第八話『馬鹿な子』
千紗には先に部屋に戻ってらって、ぼくはエレナさんに会うために彼女の部屋を探した。ぼくがこれからエレナさんと話すことは、できるだけ千紗の耳には入れたくなかった。彼女がどこまで知っているのかはわからないけれど――と、そこまで考えて思い至る。
千紗はきっと、全てを知っているのだろう――と。
術式のことが書かれた千紗の手帳のメモ、そこには塗りつぶされて消された箇所があった。そこが術式を扱ううえでのリスクなのだろう。その内容をぼくは知らないけれど、きっとあまり考えたくないものなのだろうとは想像できる。
想像できるだけで、それを確かめたいとは――思えないけれど。
ぼくはどこまでも、憶病なんだ。
「そんなところで何をしているんだ?」
「エレナさんを探してたんですよ」
「それはタイミングがよかったな。私は別にきみを探しちゃいなかったが」
この人はつくづくタイミングの良い人だ。しかも前回も後ろから声をかけてきたのだったか。まさかこの人、ぼくたちをどこからか監視してるんじゃないだろうな。
「そんなわけないだろう。私もそんなに暇じゃない」
試しに聞いてみたら、エレナさんはくつくつと笑いながら答えた。
「とはいえ、今はそれなりに暇だ。私を探していたというなら、何か用があるのだろう?」
エレナさんは笑顔のままで言った。
「その用事はまあ、なんとなく予想できるのだがな」
「予想できますか」
「ああ。チサのことではないか?」
表情を崩さないまま、何でもないことのように言った。
「そうです」
エレナさんにとって、チサのことはどうということもないことなのだろう。
「術式のリスクかな?」
「お察しの通りです」
「ふむ。ま、立ち話もなんだ。私の部屋に来るといい」
「はい」
「ちなみに、私をここで探しても基本的に無駄だぞ?」
「どうしてです?」
ここは大聖堂なのだから、エレナさんを探す箇所の筆頭じゃないのか?
「いや、そういうことじゃなくてだな。完全に私の部屋とは反対の場所だぞ、ここ」
ふふ、ぼくがその程度のことに気づいてないとでも思ったのか。まさかだ。そんなわけあるわけないじゃないか。王都からここまで旅をしてきたぼくが、まさか大聖堂の中で迷うはずがない。
「迷ってませんよ、断じて」
「そうか。それならいいんだ」
エレナさんの後ろからついていくと、彼女の肩が揺れていることに気づいた。どうやら信じてもらえなかったようだ。残念だがしかたない。
「それはそうと、昨日はよく休めたか?」
「はい、おかげさまで」
もやもやとしたものが胸にたまっていたけれど、ベッドに横になったらそんなものは眠気に一蹴されてしまった。いつものことだけど、やっぱり柔らかいベッドに横になると、それまでの疲れが体の奥から疲れが噴き出てくる。
戦地にベッドの罠が置かれていたら、一発でかかってしまいそうだ。
……。
ぼくは一体何を言ってるんだ。
「それはよかった。船旅は疲れたろう? 陸地じゃああんな揺れは体感できないからな」
「まったくです」
船の揺れは、思ったよりも大きかった。ぼくが元いた世界とは、やはり技術を比べるのは無茶な話だけど。というぼくは、船に乗ったのはこれが始めてだ。
数人の女性とすれ違う。
「あの人たちはここで働いている人ですか?」
「ん? ああ、まあそんなところだ」
「曖昧ですね」
「まあこういう施設だからな。いろいろあるのさ」
はぐらかされているわけではないのだろう。
「はあ」
「まあ余計な詮索はしないでほしい、ということさ」
「ならぼくも余計なことは聞きませんよ。余計なことは」
余計なことは――だ。
「さあ入れ」
前に来た時と同じ場所に座る。エレナさんはぼくの正面に座った。ぼくの心を見透かすような目でぼくを見つめ、ふぅっと息をついた。
「で、何の用だ?」
「千紗の術式のことで」
「それはわかってるさ。しかし、どうしてきみがそれを聞く必要がある? それこそあの子に聞けばいいことだ」
幼く見える足が組まれ、妙にその姿勢が尊大に見える。成人がするそれよりも、より尊大だ。
「千紗の術式、あれらのリスクについてわかっていることを教えてください」
「ふう。誰かが口を滑らせたか。まあ、いずれは耳に入ること――か」
「わかってることはあるんですか?」
「すくなくとも、全く未知数の危険を孕んだ術式は使わんさ」
「じゃあ、教えてください」
エレナさんは思案顔になり、やがて口を開いた。
「本当に聞くか?」
そう言ったエレナさんの表情は、今までのそれとは比べ物にならないくらい真面目なものだった。
聞いてはいけない?
聞くべき?
