第十九話『目覚めし者』
「ボク? ボクかい? ボクは〈■■■■■■■■〉さ! ヒャーイィィィアアアア! 以後お見知りおきを!」
重心というか、中心というか、芯のない体の動き。今にも崩れてしまいそうな、倒れてしまいそうな不安定な挙動で魔は狂ったように笑う。
笑う。
さっきまで墓の前で自然な動き――それはぼくたちの視点から見て、という意味だ――をしていたのに、ぼくたちの前にやってきたこいつは、前に遭った時のような気持ち悪さ――理解することをためらわせる雰囲気があった。
「あああ……」
意味のわからない、理解できるはずもないモノの登場に、千紗は完全に心が折れていた。このまま戦闘に入るのは無理だ。一度状況を立て直さないと。
あの洞窟の時のように、この魔がまたどこかへ行ってくれれば良いのだが、その先にみんながいるかもしれないと考えるとここから移動させるのも考えものだ。安全を確保するためには、ここで倒してしまうか力を消耗させておかなければならない。
しかし。
しかし、千紗の状態が良くない。こんな状態では戦えないだろうし、戦えとも言えない。
「千紗は下がってて。ぼくがやる」
しゃらん、と〈揺光〉が鳴く。
黒い鞘から純粋な輝きを放つ白銀の刃がその姿を現し、刀身にぼくたちの顔を映す。
「ひじ……り?」
「心配はいらないよ。きみと会う前はぼくだってひとりで戦ってたんだよ?」
千紗と一緒に旅をするようになって、魔との戦いは格段に楽になった。共に戦い、時にはぼくが戦力として必要ないほど圧倒し、千紗は魔を倒してきた。あの魔の大群をひとりで壊滅させた姿は、まさに戦士そのものだった。
「ぼくとしてはきみにも怖いものがあったんだって、ちょっと安心してるくらいだよ」
そしてぼくは、怖いものしかないのだが。
「怖い? 怖いならボクが一緒にいてあげよう! リズとふたりできみたちと一緒にいてあげるさ! あれあれあれあれ? どうして避けられてる? あれあれあられれあられ? まさかまさかまさか、怖がられてるのはボクなのかい? それともリズなのかい? リズ! リィィィズ!」
心なしか、前よりも意味のある言葉を言っているように思う。が、やはり支離滅裂で会話が成り立っているとは思えない。
「リズには会えたみたいだな」剣を構え、魔の挙動を注視しながら声をかける。「なら、もといた世界に帰ってもいいんじゃないか?」
魔の世界。
日陰の国。
こことは違う世界。
「ひゃぁぁぁぁあああ! バルクから広がる香り! リプタの恵みぃ! リズ! リズ! リズはここコココこコココこコこここ!」
わからない。
わからないが、どうやら帰る気はないようだ。
自然と〈揺光〉を握る手に力が入る。〈揺光〉の持つ魔力の吸収能力がじわじわと働き、ゆるやかではあるものの、ぼくの体に魔力が流れ込んできていることがわかる。だが、この程度ではこの魔には届かない。この魔は圧倒的だ。
「きゅあぁぁぁあああ!」
突然、その長い腕がぼくに振り下ろされた。間一髪で反応できたぼくは、とっさに後ろへ跳んだ。しかしよけきれず、右の頬が裂けた。傷は頬を貫通してしまったようで、口内に血の味が広がる。
この程度の傷で済んだのは運が良かった、か。
魔はすぐさま体勢を整え、さらに追撃を加えてくる。まだ魔力による強化がなされていないぼくでは、その攻撃を受けることはできない。今はまだ生身と同じだ。
「聖!」
千紗の声が聞こえたけれど、返事などしている余裕はない。かすっただけで頬を貫通したのだ。まともにくらえばひとたまりもない。
「リズ! リズリズリズリィィィィィズ!」
攻撃の手は緩まらず、むしろどんどんとその勢いは増していく。
「会えたんじゃないのか! あの墓はリズのものじゃなかったのか!」
「リズは人気者! リズは不人気者!」
不意に――魔の動きが止まった。
「お前は――お前は誰なんだ!」
動きが止まった魔に〈揺光〉を振り下ろす。
「きいぃぃああああぁぁあ!」
魔はまた動き出し、魔が振るった腕にぼくは振り払われてしまった。だけど、目的のひとつは達成した。
〈揺光〉で斬ることができたのだ。
〈揺光〉が魔から吸収した魔力が、ぼくへと流れ込んでくる。
「――っ! ぐ、ぐぅぅぅ」
なんだ。
なんだこれは。
何かがぼくの中で渦巻いている。混沌とした意識の奔流、濁ってしまってわけがわからなくなってしまった何かの思いが――思いのようなものが、ぼくの中に流れ込んできた。
苦しいような楽しいような、うれしいような悲しいのような、喜びも悲しも楽しみも怒りも挫折も希望も憐れみも努力も期待も願望も惰性も信仰も信頼も愛情も憎悪も何もかもがごっちゃになった感覚。
自分が自分でなくなっていくような、自分というものが不安定になものになっていく感覚。
「うっ……」
我慢できず、胃の中のものを全て吐きだす。
