第十八話『不吉の赤』
赤い巨体。
二対の羽。
だらりと長い手。
不吉。
不吉としか言い表せない雰囲気、波長。
魔はぼくたちに背を向けているから、その表情を見ることはできない。
いや、表情なんてない。
あれに読みとれる表情があるはずがない。
あれにはそもそも口しかないのだ。大きな口。禍々しいまでに大きなその口は、頭部の大半を占める。旅立って初めて戦った魔と同じタイプの頭部だ。体のほうはかなり差があるが。
「聖……あれ、やばいよ。絶対やばい!」
千紗がぼくの肩を掴んで激しくゆする。今まで魔に対して物おじせず、むしろ格下にも見ていた節がある千紗が、初めて「やばい」とぼくに迫る。
ぼくにもあいつの危険さは理解できる。一度出会っているという経験から、おそらく千紗以上にそれを理解している。いや、あるいは理解できていないのかもしれない。理解しているならば、ぼくは今すぐ回れ右をして、脱兎のごとくこの場所を離れているはずなのだ。
関わってはいけない。
あれはそういう種類の魔だ。
「おかしいよ、どうして目の前に来るまであんなのがいることに気づかなかったの? あいつの魔力に気づかなかったってこと? こんなに禍々しいのに――っ」
不吉。
強大で不吉。
やっかいな相手だ。
「千紗、あれはぼくたちに気づいてないみたいだ。離れて様子を見よう」
言い終わって、頭がおかしくなったかと自分で戦慄した。
様子を見るだって? そんなのリスクの塊じゃないか。ぼくたちはすぐにここから離れるべきだ。そんなことは火を見るよりも明らかなのに。
「う、うん」
千紗は迷いながらもうなずいて、草むらに入って身をかがめた。ぼくもそれにならい、彼女の隣に身をひそめる。彼女にしては珍しい荒れた息づかいを聞きながら、件の魔を注視する。
魔はぼくたちに背を向ける形でしゃがみこみ、じっとして動かない。ぼくはその姿に妙な違和感を覚えたが、それが何に起因するものなのかはわからなかった。それがわかるほどぼくはあの魔を理解していないし、理解できるとも思えない。ただ、それでも違和感だけは確かにあるのだ。
「何してるんだろう……」
「わかんないけど、ここって墓地でしょ? お墓参り……ってのはちょっとあり得ないね」
「そうだね」
ぼくには魔が墓参りをする習慣を持っているとは思えなかった。すぐに放棄したとはいえ、墓参り説を提唱した千紗もそれは同じようだ。
苦笑いのような照れ笑いのような、何とも言えない微妙な笑みを浮かべ、千紗はまた魔に視線を戻した。
「動いたっ」
千紗が小さく声を上げたのは、魔に目を移した直後だった。
「え?」
ぼくも魔を見遣る。さっきまでしゃがんでいた魔はすでに立ち上がり、どこかへと歩いていく最中だった。何かを探すようにきょろきょろと頭を動かし――とはいえ、目がないのに何が見えるのかは疑問だが――少々のんびりとしたペースで歩いている。
ぼくたちを探している――というわけではないだろう。魔力を感知するタイプの魔かもしれないが、そうならばすでに攻撃行動に出ているだろう。それをしないということは、まだぼくたちの存在はあの魔には認識されていない。魔力自体には気づいているかもしれないが、もしかしたら獣か何かと思っているのかもしれない。
そこまで考えるだけの理性があれば――の話ではあるが。
「聖、あれ――っ」
ぼくの肩を掴んで、やや強引に引っ張られた。バランスは崩れたが、尻もちをつくようなことはなかった。
「ど、どうしたの?」
「あれってさ、お墓じゃない?」
「え?」
千紗が指差したのは、さっきまで魔がしゃがみこんでいた場所だった。そこには他の墓とは比べ物にならないほどきれいに手入れされた墓があった。木の墓標は時の流れを感じさせるには十分なものだったが、その周辺の行き届いた手入れは、そこで眠る人物がどれほど慕われていたかをうかがわせる。
他の墓には見られない点、である。
どうしてあの墓だけが特別なのだろう。
「リズ?」
ぱっと浮かんできた名前。
リズ。
リズ――
