第十ニ話『船上の戦場』
海魔。
海に棲む魔。
人間と魚との魔の混成――に見える姿。
おぞましく、醜悪で、見るに堪えない。パニック映画に登場しそうな現実感のなさだ。現実感なんて――とっくに捨てたと思っていたけれど。
ここの世界が現実だと思っていたけれど。
現実は小説より奇なり。
まさにその通り。
世界は知らないことだらけだ。
「噂は聞いているよ? きみたちだろう、我らの同胞を狩っているっていうのは」
親しげに、クリルは言った。
「凄いじゃないか。人間のきみたちたちが――しかも魔法も使わずに同胞を打倒するなんて。ああ、少女の方は魔法を使うのだったね」
同胞という言葉で、魔と海魔は彼らにとって同族であるということがわかった。もっとも、それによって事態が好転するというわけでは決してないのだが。むしろなにも変わらない。ぼくの些細な疑問が氷解しただけだ。
「魔法を使わない戦士――けれど、常に魔力を帯びる者。君は本当に面白い。ふふん? そちらの少女もなかなかの面白さだよ。とても不自然で歪な魔力を持っているね」
不自然で歪?
それは術式だから、なのか。
それとも元々この世界の住人じゃないから、なのか。
どちらにしても、それはあまり良くないことだと思う。
クリルが余裕たっぷりの表情で、のんびりとした調子でこちらに歩いてくる。そしてそれゆえに凄まじい威圧感だ。
強者故の余裕。
クリルの周りを囲む船乗りたちは、一様に鋭い眼光をクリルに送っているが、クリルはそれを意に介してすらいない。圧倒的なまでの無関心だ。
「どうしてこの船を襲う?」
ぼくは聞いた。
答えてくれるとは思わなかったけれど、もしかしたらという思いもあった。
「聖……」
千紗が隣でささやく。
聞く価値はない。
そう言いたいのだろう。
「どうして? なかなか難しいことを聞くね?」
クリルは苦笑した。一足す一がなぜ二なのか、そう問いかけられた教師のような、困った子を見るような表情だ。
魚の顔でもそれくらいは読みとれた。
「聞くけれど、君たちはどうして同胞を倒す?」
「敵だから」
答えたのは千紗だった。
「魔は人の敵。人と魔はわかりあえないし、交流することもできないし、和解することもできないし、その構図は変えられないよ」
「そう思うならば、その通りなのだろうね」
「その含みのある物言いは、魔の長のことを言っているのか?」
クリルの肩が動いた。
「まあ、そんなところだね」
「どういうこと?」
千紗がぼくの方を見る。どうやら千紗は知らなかったようだ。
「後で話すよ」
「その後があるといいけどね。ああ、質問に答えよう――」
クリルは言葉を切った。
一瞬の沈黙。
それが重い。
「狂ったからさ」
「狂った」
「そう狂った。我らが王は狂った。これ以上なく狂った。心は崩壊し、記憶は霧散し、肉体は変貌し、魔力は暴走し、名を失い、そして一点のみを目指す存在となった。たったひとつの目的のためだけに――たったひとつの幻想のためにさまよう亡霊となった」
「たったひとつの目的……」
「王が狂えば統制は崩壊するわけだよ」
そしてクリルは自虐的にほほ笑む。
「もしかしたら、私も――私たちも狂ってしまったのかもしれないね? 王の如く」
「それじゃあまるで、人を襲うことが本意じゃない言い方だ!」
千紗が叫ぶ。
「どうだろう? 迷っているね? しかしどうあれ、『今』の私にとって、それは本意さ。私を止めたほうがいいと思うがね」
クリルの姿がゆがんだ。
「――――っ!」
ゆがんだ――その原因は水だった。水が薄い膜のように広がり、クリルを包んでいる。水のヴェールは次第にクリルの左手に収束していき、そして――それは剣の姿をとった。
「君は剣士だったよね? そして君は拳士だったはずだよね? ふふん、私は拳に自信がないから、剣士としてお相手させてもらうよ」
細い刀身だ。
レイピアに見えるほどに細いが、レイピアとは違って紡錘形ではなく、一般的な剣のそれと同じ造りになっている。刀身の圧倒的な細さ、それがクリルの持つ剣が持つ最も特徴的な外見だ。
水から生まれた剣を、クリルは左手に握った。
「観衆には退場願おうか」
クリルが彼を囲む船員に向かって右手を振るう。
瞬間、クリルの右手のあたりから水団が噴き出し、船員たちを海に飛ばしてしまった。悲鳴をあげる暇もなく、彼らは海に投げ出された。
