第二十五話『終わりへの決意』
数日後、突貫作業であるとはいえ、なんとか次の港までの航海には耐えうるだけの修復が完了し、ぼくたちはさっそく海へと乗り出した。しかし修復した部分がまた壊れる可能性は否定しきれず、船員全員が例外なく交代で船を見回っている。
ぼくは今日二度目の見回りを終え、自室に戻ってベッドに倒れた。今回の一件はかなりハードで、さすがにまだ疲れが残っているのだ。千紗も今頃自分の部屋で疲れを取っているだろう。ゼノとまともに戦えなかったことがショックだったようだし、しばらくそっとしておくことにしている。
そして『彼女』。
昨日、『彼女』から通信があった。今回も『彼女』は仕事の合間を見つけて、ぼくに声を届けてくれたようだ。いたずらっぽく声をひそめて話す『彼女』は、なんとなくこの世界に来る前の生活を思い出させてくれる。それは安らぎだったし、支えでもあった。彼女がいなければ、ぼくはどこで倒れていたかわからない。彼女は恩人だ。この恩は城に帰った時にちゃんと返さなければならない。もしかしたら彼女はそれを良しとしないかもしれないけれど、それではぼくの立場がない。
ぼくは誰かに支えられてここまで来た。いろんな人に支えられ、助けられ――やっとの思いで今に至る。
この世界に来なければ、きっとその事実に気づくことはできなかっただろう。元の世界でも、人は支え合って生きているとは声高らかに謳われる。けれど一体、どれだけの人がそれを実感できているだろう。少なくともぼくはその実感がなかった。
誰かがいないと困る――そういうことはあったけれど、それを支え合っているとか助け合っているとか、そういう風に考えてはこなかった。
そういう意味ではこの世界に来たことは良かったのかもしれない。
「いや……」
そういう問題でもないか。
この世界に来たから得たものは多いし、それらが無駄だとは決して思わない。思いたくもない。否定もしたくない。だけどこの世界に来なければ、常に死線の縁を歩くような生活はしなくてもよかったはずだ。そう思うと、何とも言えない気持ちになる。
ベッドが柔らかくて温かいとか。
温かい食事のありがたさとか。
人との出会いとか。
そういうものがどれほど幸せか――それは実感せずにはいられない。だけどその実感というものは本当に大切なのか。そもそもそんなことを幸せだと思わない時のほうが、実は幸せなのではないか。
いやいや、それはどこに幸せを見出すかということの違いにすぎない。
む?
いつから幸せについて考察を深めてるんだ、ぼくは。
明後日の方向に飛んで行った思考を引き寄せ、ベッドから体を起こした。
「さて、やることがないぞ」
ぼくに与えられた仕事は船の見回りだけだ。それ以外の仕事は山のようにあるが、ぼくが参加すると邪魔にしかならない。猫の手も借りたい忙しさではあるけれど、それでもぼくが手伝うほどではない。
どうしようもないこの暇な時間を持て余したぼくは、慌ただしくすれ違う人がいる度に気まずさを覚えながら、船の甲板へと向かった。
甲板はまだまだ修繕の手が及んでいない部分が多い。ひとまず船が港まで到着できれば良い、その程度の修繕だけを済ませたにすぎない。
甲板から見渡す海は静かだった。ここに海魔なる魔がいるなど、実際に襲われなければ信じられなかっただろう。
地上の魔。
海の魔。
もしかしたら空にも魔がいるのかもしれない。空を主な活動場所とする魔。いても全然不思議ではない。ゼノは飛んだし、あの緑色の魔も飛んでいた。
あ。
今気づいたけれど、あの緑色の奴って魔は魔でも魔獣じゃないか? ぼくが今まで遭った魔はみんな人と同じ言葉を使っていたし、名前も名乗った。けれどあの緑の魔はそれがなかった。同じ魔が何体もいた。だったらあれは魔獣の一種で、危険を察知すると群れを呼びよせる習性をもっていると考えるのが自然じゃないだろうか。魔獣だったらとしても何も変わらないけれど。
「日陰の国、か」
魔がいるという国。
こことは違う場所。
純粋に興味がある。あの槍使いの魔の話では、魔の全てが人を襲うようなものではないらしい。そもそもあの魔がそういう魔ではなかった。魔と呼ばれることを嫌う彼は、そちら側の魔だったのだろうと思う。
魔。
たしかフィアド、とゼノは言っていただろうか。
そのフィアドが生きる国。そこはどんな場所なのだろう。レミアさんの口ぶりからすると、きっとぼくたちがいるこの場所とは違う場所なのだろう。異世界とまではいかなくても、それに近い性質の場所だと思う。この世界とぼくの世界の狭間に魔の世界がある――ぼくはそんな風に思った。
