第三話『最弱故に』
〈風の通り道〉は大きな扉の前で停止し、元の球体となって千紗の手に戻った。扉には大きく〈大導師〉の紋が彫られている。シンプルでありながら重厚な扉だ。聖堂と呼ばれるものを見たのは初めてだけど、これならなるほど、確かに聖堂という言葉に負けているなんてことはないだろう。
「じゃ、入ろっか。緊張しなくてもいいよ、ここはみんなに開放されてるんだ」
「それを聞いて安心したよ」
特例として入っていくとか、ぼくにはそんな度胸はない。
聖堂の扉を千紗が押す。ぎぃ、と軋む音がして、その扉が開かれた。中は徹底的に白で統一されていた。長椅子も絨毯も、壁も窓枠も、装飾品や花瓶に至るまで、この建物の中にあるあらゆるものが白で統一されている。
唯一。
〈大導師〉の紋だけが緑色で描かれている。紋は聖堂の最奥の壁に描かれていて、ここに踏み込んだ瞬間に、そこに視線が誘導される。魔力を持っているかのような存在感があり、ぼくはしばらくそれから目が離せなかった。
「聖、行くよ?」
「ん? あ、ああ」
ここの構造は覚えているらしく、千紗は迷いなく歩き出した。
「ここまで白ばっかりだと、なんだか気が狂いそうだ」
当然のように通路も階段も白い。
真っ白の階段を上る。
「白は穢れのない色、だからね。この町じゃかなり好まれてるんだよ」
「緑は?」
「緑は高貴な色らしいよ。それと同時に魔力の宿る色なんだってさ」
高貴で魔力の宿る色、ね。ぼくの感覚ではそれは紫なんだけど、やっぱり微妙な価値観の違いや感覚の違いはあるっていうことか。世界が違うのだから、ないほうがおかしいと言われればそれまでなのだけど。
聖堂の二階、廊下の両側に扉が等間隔にいくつも並んでいる。言うまでもなく全て白で統一され、ぼくの顔の高さあたりに紋が描かれている。徹底された白と〈大導師〉への信仰が、ここからも感じられる。
「エレナさんっていうのはどんな人?」
「んー……線引きをちゃんとしてる人、かな」
「線引き?」
「自分がどこまで手を出すか、その線引きができてる人だよ」
それが前に言っていた、町の住人しか助けない――という主義にも通じているのかもしれない。
聡明で優しく――そして立ち位置をわきまえている。
そういう人になりたいね、いつか。
「あたしもああいう人の下にいられるなら、ずっと下っ端でもいいね」
「そこまで?」
「ごめん、ちょっと嘘」
へへ、と笑う。
「別になれるっていうなら、私のようになってもいいのだがね」
「やだなぁ、エレナみたいになるなんて無理っすよ――って、エレナ!」
声がした後ろに振り向くと、そこには小学生くらいの身長の女性(女の子?)が立っていた。鮮やかなブロンドの髪をさっと右手で払い、彼女はこちらに歩いてくる。
ぼくと並ぶと、彼女の身長がやはり小さいことがわかる。ぼくよりも頭一つ分くらい小さいだろうか、胸のあたりに顔がある。この小さな人がエレナ、なのだろうか。
「きみがヒジリ、だね? ああ、言いたいことはわかるが言ったら――わかるな?」
キッ、とぼくを睨みあげてくるが、それさえもなんだか迫力に欠けている。身長が小さくて見た目も若く、本当に同年代としか思えない。
「ふう。まあいい。ひとまず私の部屋に行こう。話はそれからだ」
すたすたとエレナさんは歩いて行く。ぼくらは彼女の後について歩く。
「もう知っているだろうが、私はエレナだ。一応、この町の指導者を名乗っている」
「ヒジリです。王都から来ました」
「ああ。細かい事情はレミアから聞いている。災難だったな、あの女に遣わされるなんて、な」
うーん、どこに行ってもレミアさんの評判は良くないようだ。彼女を快く思っているのは『彼女』とギースさんくらいなのか?