「え? 何か言った?」
「リズ……きっとあの墓の主だよ」
あの魔には探し人がいた。
それは魔だったかもしれないし、あるいは人だったのかもしれない。どちらにせよ、あれは誰かを探していた。
リズ。
リズという人物を。
発言も行動も、ありとあらゆる全てが理解できない魔だったけれど、それだけは――それだけは理解することができた。そしてそれがあの魔の目的であり、それ以外は何も見えていないように感じた。
「どうしてわかるの? ここに来るのは初めてじゃないの?」
「もちろん、初めてだよ。だけど、あの魔には遭ったことがある」
最悪な出会いだったが。
「遭ったことがあるって……あれに? よく生き残れたね、聖ってホント何者なの?」
「まあ、運が良かったのさ」
運以外の要素は――ない。
ぼくが出遭った中で最高に不吉で、最悪に凶暴で狂暴だった魔。
名もない魔。
「名前は?」
「千紗が魔の名前を気にするなんて珍しいね――」千紗は「さすがに格が違いすぎて」と、嘆息した。「――でも、名前はないよ」
「名前が――ない?」
ない。
名前がない。
「うん。いやあるんだろうとは思うよ。けれど、名前は聞き取れなかった」
「聞こえなかったとか、聞き取りにくかったんじゃなくて?」
「ノイズがさ、かかったみたいになったんだよ。まるでそこだけが切り取られたみたいに」
それは、名前がないということだ。
失われてしまった名前。
「帰ってきた……」
「うん」
魔が。
赤い魔が帰ってきた。その禍々しい手に、可憐な花を持っている。
花?
「花……だね」
「……そうだね」
なんとも言えない空気になる。何とも言えないのは、つまり何とも言えないのである。その外見と花とのアンバランスが、ぼくたちから言葉を失わせる。ここが墓地であり、さっきまであの魔がおそらくは墓参りをしていたということを考えれば、それはそれで自然なことではあるのだが。
自然だからといって、不自然に映らないわけではないのだ。
魔はゆっくりと、どこか嬉々とした表情で(口だけでもなんとなくわかってしまった)その墓まで歩いていく。その喜んでいるような表情は、探し求めていた『誰か』に会うことができたからなのか――その理由はわからない。
ただ、あの槍使いの魔もそうだったけれど、魔にも人のような情緒があるのだと、この時、ぼくは思った。
「それでも――あれは魔だからね」
ぼくの心情を察したのか、千紗がぼくに釘をさす。
「わかってるさ」
わかっている。
こんな一面があったのは意外だけど、ぼくはもうひとつの側面を知っている。野放しにしておくことはできない。あまりに危険すぎる。
その巨体で確認することはできないけれど、魔はおそらくその花を優しい手つきで墓に供えた。そして両手を大きく広げ、その墓標を愛おしそうに抱くポーズをとる。
本当に、ぼくにはわからない。
目の前で起きていることは事実なのか? まさかぼくたちが見ている幻ではないだろうな。むしろそのほうがありがたいとさえ思う。
魔はふと我に返ったように、またきょろきょろとし始めた。
「きゅあああああああああああああああ!」
甲高く、空を突くかのような叫び。
突如として■■■■は空に向かって咆哮し、その姿を一瞬にして消した。残ったのはきれいに手入れされた墓と、そこに添えられた数輪の花だけだ。
「――っ!」
それは、ぼくたちの前に突如として現れた。
「久しぶり! 久しぶり? はじめましてだよね? 違う? 違うかな? あれるれらあられるれ? きみとボクはボクとボクとボクさっ! リズがいたのさ! リズ! リズを知ってるかい? リズを知らないのかい? リズは人気者さっ! リズは不人気ものなのさっ! だけどリズ! リィィィズ! ヒャーッ! ボクはボクはボクボクボクボク! ボクはここにいるのさ! いないの? いるとも!」
「なに……なんなの! なんなのこいつ!」
「ボク? ボクかい? ボクは〈■■■■■■■■〉さ! みんなの希望の■■■■! ヒャーイィィィアアアア!」