第六話『術式と楽しいお話』
言われてみて、それを頭から否定できない自分がいた。むしろ、それを聞いてもどこか納得している自分がいたのだった。過去の千紗の言動を思い出してみれば、もしかしたらそうなのかもしれない――そう思わせるものがあったように思う。
「本当――ですか?」
聞くまでもないことだった。この女性は嘘を言っているようには見えないし、『あの人』の助言があろうがなかろうが、ぼくはこの人を信じていいと考えている。彼女には嘘をつく理由がないのだ。
「……はい」
「どうして――」
「これ以上のことは、わたしからは言えません。チサさんにお聞きになってください」
「そうですね」
「さて、ここです」
女の人は扉の前で立ち止まった。
「ありがとうございます」
「わたしはこれで――と言いたいところですが、帰り道は覚えていますか?」
「恥ずかしながら」
覚えているわけがなかった。
「あら。それでは町でも眺めながら、わたしとお話しますか?」
「お相手をお願いしましょうか」
「お安いご用です」
女の人が扉を開けると、眼前に暗い夜の街が広がった。魔法で管理されている黄色い光や、たいまつに灯された火の点が点在している。それらはどこか物寂しげで、けれど、町に息づく力を見せていた。
ぼくの世界ではもうほとんど見られなくなった――いや、全くと言っていいほどに見られなくなった種類の夜景。
ひんやりとした空気が、体をじんわりと冷やした。
「すこし、楽しいお話をしましょう」
女の人は……って、これもそろそろ野暮ったい。
「楽しいお話の前に、名前を教えてもらえませんか?」
名前を知らない人と話をするのは、時間が経つにつれて気持ちが悪くなってくる。呼ぶにも不便するし、聞いておいたほうがいい。
「ああ、そういえば自己紹介をしていませんでしたね。わたしのことはダリアンと呼んでください」
柔和にダリアンさんは笑った。
「楽しい話と言いましても、わたしが話のネタを持っているってわけじゃないんですけどね」
「ないんですか。ぼくもないですよ」
「旅をしていたら楽しいことのひとつやふたつ、あったんじゃないですか?」
楽しいこと、か。
思い返してみても、なかなかそういうものは思い出せない。強いて言うならば、魔と戦っていない時間が、今のような時間が楽しい時間なのかもしれない。そういう意味では、ササ村での時間は――あいつが現れるまでの時間は、本当に楽しい時間だったのだと今では思う。
その楽しみも、今では悲しみと共にでしか思い出せないけれど。
「悲しみと共に、ですか。ヒジリさんがそれでいいと言うのならそれでいいんでしょう」
ダリアンさんは言う。
「わかりませんけれどね、ヒジリさんがどんな旅をしてきたのか。でも楽しいことと悲しいことって、別々に考えたほうがいいと思います」
「といいますと」
「怒らないでくださいよ? さっきヒジリさんが話していた楽しい時間が悲しみと共にしか思い出せないというのは、楽しいかった時間と悲しかった時間、できごとをいっしょにして考えているんです。それらは別のものとして考えたらいいとは思いませんか?」
「無理です」
無理だ。
ぼくの頭はそんなに便利にはできていない。
「だと思います」
ダリアンさんは当然そうにうなずいた。一歩、二歩、ダリアンさんは手すりの方へと歩いて、そこにもたれるようにして町を見下ろした。
「ねえ、ヒジリさん。世界を救うって、どんな気分ですか?」
「よくわからないです。実感もないですし、ぼくの感覚としては――流されてるだけなんですよね」
流されている。
状況に流されている。
「突然なんですよ。突然、ぼくは世界を救う人になったんです」
「わたしも突然なんですよ。突然、わたしはエレナさまに仕える人になったんです」
「突然なんですか」
「突然です。わたしたちが思い通りにできることって、それほど多くないと思いませんか? わたしがここで働いていることも、ヒジリさんが世界を救うことも」
それが真理なら――ぼくらは全員流されている。この世界に生きるあらゆる人たちは、状況に流されて生きている。
レールに沿って、走ったり歩いたり。
「レールがあるなら、まだいいですよね。レールがなくなったら前に流されることもできなくなりますから」
それはつまり、終わるということだ。
「ところでダリアンさん」
「なんですか?」
「これは楽しい話ですか?」
「……違いますね。楽しい話をするのは難しいですね」
「難しいですね」
楽しいは、難しい。
「ダリアンさん、部屋に戻りましょう」
「そうですね」
翌日の朝、千紗と町に出た。昨日の店に行くのだ。『炸裂する子たち』という理解し難いセンスの店だ。
「来たか」
店に入ると、ロックさんが意味深な表情でぼくらを迎えた。
「チサはこっちに来い。調整をしてやろう」
「お願いするっす。あ、聖はここで待っててね」
「わかった」
「そこの椅子にでも座ってて待っていてくれ。お前とも話がしたい」
「はあ」
ふたりは部屋の奥のドアに入っていった。
「ふぅむ」
ひとりになって、改めて店内を眺めてみる。本や小物が散らばっていて、全体的に雑多な印象を受ける。ショウケースの中には石のような物や、カードのような物などが並べられている。
うん?
