第十三話『ふたり』
簡単に自己紹介をした後、ぼくらは握手を交わした。チサは漢字を千紗と書き、ぼくと同じ日本人らしい。バスケ部に所属する中学生で、朝練に向かう途中で召喚されたらしい。
固く握られた手をそっと離して、ぼくらはお互いの顔を見て笑った。本当に久しぶりに触れた人の手は、暖かくて優しかった。
「ぼくは戦績の通り強くはないからさ、もしかしたら君の後ろで震えて隠れてるかもね」
そんなことをするつもりはないけれど、なんとなく恥ずかしくなって照れ隠しに言った。千紗はきょとんと一瞬動作を止めたけれど、すぐに笑いだした。
「はははっ! そうなったらあたしが守ってあげるよ」
「助けられてあげるよ」
「なんて上から目線なんだ……。あ、それで思い出したけどさ」
うん?」
「さっき聖が何回も負けたって言ってた……えっと、フィオだっけ? あれはあたしが倒したよ」
「え?」
丸太でぶん殴られたような衝撃が、ぼくの全身を巡った。
思考が止まる。
喜びからか。
驚きからか。
それとも――
「どうしたの?」
「い、いや……なんていうか、びっくりしてさ」
「大丈夫? なんていうかさ、空っぽな顔してるよ」
空っぽな顔?
何かが抜け落ちてしまったかのような、この脱力感。
そうか。
これは喪失感か。
現金なものだ。憎くて憎くて仕方なくて、いつか絶対にしとめようと思っていたのに。いざそれが他の人の手によって果たされた時、ぼくは喪失感を抱くなんて。
「言っちゃ悪いけどさ、あれに負け続けてるってんなら、やっぱり聖は弱いかもね」
「……言っただろ? ぼくは世界最弱としてこの世界に呼ばれたんだ。強さまで極限まで高め、最強を目指して召喚された千紗とは違う」
ぼくらは対極の存在だ。
「それなんだけどさ、どうして最弱がいいんだろうね?」
人差し指をあごに当てて、首を少し傾げる。
「さあね。それは出発前から何度も考え続けて、いろんな人に聞いてまわったよ」
「どうだった?」
「弱さは強さで、弱いことに意味がある――だって」
その意味はまだわからない。
それはぼくがまだ強くないからだ。ぼくが強くなった時、その意味を知るのだろう。
「ふぅん? あたしには難しくてわかんないや」
「いいよ。これはぼくが考えなくちゃいけないことだ」
それこそ自分で意味を知らなければ意味がない。
「あたしたち、いいコンビになれそうだね」
「そうかい?」
「あたしたちは正反対でさ、デコボコだけど、それを補い合える気がする」
「何を今さら。人は常にそうやって生きてるんだ」
「クサいね。本当にそう思ってる?」
「うーん……さすがに全面的に肯定はできないかな」
「それはまあいいや。これからどうする?」
「どこかで食事にしよう。久々に料理を食べたい」
しかし、千紗はニヤニヤ笑いながらぼくを見つめている。こういう状況でそういう笑みを浮かべられると、どうしても身構えずにはいられない。
「ど、どうかした?」
「いやぁ、本当にご飯でいいの?」
「どういう意味?」
「そのズタボロの服でお店に入っても、もしかしたらつまみだされるかもよ」
言われて、今着ている服を見る。穴があき、裾は、袖は千切れ、ボロ衣に等しいぼくの衣装。もはや文化人の外見ではない。
「わかった?」
「あ、ああ。さすがにね」
外を歩くだけでも視線を集めそうだ。
「聖って日本人なんでしょ? そういう服が好みなの? そういう服はなかったように思うけど」
「この服は、リヴィルって町で買ったんだ」
「聖のセンス?」
「いや、アーシャって娘が選んでくれたんだよ。さすがに制服は目立つらしくってさ」
「なるほどね、じゃああんまり聖はファッションにこだわりはないんだね?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「あたしが買ってきてあげるよ」
とん、と拳を自分のつつましやかな胸に当て、自信満々な笑みを浮かべる。
「え? いや、悪――」
