第二十一話『勇者に敗走はないのだ』
目の濁った女はバーバラと名乗り、勝手知ったる我が家と言わんばかりにすたすたと狭い路地を進んでいく。千紗は遅れないようにその後追った。
「いやに素直っすね? もう少し抵抗すると思ったんすけど」
あちこちに無造作にばらまかれたごみを見て顔をしかめながら、気を紛らわせるためにバーバラに声をかける。悪臭はだいぶ気にならなくなってきたが、目に映るものへの嫌悪感にはなかなか慣れることはできない。
「あなたは魔と戦いすぎたんじゃないかしら? 人は諦めの肝心さを知っているものよ」
「そんなもんなんすかね?」
腑に落ちない様子であいまいにうなずいた。勝負事に関しては、一切妥協をしてこなかった千紗には、こうもあっさりと負けを認めるバーバラのことがよくわからないのだった。全力を賭して戦ったなら理解できるが、あの程度のことで負けを認めるなんてことは、千紗にはできない。
「もっとも――」
ごちゃごちゃと考えて答えが見つからないうちに、バーバラは再び口を開いた。
「――今もそうだとは限らないけれど、ね」
言い終わるや否や、パチン、と、軽い音がバーバラの後部で鳴った。
「え?」
普段とは違う音に、バーバラはうしろを振り返った。
「不意打ちは卑怯だと思うんすけど」
バーバラが振りかえると、彼女にとって予想外の光景がそこにあった。
屈強な男の拳が、男よりもふた回りほど小さな少女に止められていたのだ。両手ならまだ理解できないこともないかもしれないが、あろうことか片手で、である。
「化物ね、あなた」
「人間っす」
後頭部に痛みを覚えて目が覚めた。何かで拘束されているのか、体が自由には動かない。目を開けてまず見えたのは、砂利だった。拘束されて無造作に放置されているらしい。
「どこだ?」
砂利がかなり多いが、ぼくが突っ伏しているのは木の床の上だ。手入れなどはほとんどされていないのだろう。砂埃と砂利などが、木の床を白く染め上げている。高い位置に取り付けられた小さな窓から頼りない光が差し込み、光の帯となって漂うほこりをきらめかせながら、ぼくの前に落ちている。
周囲に人の気配はなく、この部屋の中にはぼくしかいないらしい。監視役はいるはずだから、ここの外で見張っているのだろう。荷物も〈揺光〉も〈邂逅〉も、ざっと見たところ見当たらない。どうやら盗られてしまったらしい。荷物はともかく、〈揺光〉と〈邂逅〉は何が何でもとりかえさなくちゃいけない。
金も食料もその気になればどうにかなるけれど、このふたつだけはそうもいかない。これにはササ村の人の――あの家族の想いがつまっている。
思い出がある。
さしあたって、ここから脱出しなければいけないわけだが、こうして体を縛られている現状、どうしたものか。思い出すまでもなく、ぼくは服に短剣やナイフを仕込んではいない。となれば力ずくで縄をちぎるか、器用にほどくしかないのだがそんな芸当はできそうにもない。
「さて」
結び目が緩みはしないかと体を転がしてみたけれど、きつく縛られたそれはびくともしなかった。立ち上がることもままならず、ため息をついて天井を見上げた。
この世界には電気がなく、魔法で済ませていることはイカガカで知った。思い返してみればたしかに、こちらに来てから電気を見たことがない。灯台から伸びていた光は、何かの魔法か術式なのだろう。
ぼんやり部屋の中を眺めていると、家具や箱すらないこの部屋に、小さな突起があることに気づいた。それは壁の低い位置にあり、寝転んで部屋を見回していないと気づかないような突起だった。転がってその突起に近づいて行くと、それが何かがわかった。
「ひらめいた」
どうやらこの小屋は突貫でずさんな方法で建てられたらしい。ご都合主義も甚だしいが、この場合はもろ手を挙げて喜ぼう。今は挙げられる手もないがね。
突出していたのは釘のようなものだった。資材と資材を固定するために使われていることは容易に想像できる。それが数本、壁から突出している。これなら強度は申し分ないだろう。縄をちぎろうとしても、そう簡単には壊れまい。何時間かかるかわからないが――って……時間?
