第二十四話『戦いはいつの間にか終息して』
人。
人体。
人体は頑丈――ではない。
人の体なんていうものは壊れやすく、病みやすく、衰えやすい。
ひょんなことで骨は折れるし、爪は割れる。皮膚は裂けるし、血も出る。
ちょっとしたことで風邪をひくし、すぐに熱が出る。生まれついて病むこともあれば、決して癒えない病に苦しむこともある。
時間の経過によって簡単に衰えるし、目なんかは体のあらゆる器官でもっともはやく老化する。生活習慣でも衰えるし、若返ろうとする努力はたいてい徒労に終わる。
だからこそ。
だからこそ、人の体には自らを癒す能力が備わっている。治癒する能力が備わっている。どうしようもないほどに壊れ、どうしようもないほどに病み、どうしようもないほどに衰えてしまっていない限り、どうしようもないという状況をどうこうする程度には体を回復させる能力が備わっている。たとえば擦り傷をしてしまったところで数日もあれば傷は癒えるし、風をひいても安静にしていれば早ければ翌日にも治ってしまう。老いもそれ相応の努力さえすれば、ある程度は抗うことができる。
人体は脆い代わりに様々な能力で、自身を治癒し防衛する。
しかし。
しかしだ。
ところが、である。
腹に。
体のほぼ中心に位置する腹に、どうしようもないほどの大穴が開いたとしたら――開いてしまったとしたら、人体のそれをはるかに上回る傷を負ったとしたら。
手遅れだ。
「げぇ……」
声にもなっていない声がして。
もはや『人であった』としか形容できないそれから声がして、それは地面に伏した。失血を待つより早く、痛みによるショックで死んでしまっているだろう。
否。
そんなことを考えるまでもなく、この男が息絶えていることはわかる。わかりたくないが、わかってしまう。かつてただの小汚いだけだった部屋は、血と臓物によって赤黒くその姿を変えてしまった。
「え? な、なにが……」
そこまで思考は追いついているのに、それでもぼくの思考は追いついていなかった。現状理解がまったくできない。どういう状況に自分が置かれているのか、どうして大した怪我をしていないのに、ぼくがこんなにも血に濡れているのか。
どうして。
どうしてさっきまで力なく座り込んでいた千紗が立っているのか。
どうしてその拳を突き出しているのか。
ぼくにはわからない。
それこそ――わかりたくない。
「ここから出よう。聖」
今にも倒れてしまいそうな、そんな力のない表情で、千紗はぼくにその手を差し伸べた。
気がつけば。
言外の意味なく――気がつけば、ぼくは見慣れない部屋にいた。なぜか部屋は不規則に揺れていて、気づいた時にはその揺れに酔っていた。
部屋はあまり広くない。ベッドが二つ並んでいて、部屋の隅にテーブルがひとつ置いてある。ぼくは部屋の奥に置かれているほうのベッドに寝かされていた。
ドアが開く音がして、誰かが入ってきたことを悟る。
「あ、目が覚めたんだね」
「……千紗」
入ってきたのは、やけに疲れた表情の千紗だった。今のぼくの顔をそれなりにひどいものだろうとは思うけれど、それでもたぶん、千紗のそれはぼくよりもひどいと思う。
「とりあえずその……お疲れ様」
「あ、ああ」
千紗は不自然に胸元を隠すようにしてこちらに歩いてきた。そういえば、今の千紗の服装はいつもと違う。いつもの服ではなく、ワンピースのようなものを着ている。ただ、サイズが合わないのか、両手で胸元をに布を集めているようだ。
「そのワンピース、どうしたの?」
さっそく本題に、と言えるほどぼくの神経は太くなかった。時間を稼ぐつもりで聞いてみると、千紗は露骨に嫌そうな顔をした。
「これがワンピースに見える?」
「え? あー……見えないね」
たしかに言われてみれば、ワンピースと言うにはあんまりな服だった。千紗が着ていたのは、本来ならガタイの良い男が着るようなタンクトップだった。
「一応、あたしが女ってことは考慮してくれたみたいだけどね。他のどの服でもなくこれを貸したって時点で、まあそういうつもりはあったんだと思うよ」
