうからだ。基本的に不便はないが、驚きだけは隠せない。
「この世界の人がそういう大事なことを言いそびれるのは、もうあれだよね、芸術の域だよね」
「全くだよ。ぼくなんて旅の指針さえまともに示してくれなかったしね」
今思い出してもひどいものだ。商業都市までの道を教えてくれただけで、その他の情報はほとんどくれなかったのだから。
今ここにいるのが本当に信じられない。
とはいえ、ぼくらは与えられた仕事――目的を果たすしかできることはないわけで、もしかすると余計なことで頭を悩ませないようにという配慮なのかもしれない。絶対違うと思うけれど。
「うーん……今更なんだけど、あたしたちってまっすぐ進んでるっていう保証がないよね?」
「なんとかなるさ」
なんとかなる。というかならないと困る。こんなところで遭難したら、それこそ千紗にこの森全体を焼いてもらわないと出られない。
「一応、障害物は斬り倒しながら無理矢理にでも直進してるし、大丈夫だとは思うけど……」
振り返った道は、すでに再生してぼくたちが通った痕跡を消している。だからそれを目印に引き返すことは不可能だ。
「厄介だね」
「厄介だ」
ため息をついて、それでも森の奥へと進む。そしてだんだんと辺りの様子が変わってきた。透明のクラゲや甲殻を持つトンボのような生き物は姿を隠し、今度はグロテスクな容姿の鳥や、人の顔のように見える模様の木が現れ始めた。さっきまでとは明らかに異なる種類の生物だ。
そのグロテスクな容姿の鳥は、ぎょろついた目でぼくたちをにらみ、ギャーともギューともとれる汚い声で鳴いた。人の顔のような模様は本当に顔で、辛気臭い顔をして、前を通り過ぎるぼくたちを見送っている。
「門の影響……かな? さっきのクラゲきれいだったのになぁ」
「どうかな。でもそうでもないと、この変わり方はおかしい気がする」
これはキモンが近づいているということなのか、それとも別の何かに近づいているのか。どちらにせよ、あまり良いものに近づいている気がしないのはぼくだけではないはずだ。
「聖、来るよ」
「…………ああ」
何のことかと思ったが、千紗の手に光が弾けるのを見て悟る。
「ごめん。周りの魔力に紛れて気付かなかった」
「仕方ないよ。戦いで挽回しよう」
「おっけ――」
いつの間にか――ぼくたちを取り囲む緑の影。
その数は数えるにはあまりにも多すぎる。すでにこうして大群で現れているということは、さきに一体を倒したことが関係しているのだろう。
数は圧倒的に不利だ。個々の力も決して低いわけではない。だが――それでも千紗は小さな微笑を浮かべていた。
「――前回の失態も取り返さなくちゃね!」