その中に一つ、なんだか見覚えがあるような石があった。澄んだ青い石だ。手のひらサイズにカットされている。これはどこで見たのだったか。それほど寄り道をする旅ではないから、覚えていても良さそうなものなのに。
ああ、これはあれだ。千紗のグローブにはめられている石だ。千紗の攻撃力に関わる魔具。そして術式の触媒。石の名前はわからないけれど、この石の美しさには目が奪われそうだ。けど、千紗の石ってこんなにきれいだったっけ? もっとこう――石の中がくすんでいるように思ったけれど。
「想像はできたけど、魔具店ってことでいいのかな?」
店内にはそれっぽい品がそこらに転がっている。整理整頓という言葉は、ロックさんの辞書にはないのかもしれないし、これが彼にとって最高の配置なのかもしれない。
どうでもいいことはさておいて、ここでひとり待たされているというのも、なかなかどうして退屈だ。かといってふたりが入った部屋に行くのは邪魔だし、外に出ている間に調整が終わってもよくない。身動きが取れない。
床に落ちていた石をひとつ拾い上げる。それは青というよりは緑に近い石で、親指くらいの大きさだ。魔力がどうとかはわからないけれど、なんらかの術式に使うものなのだろうとは思う。
術式。
魔法ではなく、人が編み出した魔法に似た技術。
触媒と魔力の充填を必要とし、そのリスクは未だ判然としない。それを発明したのはエレナさんだという話だが、エレナさんはどこまで術式のことを理解しているのだろう。やはりその発見だけを公開し、研究は魔法都市だったこの町に任せたのだろうか。
そもそもエレナさんという人物が謎めいている。外見もそうだし、術式の技術を持ちこんだこともそうだ。あの人はぼくたちに隠していることがたくさんある。ぼくが知ったら驚くだろう――ぼくが知りたいと思っているようなことを隠している。それは聞けば教えてくれるのだろうか。
……ふつうに教えてくれそうだ。
「でもな、聞いたところでどうするんだ?」
どうしようもできない気がする。
「ふぃー、終わったよー」
能天気な声と共に、千紗とロックさんが奥から出てきた。千紗のグローブにはめられた青い石は、さっきショウケースで見た石と同じ輝きを放っている。
「きれいになったでしょ」
ぼくの視線に気づいたのか、千紗は右手の石を見ながら言った。
「魔力を充填してもらったんだ」
「チサは使い過ぎだ。もっと出力を考えなければいけない」
ロックさんが呆れた表情で厳しい声を出した。というか、やっぱり使い過ぎだったんだな。制約をかける話をしておいて良かった。
「うー、了解っす」
千紗はさほど気にした様子もない。心なしか上機嫌に見える。
「さて、ヒジリ。ちょっと話をしよう」
「はあ」
ぼくにどんな話があるのだろう。
「その刀を――譲ってくれないか?」