血と吐しゃ物の混じった味が口を支配し、また吐き気が込み上げてくる。
「きゅああああああ!」
ああ……。
こんな世界か。
狂ってしまって当たり前だ。
目の前にいる魔がこんな有様になっていること、それがなんとなく理解できてしまった。こんなの正気でいられない。いられるはずがない。
感情の奔流の隙間から、断片的な映像が流れてくる。
そこはのどかな村だった。森の中にあるのだろうか、その村の四方を木々が囲み、人々は森の恵みで生活をしている。目の前にひとりの女性が現れた。顔はおぼろげではっきり見えないが、長い銀色の髪が風に揺れているのはわかる。
――。
彼女は何かを言ったのだろうか。
ぼくには聞こえないまま、映像が流れる。
またさっきの女性だ。今度は隣に座っている。周りに人の気配はなく、ほの暗い森の中にふたりきりだ。
ふいに彼女の顔が視界の全てをおおい、彼女しか見えなくなったところでまた映像が流れた。
映像は次々にその場面を切り替えた。
食事。
森での逢引。
夜の寝床。
場面は数あれ、シチュエーションはそれらに限られた。そしてそれら全てに『彼女』がいた。彼女以外は誰もいなかった。彼女が世界の全てであるかのように、彼女以外の情報が全くない。
そして――
そして時が来た。
『彼』と『彼女』は人に囲まれていた。おぞましいものを見るような目で、彼らは『彼ら』を見ている。ごつごつとした人外の手が、彼女に伸びた。彼女はその手の主に優しい微笑みを向け、『彼ら』のほうへ歩いていった。『彼ら』は警戒を隠す事もせず、さげすみの目をこちらに向ける。
また映像が切り替わり――一瞬、彼女が映ったかと思うと、視界が真っ赤に染まった。
――きゅあぁああぁぁぁぁ!
赤い視界の中、悲しみの咆哮が響いた。
「ぐぅぅ……」
苦しい。
苦しい。
こんなもの、ぼくでは背負えない。
「リズは……」
もうろうとして途切れそうな意識をなんとかつなぎとめ、凶悪な外見の不安定な魔を見た。切られた自分の腕を見、痛みからか怒りからか、激しい雄たけびを上げる。
「リズは殺されたのか!」
「リズは人気者! リズは不人気者! きみはリズを知らないのか? ボクは知っているぞ! リズのことなら何にも知らないぞ! さあサアさあさアさあ!」
赤い暴力がぼくに迫り、今度は余裕を持ってその攻撃をかわす。
体調は優れなくても、〈揺光〉の恩恵は受けている。身体能力はさっきまでの比ではない。だがやはり、万全とは言い難い。
駄々をこねる子どものように、魔は滅茶苦茶に手足を振り回す。洗練された動きであるはずもないそれは、より暴力的なものとなり、魔の周りの地面は穴だらけになり――木は折れて倒れた。砂埃が立ち、木片が飛び散る。
魔の腕の間を潜り抜け、その懐に潜り込む。
「あれあれあれあれれれれるれれ?」
懐に潜ったのに気づいた魔は、両手をガードにまわす。ぼくは構わず、そのガードの上から斬りつけた。その手に傷を負わせたのを確認する前に、後方へ跳ぶ。さっきまでぼくが立っていた場所は、魔の拳によって陥没していた。
魔の腕には辛うじて傷を負わせられたようだ。赤い皮膚に、てらてらと光を反射させる液体が流れている。
そしてまた襲ってくる感情。意識が持って行かれそうになるのを気力で耐える。
「それソれソレそれそレそれ知ってる!」
魔はぼくを――正確には、ぼくが構えている〈揺光〉を指差した。
「それは〈揺光〉! 痛い嫌い嫌い嫌い嫌いきらいキラいきらい嫌いきらららららぁぁ! 大好きダイスキだいすきだいすき大好き! 愛してるぅぅうゔゔゔ!」
「〈揺光〉を……知っている、のか」
不意に。
魔の動きが制止した。
今まで不規則に揺れていた体が、宙づりになっている人形のようだった体の動きが、急にとまった。それは人形に魂が宿ったような、そんな止まり方だった。暴れていた手足が、すっと下ろされる。
「おい……」
「ああぁぁあ……」
濁った声で魔が呻く。
「あー……あー……ゔぅん!」
さっきまでの甲高い声とは違う。明らかに芯のある声。意識が定まった者の声だ。
違う。
さっきとは別の魔だ。
「お前は――誰だ」
聞かずにはいられなかった。
視界の端に映った千紗は、魔の豹変に目を丸くしている。
「名を問うか。記憶力が悪いとみえる。以前、そう……あの廃坑で名乗ったはずだが? そしてさっきも、だ」
「聞こえなかった」
「聞こえなかった、か。ふん。まあそういうこともあるだろう」
会話ができるようになったけれど、さっきよりも強く感じるこの恐怖感はなんだ。
「怯えているのか?」
――っ!
表情に出ていたか。うかつだった。こういう理性的な相手ほど、表情や行動には気を使わなくちゃいけないというのに!
気を引き締め、〈揺光〉を握り直す。
「……まあいい。今一度名乗ってやろう」
魔は二対の両翼を広げ、高らかに名乗りを上げた。