第十九話『人と魔、戦い方の違い』
人の波をかきわけて、ファランを追う。子どもを抱えているからそれほど速く走れないと思っていたが、それは甘い考えだったようだ。途中で何度か姿を認めることはできたけれど、今は見失ってしまっている。結局、ぼくはあの細い道の前に立っている。
その道と正対すると、その雰囲気の気味の悪さに追いかける気をそがれてしまう。ふつうなら絶対に入り込まないそこへ、ぼくは一歩踏み込んだ。道を挟む建物は高く、ここにはあまり光が差し込んでこない。ほこりっぽい路地は、ぼくの進行を拒むように入り組んでいる。ファランの手下がどれだけいるのかわからないけれど、まさかあの二人だけということはないはずだ。警戒を怠らずに狭い道を進んでいく。
さっきまで歩いていた町と同じ場所とは思えないほど、ここは荒廃していた。ごみが散乱して悪臭が漂い、当然のように血のにおいもそれに混じっている。大きなネズミがあちこちを走り回り、みずぼらしい姿の猫のような動物がごみを漁っている。町を見て回らないことは罪悪だと、どこかの盗っ人に言われて納得した覚えはあるけれど、こんな場所を見て回りたいと思った覚えはない。そもそもさっきだって、ここを避けて歩いたというのに、だ。
「誰が許可でもらって歩いていた?」
声に振りかえると、濁った目の女が立っていた。木の棒を自信満々に担いでいるのは、あの棒に魔力付与を行っているからだろう。それがどういう種類の魔法かはわからないが、そうでなければどこにでも落ちていそうな木の棒を武器にはしまい。
「え?」
「そして、誰が許可でもらって歩いていた?」
やばい。
何を言っているんだ、この人は。とりあえず質問していることはわかるけれど、文章が滅茶苦茶すぎて理解できない。
「えっと……あなたは誰?」
「彼はバーバラ。もし君が誰?」
今のはなんとなくわかったぞ。
「ぼくはヒジリ。ファランって人に会いに来た」
女の――バーバラの表情が変わる。さっきまでは目が濁っている以外は、とろんとした愛嬌のある表情だったのに、とたんに剣呑なそれになった。
「ファランが何に用事?」
「あなたが何と言ってるかわからないけど、とりあえず男の子を助けに来た」
「そこで彼に気にしてる。だからヒジリ、あなたはここで死ぬの!」
「ふつうに喋れるんじゃないか!」
なんなんだこの女は! 他人と意思疎通をすることに嫌悪感でも持ってるのか? これはあの時の魔の人間バージョンだな! まだあそこまではぶっ壊れてないみたいだけど!
女が木の棒を構えてぼくに襲いかかってきた。重たそうに棒を振り上げ、地面に叩きつけた。木の棒は折れず、かわりに金属質な音が響いた。
「殺す気か、あんた!」
「全てがファランにため」
よくわからないが、ぼくを殺すつもり満々であることだけは理解できた。気が進まないのを自覚しつつ、〈揺光〉を抜いた。あんな金属バットみたいな木の棒で殴られた日には、ぼくはこの世界からさよならしなければいけない。
バーバラが木の棒を持ちあげようと腕に力を込めている時、その腕を蹴飛ばした。手が木の棒から離れ、棒が倒れる。バーバラは体勢を崩して地面にうずくまった。不思議と木の棒が倒れた時の音は軽いものだった。いや、それ本来の音だった。バーバラの方を見る。バーバラは血相を変えて、木の棒に飛びつきにかかる。これは確実にそうだ。
バーバラの手をもう一度蹴り、地面に倒れている木の棒を拾い上げ、真中から二つにへし折った。
「もうこれで武器はない……ぞって、え? いや、冗談だろ?」
バーバラは手に錆びた鉈を持っていた。その足元には、いくつかのごみがまとめられていた。
「なるほど、ね。さっきの木の棒は数ある武器の中のひとつにすぎなかったってわけか」
この路地にはごみが散乱している。そのごみ全てが、バーバラにとっては有力な武器になる。
「それを彼が魔法〝無法地帯〟だ」
「ふぅ……。それじゃあ、勇者さまが直々に法を定めてあげよう」
木の棒で石畳を削るような魔法だ。錆びているとはいえ、鉈なんかをまともに受ければ命があるはずがない。いや、魔法なんかなくても命なんて残るはずがない。だからといって鉈を手放させただけでは意味がない。武器はどこにでも落ちているし、しようと思えば鉈を拾いなおすこともできる。
この場合は本人を無力化するしかない――が。
相手は人間だぞ? まさか斬り殺すわけにもいかない。
どうする?