「おいおい!」
船はいつ出航だ?
ぼくはどれくらいここにいた?
どれくらいの時間をこの一件に割いている?
いや、そんなことは些事だ。今考えるべきことじゃない。今はこの縄をちぎりながら、次の行動のことを考えなる時だ。船なんてなくても、予定を変更して陸路を使えばいいだけの話だ。
不幸中の幸いで、ぼくは今、魔力を持つアイテムを何も持っていない。魔力付与された服もあるらしいが、それはかなり高価で買えたものじゃないと千紗が言っていた。体には何の違和感もないから、フィオの時のように魔力の残滓で追跡されるということもない。
ぼくは今、ステルス状態だ。〈邂逅〉か〈揺光〉を回収するまで、ぼくの動きは相手には伝わらない。相手がどこまでそれに気づいているかが問題だが、このアドバンテージを生かさない手はない。
千紗は服に着いたほこりを払って、地面に突っ伏すふたりを眺めた。しゃがんでふたりの体を物色する。
「うーん、特に何もないなぁ」
魔力を充填できるものがあればそれで充填しようと思っていた千紗は、残念そうにつぶやいた。
「まあ、体から魔力を抜くのはやめておくっすよ。さすがにあたしも抵抗があるんで」
千紗の見立てでも、このふたりの魔力量はそれほど多くない。そういう人から魔力を充填しても、大した量にはならないだろう。魔力量以上に、人から魔力を取り出すという作業は、千紗には共食いのようにも感じられたのだ。
「人の魔力は充填には向かないし、ね」
さっき自警団から充填させてもらった魔力は、今の戦闘でほぼ使い果たしてしまった。魔力量はそこそこあったのだが、人の魔力はすこぶる燃費が悪い。
「さぁて……」
悪者な笑みを浮かべて、千紗は立ち上がる。
「ここまであたしを消耗させたんだ。その代償は高くつくぜ! みたいな」
あくまで気楽に。
千紗は路地を進む。
「ちゃっ……ちゃっちぃ」
縄の結びこそ固くほどけそうにもなかったが、縄そのものの品質は最悪だった。突起で削っていると、ほどなくして千切れた。
「よし。あとは脱出だな」
この建物にはドアがひとつと、窓がひとつある。ドアから出れば確実に見張りに見つかり、窓から出れば見つかる危険は少ない。ただし窓は高いところに設置され、壁を数歩走らないと届かないだろう。さらに窓を開けるか割る必要がある。
「素直にドアから出るか」
下手なことをして体力を消耗するよりも、多少危険でも最短を走るべきだ。今はそういう状況のはず。
馬鹿正直にノブを回すなんてことはせず、渾身の力を込めてドアを蹴破った。「げふっ」という嫌な声が聞こえて、ドアはやや傾いた状態で制止した。
「ふむ。気絶してしまうとは何事だ」
声はひとつだった。他の見張りがいるかもしれないと周りを確認したけれど、それらしき人影はいなかった。
どうやらここはあの路地らしい。この嫌な臭いと散乱したごみから、それ以外の場所が想像できない。ぼくが放り込まれていたのは、路地に面した建物のひとつだったわけだ。
右に行こうか。
左に行こうか。
いやいやいや、適当に歩いたら絶対に道に迷う。どうしたものか。
「道案内、してもらおうか」
今度はあんなヘマはしない。ぼくはここまで生き抜いてきたんだ。死線も越えてきた。こんなしょうもないことに屈してられない。
「おい。おい、起きろ」
「ぐ……ん? お、お前は!」
起き上がろうとしたところで、のしかかるドアの上から男を踏みつける。男は潰れたカエルのような声でうめいた。
「ん?」
男は腰から短剣を提げていた。それを鞘から引き抜き、男の顔の前に突き立てる。
「道案内をしろ」
「ど、どこへ……」
魔法を扱えるはずの男は、全く魔力を持っていないぼくに怯えて震える声を漏らした。滑稽なものだ。圧倒的有利な力を持っていながら、たった一本の剣に屈するというのだから。まあ有利も何も、この男の持つ魔法次第なのか。
「わかるだろ? ファランのところへだ」