そしてその魔と何らかの関係が疑われる村、キモン。ぼくはこのキモンを鬼門と変換したけれど、もし本当にキモンが魔に関係するなら、なんという合致だろう。なんという因果だろう。キモンで信仰されている〈大いなるもの〉――それがうわさ通りに魔だとするなら……いや、それでもぼくがやるべきことは変わらない。
魔を倒す。
それだけだ。
相手が戦いを良しとしないなら、戦わなければ良い。あくまでぼくが倒すべきはゼノであり、その他の魔は必ずしも倒す必要はないんだ。今までは襲われたから――出遭ったから戦った。それだけのことだ。
こう考えれば、あの槍使いの魔とも戦わなくて済んだのかもしれない。駄目だ。その可能性はない。騎士団の依頼がなかったとしても、ぼくは彼の連れの魔をすでに殺していたんだ。戦わないなんていう牧歌的な選択はなかっただろう。
ぼくはすでに戦いを良しとしない魔を狩っている。
考えるな。
考えるな。
ぼくはぼくの目的を果たせばいい。それ以外のことなんて考える必要はない。機械のように戦えばいいんだ。
「そうしたらいいんだろう? 以前のきみがそうだったように。いや……今もそうなのかい? 千紗」
敵は敵。
それ以外の意味を許さなかった千紗。
彼女に比べれば、ぼくは無駄なことを考え過ぎている。今だってそうだ。こんなことを考えるよりも、もっと有益なことを考えたほうがいい。それこそゼノを打倒する策を練ったほうが有益だ。
策。
策っていっても、どうすればいい?
第一、策なんていうものは戦う場所がわかっていないと、どうしようにも練られるものじゃない。それに相手はゼノだ。心を読む魔だ。策なんて一瞬で看破される。意味がない
全く――意味がない。
ではあの狂った魔ならどうだろう。
ゼノが名を失った姿――。
あれはぼくの心を読んでいるような様子はなかった。ただし、ゼノよりも攻撃的な性質を持っていた。魔法などは使わない代わり、単純な攻撃力はゼノよりも優れていたように思う。
どっちが楽って話でもない。どちらでもぼくは苦戦を強いられる。
だが――策を弄するなら相手が狂っていないとだめだ。けれどそれも、ゼノとして目覚めた状態で対峙した瞬間に意味をなくしてしまう。
結局策は練られない。
「……今までも策はなかったよな」
行き当たりばったり上等。
そんな旅だった。
なんたって目的地すら定めていなかったのだから。その点、今回はキモンという目的地がある。なんとかなるかもしれない。もしかしたらキモンの村人とは対立する結果になるかもしれないけれど。
「ぼくはぼくにできることをする。そしてそれは、ぼくにしかできないことだ」
ゼノを倒すこと。
きっとそれはぼくにしかできないだろう。魔力を吸収してしまうなら、この世界の人はみんな彼を打倒することはできない。
この状況になれば、イカガカで火薬が積極的に開発されなかったのが悔やまれる。火薬があればもう少し楽に戦えるかもしれないのに。
ないものねだりはいけない。
「今ぼくにできる最善を尽くせばいいんだ」
そうすればきっと、ぼくは元の世界に戻ることができる。
ぼくは。
だけど千紗は?
千紗はどうなる。
彼女は体が触媒になっていて、魔力なしでは生きていけない。元の世界に戻れば術式の存在が消える――そんなご都合主義な展開にはならないだろう。
彼女はこの世界から出られない。
それでいいのか?
「……いいわけ、ないよな」
彼女は相棒だ。
彼女が本当にこの世界に残ることを望むなら、ぼくはひとりで元の世界に帰る。だけど彼女がそれを望まない――元の世界に戻りたいなら、ぼくはこの世界に残り、いっしょに帰る方法を探そう。それくらいのわがままなら、レミアさんも許してくれるだろう。そしてその方法を探すためには、まずゼノを倒さなければならない。
「自分が望む結末を迎えないと意味がない。そうだろう? 千紗」
〈揺光〉を鞘から抜いて、その銀の刀身のきらめきに目を細める。
ぼくを苛ませていたもやもやしたものが、いつの間にかどこかへ去っていた。
ぼく――世界最弱はこの時、誰のためでもなく、相棒のために戦うことを決めた。
〈報復するクリル〉――討伐完了
〈■■■■■■■■〉――討伐失敗
〈俯瞰するゼノ〉――討伐失敗
〈世界最強の勇者千紗〉――潜伏中
【第三章 真実の行方】了