もっとも、そんなことを考えているのは当然、ぼくだけだ。バーバラは凶悪な獲物を振りかぶって、ぼくに迫ってくる。ごぅ、という風切り音と共に、ぼくの目の前を鉈が横切る。寿命が三年は縮まった気分だ。
横に振りきったバーバラは、鉈の重さに耐えきれず、鉈を地面に落とした。両手で柄を辛うじて握り、肩で息をしながらぼくをにらみつける。
もしかして……いや、試すのは危険だな。でもまず間違いない、か。このバーバラという女、自分の魔法の性質を理解していない。最適な戦い方を理解していない。自分の周りに武器を散乱させておくことだけで満足している。
もう一度バーバラが鉈を持ちあげる。ぼくはすかさず、鉈の柄に〈揺光〉の峰を上から抑えるように当てた。木でできた柄のはずなのに、柄を傷つけた感触も音もなかった。硬質的な音が鳴り、むしろ〈揺光〉の方が傷ついてしまったのではないかと心配になる。柄に添えた〈揺光〉を滑らせ、バーバラの手を打つ。鍔のない鉈では、こんな単純な打撃すら防御できない。
刀身で指を強打されたバーバラは、痛みから鉈を離した。さっきまでの重い音はどこへ消えたのか、地面に倒れた鉈は軽い音を立てた。
「くっ」
別の武器を拾おうとするバーバラの動きを、〈揺光〉の刀身を胸の前に差し出すことで制する。今度は峰ではなく刃の方をバーバラに向けた。
「殺すの?」
「あんた次第だよ」
「どうすればいい?」
「両手を頭の上に置いて、ぼくをファランのところに案内してもらおうか。もちろん、あんたが先導してくれよ?」
「それは……」
「できない?」
「できない」
「なら、ここでさよならしなくちゃいけない。ぼくとじゃない。この世界とさよならだ」
「……わたしよりもあなたの方が悪者みたいね」
「だとしても、それは必要悪さ」
「よく言うわ。ついてきなさい」
「ああ。でも、ぼくをだまして変な場所に連れて行こうとしないでくれよ?」
びくり、とバーバラの肩が震えた。
「図星だったのか?」
「まさか。わたしはそこまで強かじゃないわ」
「どうだか」
ともあれ。
バーバラに先導させて、ぼくは路地の奥に足を進めた。臭気はさらに濃くなり、鼻をつまんで歩きたくなるほどだ。ほこりっぽさも増し、呼吸するたびに不快感を覚える。よくもまあ、こんな場所を根城に選んだものだ。ファランという男の気が知れない。
「そういえば、どうしてあんな意味不明なしゃべり方を? ふつうに話せるならそうすればいい」
あまりの不快感に、気を紛らわそうとバーバラに声をかけた。返事を期待していたわけではないが、バーバラは特に反抗するでもなく話しだした。
「ああいう風にしゃべれば、大抵の人は逃げ出すわ。気が狂った相手を見ていると、自分まで狂ってしまうと思うんでしょうね。だからね、鉈まで手を出したのは久しぶりよ」
「ああいう争いはしたくないってこと?」
「まあ、端的に言えばそうね。あの人の周りにはそういうことが絶えないから」バーバラの言った『あの人』には、言い知れない優しさがあった。「だからわたしがそれを最小限に抑えている」
「ならもっと訓練した方がいいんじゃないか? お世辞にも戦い方はうまくない」
「問題ないわよ」
「どうして?」
「言ったわよね? 大抵の人は逃げるって、ね。わたしに勝った相手はわたしを道案内役にするの。ほら、ここってすぐに道に迷いそうでしょ?」
急に嫌な予感が――確信がぼくを襲う。
「わたしが負けるということまで、実は計画の内なの」
ぼくの体に衝撃が走り、目の前に星が散った。頭を殴られたのだと気づいたのは、自分が地面に伏していると辛うじて気づいた時だった。
「戦わずに逃げていれば良かったわね、勇者さん?」
ぼくの意識は、バーバラの皮肉たっぷりの言葉を聞き届けて、暗闇に落ちていった。