「みんな!」
リックさんが叫んだ。
「くそ!」
リックさんは走り出し、船の中に戻って行った。おそらく、海に投げ出された船員の救出に向かったのだろう。こういう事態に対して、何の対策も講じていないとは思えない。
クリル。
千紗。
ぼく。
動いたのはクリルだった。
「え?」
不意に、クリルは手に持っていた剣を投擲した。
「危ない!」
とっさに千紗が拳を突き出し、〈武神〉を発動した。青い閃光がクリルの投げた剣を弾く。弾かれた剣は水に戻ってあたりに散らばり、またクリルの手に収束した。
「ふふん? 途中で砕かれては駄目みたいだね」
クリルはその手の剣を眺めながら言った。
あの水の剣は壊れない。
形が無いのだ。
水より生まれたその剣は壊れず、無くならず、意思を持って持ち主の手に戻る。
「私の剣から逃れられたのは、君たちが初めてだよ。それは誇ってもいいと思うね」
「ならあたしたちは、あんたを殺す初めての人間になるよ」
千紗が言って、ぼくはうなずいた。
この魔は危険だ。
海魔は危険だ。
誰でもない――ぼくの中の何かがそう言っている。
「いささか無謀が過ぎるとは思うけどね。まあいいさ。ここからはお互い、真剣に戦おう」
クリルが剣を構える。
ぼくもそれにならい、切っ先をクリルに向けた。千紗も、タン、タン、とステップを踏んで臨戦態勢に入る。その両の拳から青い光が解放を待ちわびてあふれ出ている。
戦いの幕開けは――きっかけは何だったのか。それは突然に始まった。
千紗の術式〈武神〉より放たれた青い閃光が、クリルを襲う。クリルはそれを横への跳躍によって回避する。跳躍し、身動きが取れないクリルに追撃を放とうと、千紗が魔力を拳に集める。
「――ふっ」
すかさずクリルが剣を投擲しようと腕を振る。
「ぜぁ!」
その行動は読んでいた。千紗はクリルの進行方向へと回り込み、その行く手を阻んだ。あたかも瞬間移動をしたかのように見える千紗の移動に、クリルは後ろに飛びのいて距離をとった。
それも――予想していた。
後ろをとったぼくは、クリルに〈揺光〉を振りおろす。
「くっ」
常軌を逸した身のこなしで、クリルはぼくの斬撃
を《、》剣で受けた。細い刀身のその剣は、予想に反して頑丈だった。ぼく程度の攻撃力では破壊し得ない――はずだった。
「なぜ!」
本来なら壊れるはずがなかった。
ぼくの持っているこの剣が、ふつうの剣ならば。
〈揺光〉でなければ。
ぼくが〈揺光〉の能力を知らず、その使い方を思いつかなければ。
クリルの剣は見る間に形を失い、水に戻って彼の足もとに水たまりを作った。彼は自らの剣が形を崩したのを確認するや否や、すぐにそれを捨てて体勢を整えていた。
「ふふん? つくづく妙な二人組だね」
水たまりの水がまたクリルの手に集まり、剣の形をとった。
「今度は私の番だよ――」
クリルが右手を頭上に掲げる。その手のひらにはバスケットボール大の渦巻く水弾が浮いている。
「――〝人魚の涙〟!」
水弾がぼくに迫る。
水弾をぎりぎりのところでかわし(後ろで何かが壊れる音がしたが、きっと気のせいだ)、クリルとの距離を詰める。
「はあっ!」
クリルの腰から肩に向かって、〈揺光〉で斬りあげる。クリルはまたもや、水の剣でそれを受けた。そしてまたそれは水に戻る。
「千紗!」
「わかってる!」
千紗がクリルの背後に迫る。千紗は青い暴力を右手に纏わせ、クリルの後頭部へと叩きつけるように腕を振るった。気づけばまたクリルは剣を握っていて、彼は上体をねじって千紗の攻撃をかわした。それはぎりぎりの避行動で、クリルの頬から血が流れ落ちた。
「まだ終わりじゃないぞ!」
まだ体勢が万全ではないクリルに詰め寄り、〈揺光〉の切っ先を突き出す。
「うおおおおお!」
クリルは叫ぶ。
とっさに彼が突き出した右手を〈揺光〉が貫通し、血が刀身を伝って流れた。
「離れろお!」
クリルが剣をぼくに振りおろそうとする刹那、細く青い光が水の剣を砕いた。ぼくとクリルはその水で全身が濡れた。
「あたしもいるんすよ」
「げふっ!」
クリルの蹴りがぼくの腹に直撃し、肺から空気が抜けて出た。
「ふふん、最高だね」
足元に滴る自分の血を眺め、クリルは忌々しげに言った。
「人間が……終わらせてやる」
そこには先ほどまでの余裕はなかった。