言い終わる前に、千紗は部屋から出て行ってしまった。追いかけようにも、この服では外に出るのははばかられる。ここまで考えて部屋を出て行ったのなら、千紗は策士だ。ぼくでは敵いそうにない。
それにしても、と。
この服の惨状はなんだ。少し前に、次の町に着いたら服を買い替えようかとは思っていたけれど、さすがにここまでの惨状じゃなかったぞ。やっぱり旅をするとなると、服の消耗もひどいわけか。着替えもシャツくらいしかないわけだし。そのシャツも今回の件でダメになってしまったわけだし。
やれやれ、だ。
とりあえず、千紗が戻ってくるまでもうひと眠りするとしよう。
目が覚めた時、まだ千紗は戻っていなかった。どれくらいの時間寝ていたのかがわからないから、まだそれほど経っていないのかもしれない。
「あれ?」
ぼくの荷物のところに置かれていた〈邂逅〉が、白い輝きを放っていた。手にとって、〈邂逅〉を起動する。
『ヒジリさま、調子はどうですか? 困ったことはありませんか? 正直に言いますと、心配です。あの……今日は特にレミアさまからの言伝はないのですが、心配なあまりこうして魔法を使ってしまいました。えっとですね、その……これからもこうしてお話をしてもいいですか?』
白い輝きは青い輝きへと変わる。
「大丈夫です。何も問題はありませんよ」
むしろ、状況は好転しているように思う。
「だから安心してください。ぼくは必ず帰ります。必ず魔の長を倒して会いに行きます」
これは誓いだ。
出発の日から続く、大切な誓いだ。
「それから、レミアさんの言伝なんてなくても、いつでも声を送ってください。ぼくもそうしてくれた方が嬉しいです」
「まるでプロポーズみたいだね」
「え?」
青い輝きがそこで消えた。
今の間抜けな会話――と言えるかは微妙だが――も録音されてしまっただろう。
「ねね、今のはだぁれ?」
買い物袋を両手に持ち、千紗は無邪気な笑顔を振りまいている。
「はあ……。ぼくが王都でお世話になった使用人さんだよ」
「おー! 女の人だよね? なんていう人?」
さすがは女子と言ったところか。こういう話題が大好物らしい。
「名前はまだ知らないことになってる」
「いやいや、意味わかんないんだけど」
「ぼくが魔の長を倒して王都に戻った時、そこで彼女の名前を聞くんだ」
「へえー。なんだか漫画みたいだね。でも、知らないことになってるってことは、もう知ってるんでしょ?」
鋭いところを突いてくる。言動に騙されそうになるが、千紗の頭の回転は早いようだ。
「知ってるけど、知らないことになってる。そうだね、花の名前だったよ」
「そっか。まあ、言いたくないなら仕方ないね。でもいいな、そういうの」
「そう?」
「うん。こっちの世界に来てからはさ、ガッコに通ってた時とは全然違うよ」
遠くを見る千紗の眼は、どこか退屈そうだった。
「そりゃあ世界が違うからね」
「うん。こっちの世界は楽しいよ。不謹慎なのかもしれないけど、漫画の主人公になったみたいでさ」
漫画の主人公のように、か。
そういえばぼくも、何度か自分を物語の主人公と置き換えて考えていたっけ。
「あたしはこっちの世界では負け知らずだしさ、いろんな場所を見て回れる。コンクリの箱の中で勉強するなんていう病的なことをしなくていいんだよ」
「まったくだよ」
「聖はさ、元の世界に戻りたい?」
声の感じが変わった。静かで、真剣な雰囲気が感じられる。
「もちろんだよ。どうして?」
「ううん、特に理由はないんだ。なんとなく聞いてみたかったんだ」
千紗は力なく笑う。
もしかしたら千紗は元の世界にもどらず、この世界で生きていきたいのかもしれない。
「ごめん。ちょっと意味不明だったよね」
千紗は「うん!」と拳を作って、じっとそれを見つめた。
「明日のことなんて、明日考えたらいいんだ。今日は今日のことを考えたらいいんだよね」
「そうだね」
「じゃあ、まずは教の活動のために、聖には早く着替えてもらわないと」
「そうだね。そのあとはおいしいご飯を食べに行こう」
千紗がどう思っているかはわからないけれど、ぼくはこの何でもない会話が楽しかった。