ぼくは今――選択を迫られている。そう思う。ここで聞くか否かは、今後のぼくたちの関係に影響を与えるだろう。もし聞いてしまったら、場合によってはそれによって関係に亀裂が生じるかもしれない。その危険性は十分にあるし、そうなったら今後の旅が苦しくなる。
今更、別れて旅をするなんて考えられない。
「どうする?」
「……」
いざとなると、一歩が踏み込めなくなる自分。
「聞きます」
「そうか」
だけど。
それではいけないんだ。
「率直に言おう」
「はい」
「あのグローブに装着された魔石を用いた術式〝武神〟には、ほとんどリスクはない」
「ないんですか」
あれだけの力を持つ術式だ。リスクのひとつやふたつ、必ずあると思っていた。
それが――ない?
いや、ほとんどか。
「問題なのはもうひとつのほうだ」
「〝力は満ちて〟――」
「ああ。ヒジリはあの術式の触媒は何か知っているか?」
〝力は満ちて〟の触媒――
それはぼくが気になっていたことだ。術式には触媒への魔力の充填が必要になる。〝武神〟の触媒があの青い石であることはわかったけれど、〝力は満ちて〟にはそれらしいアイテムがなかった。
存在しない触媒。
「〝力は満ちて〟のリスク――というよりも、術式全てに言えることだが、術式のリスクはその触媒が何かということが重要だ。そして今回の場合――つまり〝力は満ちて〟の触媒は……」
そこで言葉を切った。
「言ってください」
エレナさんは少し逡巡した。
本当に、言いにくいことなのだろう。
「……触媒は、千紗の体そのものだ」
体?
それが、存在しない触媒?
「待ってくださいよ。千紗の体が触媒って、どういうことですか」
「そのままの意味だ。術式は魔法ほど万能じゃない。それは魔力の充填に限ったことじゃない。魔法はその能力の範囲内で応用が効くが、術式はそれができない。魔法は自身の能力だから、あまりに強い魔法でない限り負担は少ないが、術式はそうでもない」
「つまり?」
「〝力は満ちて〟は――そういう意味において強力な術式だとは思わないか?」
今までの千紗の戦闘が次々と思い浮かぶ。敵を倒す手段のほとんどは〝武神〟による攻撃だった。しかし、それが目立ち過ぎただけで、〝力は満ちて〟の力がなければ敵の攻撃を受け放題になっていただろう。
機動力。
攻撃力。
身体能力を飛躍的に――超常的に向上させる術式。
「千紗の体は〝力は満ちて〟に犯されている。しかし、それはどうにかなるレベルではある。問題なのは千紗の体そのものが触媒であるということだ。ヒジリ、これはどういうことだと思う?」
「……」
「ここまで生き延びたんだ、なんとなく予想はできているんだろう? ……まあいい。今の千紗は、魔力なしでは生きていられない」
「……」
「千紗は――あの子は、私たちが生きるために食事をするように、生きるために魔力を充填する」
それはもう――人間に似た魔具のように思われた。
「そしてお前の持つ〈揺光〉が、本来なら――この世界で生きるだけならほとんど問題なかったあの子に、重大な問題を引き起こした」
〈揺光〉?
どうして今その名前が出てくる。
「〈揺光〉には特殊な力があるのは気づいているか?」
「いえ……今日、ロックという人に聞いて知りました」
魔力付与によって、ただの刀だった〈揺光〉は強化され、さらにイレギュラーな力を得た。
「〈揺光〉は魔力を吸う」
「どういう……」
「魔力は常時、微量ではあるが周囲から魔力を吸い上げる。直接触れれば、斬れば、その吸収量は跳ね上がる」
「お前がフィオと戦い、それでも生き延びた要因はそれだ――と私は推測する」
もう――何がなんだか。
わけがわからない。
今までの全ての出来事が、まるでご都合主義のように。
まるで定められた物語のように、ぼくを歩かせているように感じる。
「〈揺光〉の魔力吸収は、魔力を持たないお前や、ほとんど魔力を使うことをしない一般人には影響がない。ただ、生きるために魔力を用いる千紗、フィオのような戦闘狂には死活問題だ」
「じゃあ――」
「旅はふたりで続けろ。そうでないとヒジリ、きみはゼノと戦う前に死ぬだろうな」
それは――否定ができなかった。
ぼくはすでに、千紗に命を救われている。
数の暴力。
それに屈したのだ。
「あの子がこの旅を終えた時、おそらく元の世界には戻れないだろう」
魔力がないと生きられない体。
それはつまり――そういうことだ。
「だが、それはあの子自身が選んだことだ。あの子を召喚したのは――本当に正解だった。あの子は勇者には適役だよ。これ以上ないほどだ」
「エレナ……さん?」
「本当に、あの子は本当に――馬鹿な子だ」