「知り合い、なんですか?」
当たり前といえば当たり前の話ではある。町の指導者とそれらを統べる女王との間に、面識があるというのは別に不思議なことではない。だたそれだけだというのには、エレナさんの口ぶりは少しばかり親しげだ。
「旧知の仲だ。あんな忌々しい女は忘れられんよ」
忌々しい女――ね。
前言撤回だ。全然親しくない。憎まれ口を叩くほどの仲なのかもしれないけれど、そんな相手に舌打ちなんかしない。
「あのさ、エレナ。そのレミアって人はどんな人だったんすか?」
「今は関係がない話だが――まあ、いろいろあったのさ。あんまり遠くはない過去ではあるがね」
気になるが、あまり踏み込むべきではないのだろう。
こつん、と額を小突かれた感覚があった。
しかしまあ、そこらへんの空気を読まないのか読めないのか、図々しく踏み込むのが千紗クオリティである。
「どんな過去だったんすかね? 気になるっす」
「話してやらんこともないが……そうだな、うぅむ。やっぱり話さん。どうしても知りたいなら、あの女にでも聞け」
うん。
確定的だ。エレナさんとレミアさん、絶対に仕事の都合で付き合いがあるだけだ。互いの利益があれば、好き嫌いなんて言ってられない大人の世界だ。それでも面倒事は押しつけるっていうのだから、この人、なかなか侮れない。
「ほら、ここだ」
通された部屋は、やはり白で統一されていた。精神的に不安定になりそうなほど、白で統一された内装。あらゆる小道具も白。部屋の奥に、偉そうに置かれた白い机の後ろの壁に、緑の紋。
「きみたちはそこのソファにでも座ってくれ」
シミひとつないソファに座る。座った途端に、ぼくを包むようにソファが柔らかく沈んだ。
「さて、と。私に会いに来るとは聞いていたが、一体何をしに来たんだ?」
エレナさんはちらり、と千紗を見た。千紗は「あはは」と、誤魔化すように笑う。
「イカガカの騎士団の人に、あなたが旅の指針を与えてくれる――と聞きました」
ぼくには旅の目的はあっても――目的地がなかった。
終わりはあっても――終わり方がなかった。
できることはたくさんあるけれど、本当にやるべきことが提示されていなかった。
「旅の指針? 私が?」
けれど。
エレナさんはやっぱり、怪訝そうに首をかしげた。
「勝手なことを言うやつもいたもんだ。大体、騎士団は私とは無関係だろう? どうして私の名前が出てくる。そういうことは、それこそあの女に聞いてもらいたいものだがね」
「それはそうなんですけど……」
「どうせ、適当に目的だけを与えられて、投げやりに放り出されたのだろう?」
「概ね、そんな感じです」
改めて考えると、やっぱりこれは異常なことだと思う。レミアさんはぼくに大陸をぐるっと、一周回れと言いたかったのだろうか。迷走していれば回ることもあるだろうけれど、そんなのは無駄だし。
「やはり、な。しかしそれなら、どうしてきみはここにいる?」
「どういう意味、ですか?」
「どうしてここにたどり着いた? 目的地はなかったはずだ」
「だから――」
「ああ、そういえばさっき聞いたな。まあいい。考えてみればレトアノ街道を通れば、自然とスダンに赴くことになる――それまでにチサに会っていれば、ここに来ることは必然だ」
「必然」
「ああ、必然だ。偶然なんかじゃない――チサ、ご苦労だった」
「え? でも、聖は最強じゃなくて最弱っすよ?」
少し焦りながら千紗が言った。千紗の目的は『世界最強』を探すことだったはずだ。だったら、最弱のぼくでは駄目なはずだ。
「最弱は――つまり最強なのだよ。あの女、なかなか考えたじゃないか」
――弱さは強さに変換することができるんだ。
これはそういう種類の話なのか?
最弱の弱さを全て強さに変換すれば――ぼくが最強になるのか?
「最弱は最弱のままでいること――強くならないこと、強者として君臨しないこと、それらによって最強になるのだよ。最弱は最弱だからこそ、最強なのさ」