「というかさ、服は?」
「あたしの服も聖の服も血だらけだから、船の人に血落としをしてもらってる」
あの血は一応、魔の血ってことで誤魔化してるから。と、千紗は続けた。
そう言われて初めて、ぼくが一糸まとわぬ姿であることに気づいた。今まさに立ち上がろうとしていたところだったけれど、すんでのところで思いとどまった。立ち上がるかわりに上体だけを起こす。
「とんだセクハラおやじもいたもんだね」
「ホントだよ」
千紗はため息をついて、ふらふらと開いているほうのベッドに倒れ込んだ。その一瞬、そのタンクトップの内側が見えたような気がしないでもないが、気のせいにしておこう。
「大丈夫?」
千紗はもぞもぞと体を動かし、毛布をかぶった。頭だけを出して、ぼくを見る。
「あんまり大丈夫じゃない、かも。少なくても数日は術式は使えないよ」
「そんなに負担がかかるの?」
自分の魔力を使用しない分、負担は減っているのもだと思っていたのだけど。この分だとそれは誤解だったのかもしれない。
「グローブのほうの術式はまだ大丈夫だけど、ほら、身体能力を上げる術式の負担はそれなりに、ね」
「ぼくは君が世界最強だと思っていたけれど、どうやらそうでもないみたいだね」
ぼくの言葉に、千紗は少なからずむっとしたようだ。
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ。たしかに全快の時の千紗はどうしようもないほどに強いけど、限定条件下での最強なんて、さほど最強だなんて言えないよ」
千紗は口を固く結んだ。
「君よりも圧倒的に弱いぼくが言っても説得力なんて全くないんだけどさ。千紗の術式が最大でどれだけ使えるかわからないけど、充填用の魔力のストックがたくさんあるわけじゃないんだろ? 今は持ってないはずさ。最低でも二回は最大まで充填できる魔力のストックがないと、『限定条件下で』という括りは外せないよ」
「説得力は――あるよ」
千紗は枕に顔をうずめて言う。
「今まで最弱として戦ってきたんだ。聖がそう言うなら、きっとそうなんだって思う。でもさ、でも――あたしは今までこういう戦い方しかしてこなかったんだよ。相手の動きを見て、最善と思う攻撃法で……常に全力で戦ってきたんだ」
今更変えろなんて、できない。
「相手の動きを見て? 動きを見て、相手の出方を予想してたってこと?」
「……うん。術式の影響で魔力の感知はできるし、相手の体の重心を見れば次の行動もある程度予想できるから」
相手の行動を読む能力。
爆発的な破壊力。
おいおい、この子、どれだけのポテンシャルを持ってるんだ。それこそ力の使い方を間違わなければ、魔の長を圧倒することだってできるんじゃないか?
それをするのが自分ではないことが、ちょっと残念ではあるけれど。
「千紗」
「ん?」
枕から少し、千紗の顔がのぞく。目がうるんでいる。
「これからしばらく、グローブの術式を使うのは控えてみないか?」
「どういうこと?」
「千紗は力の使い方に慣れるべきなんだと思う。身体能力を上げている術式も必要最低限で使って、術式に依存しない戦い方を身につけたらいいと思う」
自慢ではないし、できるほどの実力もないけれど。それこそぼくのように。生身で、強度と切れ味に魔力付与が施された刀一本で、魔と戦うぼくのように。
そうすれば、今回のように、疲弊しきってしまうことは減ると思う。
「で、でも……」
不安そうだ。今まで当たり前のように使ってきた力が、その使用を制限されるというのだからそれも仕方のないことだが。それでも、彼女にはそれを乗り切ってもらう必要があるだろう。
「グローブの術式だって、何も全く使うなって言ってるわけじゃないんだよ。出力を加減して、消費量を減らしてほしいんだ」
ストックの為でもあるし、何よりも、それは千紗の為だ。
「君は最初から最強だった。ちょっとくらい弱くなっても、それはきっと良いことだよ」
次回、第二章最終話。