第十一話『お互いさまだね、お互いさま』
いささか眠り過ぎたか、陽が傾いていた。外から赤みがかった光が差し込んでくる。ベッドの上でのびをして、体にたまった空気を吐きだした。
「ちょっとは動くかぁ」
窓を開けると冷たい風が吹き込んできた。その冷たさで目が覚めて、ぼくはコートをはおってそのベルトに〈揺光〉を差し、腰に〈邂逅〉をつるした。
部屋から出て廊下を歩く。夕食の準備が進んでいるのだろう、食欲をそそる香りが漂ってくる。食堂に行きたくなる衝動を抑えつつ、甲板に出た。波は穏やかで、今回の船旅も問題なく進行するとぼくたちに思わせてくれる。
海魔。
海魔というものがいるらしいけれど、前回の船旅では出遭うことはなかった。あの時の状態で海魔に襲われていたとするならば、果たしてぼくたちはここにいられたかどうか。海での戦いは経験が無いし、戦った時の有利不利は明らかだ。
襲われたら終わり――そのくらいの気持ちでいなければいけない。
きれいな海を見ても、頭に浮かぶのはそんなことばかりだ。ぼくもずいぶんこちらの世界に染まってきたようで、戦いのことをばかり考えている自分に違和感を覚えなくなってきた。
それが必要だから。
そうでなければいけないから。
それは仕方のないことだ――と、そう言い聞かせながら。
この旅は終わりを迎えることができるのだろうか。できるとして、ぼくたちは今、その旅のどのあたりを歩いているのだろう。もう折り返したのだろうか。始まったばかりなのか。それとももう終わりの直前なのか。
〈邂逅〉が白く光る。いつも計ったかのようなタイミングで連絡をくれる彼女だけど、今回ばかりはどうにもそういう気分じゃない。でも、やっぱり声を聞きたいというのはある。
いやいや。
ごちゃごちゃ考えずに聞けよ、ぼく。
『先ほどエレナさまから連絡がありました。キモンに向かうのですね。あの村を囲う森は危険だと聞きます。十分にお気をつけて』
通信は切れていないのに、声はそこで一度途切れた。何かを考えていたのか、妙な間の後に続けた。
『本当に気をつけてください。胸騒ぎが収まらないんです。この魔法が、いつかヒジリさんに届かなくなるんじゃないかって――』
不安なんです――彼女はそう締めくくった。〈邂逅〉の光が色を変える。
胸が締め付けられる思いだった。ぼくは自分のことしか考えていなかった。いくら綱渡りのような生活だとはいえ、自分が何に支えられているかを忘れてしまっていたなんて……。
「ぼくは……」
なんと言おう。
何を言おう。
言葉が見つからない。
ふだんなら溢れるように言葉が出てくるというのに、今は何ひとつ出てこない。何かあったわけじゃない。まるで子供の我がままのように――ぼくは勝手に拗ねていたんだ。
「……ちゃんと帰ります。会いに行きます」
そういう約束だ。
ぼくは約束を破らない。こんなことを言えばそれこそ破りそうに思われそうだけど、言外の意味なく、そのままの意味で――ぼくは約束を破らない。もしかしたら今までに破ったかもしれないが、今日から破らない。
今決めた。
「ぼくは――」
その後の言葉は繋がらなかった。
船が――大きく、何度も揺れたのだ。
「待て!」
船の縁に走っていこうとした時、鋭い声で呼びとめられた。
「この揺れは何ですか!」
ぼくを呼びとめたのは、ぼくを部屋まで案内してくれた男の人だった。ドアノブに手をかけたままに叫ぶ。
「早くこっちに来い!」
「は、はい!」
わけがわからないままに駆け出す。ドアに近づくと、男の人に腕を掴まれて引きこまれた。
「一体何なんです」
「海魔だ」
海魔。
――終わった。
正直に言うと、ぼくはその名を聞いた瞬間にそう思った。
「千紗は?」
「さっきまで寝てたらしい。今こっちに向かってるはずだ」
呑気な奴だ――とは言えなかった。ぼくもさっき起きたばかりなんだから。〈揺光〉を持ってきていて良かった。これで一応、戦うことはできる。
できる――のか?
「あの――」
「リックだ」
「リックさん、海魔ってのはどんなものなんです」
まずは敵を知らなければ戦えない。
「見りゃあわかる。ありゃあ化物だ」
今度は激しい揺れが船を襲った。揺れに耐えきれず、壁に肩を打ちつけた。リックさんはドアノブにしがみついて何とか耐えたようだ。
「おまたせ!」
千紗が走ってきた。千紗がぼくの腕を取って立たせてくれたのと同時、船が揺れたのとは違う轟音が何度も響いた。
「始めたようだな。俺たちも加勢するぞ!」
「はい!」
「了解っす!」
三人でもう一度甲板に出た。甲板には別のルートから出てきた船員が何人かいて、各々が魔法をソレにぶつけていた。
「何だ……」
それは半魚人のような姿をしていた。青白い体にはヒレがあり、手には赤い剣が握られている。腰にはその剣を納めるための鞘がある。かなりの長身だ。ピラニアと人を足したような醜悪な顔で、目は死んだ魚のように濁っている。
禍々しいその海魔は、船のヘリに優雅に腰かけていた。
「あれが……海魔」
魔とは違う――別種のおぞましさ。
魔とは違う余裕。
「行くよ」
「わかってる」
ぼくは〈揺光〉を抜き、千紗はグローブに魔力をこめた。
「加減はいらないよね?」
「ああ。全力だ」
こんな状況で加減なんてしている余裕はない。
ぼくらの命。
船員の命。
全てがこの瞬間にかかっている。
しかも地上ではなく船上。船が壊されてしまったら、それだけで終わりだ。
「∀Д☆§Д? ☆▼○◆◆§」
海魔はこちらに気づいて何かを言ったようだったが、ぼくの耳では何を言っているのかは聞き取れなかった。
「耳を貸さないで。あいつは敵で、敵と話す価値なんてないよ。言葉もわからないんじゃなおさらね」
「……そうだね」
「あー、失敬。ふふん、うっかりしてしまったよ。人間と我らでは使用する言語が異なるのだったね」
今度はわかった。中性的な声だが、聞くだけで気分が悪くなる不快な声だ。
海魔はヘリから降りてぼくたちのほうに向いた。他の船員たちの攻撃は、全て右手に握る赤い剣ではじいている。弾かれた魔法はその場で霧散するか、術者へと跳ね返されていく。
「自己紹介をしておこう。それが人間の礼儀なのだよね? ふふん、私もね、これでも人間の文化には興味があるのさ。というわけで、私の名前は――」
金属同士がぶつかり合うような甲高い音。
音がした――そう認識したと同時に、ぼくの目には千紗が映った。
千紗の拳が、今まさに名乗ろうとしていた海魔の左手に止められている。
「ふふん? きみもきみで失敬だね? まあいいよ、お互いさまだね、お互いさま。許してあげるよ」
海魔が右手を軽く振る。
「なっ――」
千紗の体が何かに持ちあげられるかのようにふわりと浮いて、ぼくの隣に飛ばされた。さすがと言うべきか、千紗は器用に受け身を取ってすぐに立ち上がる。
なんだ、この魔は。
今まで会ってきた魔とは格が違う。
核が違う。
――魔はまるで世界から愛されているかのごとく圧倒的な力を持ち、
――圧倒的な破壊力もって我々を襲います。
何の冗談だ。
今までの戦いは前哨戦だったのか――!
「私の名はクリル。〈報復するクリル〉とも呼ばれているがね」




