第十話『交わりつつある糸』
「聖、おい」
なつかしい声。
本当になつかしい声だ。
……どうしてなつかしい?
「どうしたんだ? 賢治」
賢治はにやり、と意味深に笑う。こんなに人がいっぱいいる教室のど真ん中で、そんな笑みを浮かべられるのはきっと賢治くらいだろう。
……教室?
「いやなに、俺も本を一冊読んだんでな。ちょっと聖と小説談義に花を咲かせようと思ったんだ」
「小説談義って言っても、ぼくが読んでない本かもしれないだろ?」
ぼくがいくら読書家であるとはいえ、さすがに出版された全ての本をカバーしているわけではない。ラノベだけに限定しても、毎月数十冊の本が出版されているというのに、その全てを読める道理がない。
「いやいや、そのくらいちゃんと考えてるって」
おもむろに肩にかけていたカバンを漁り始め、すこし悩んだ挙句に取り出したのは一冊の本だった。その本は見覚えのある本で、ぼくも何度となく読んだ本だった。
「『時計塔の下』……」
ぼくが最も好きな小説。
何度となく読み、ページは手あかで黄ばむまで読んだ本。
「そうさ、聖の大好物の『時計塔の下』だ。苦労したぜ?」
「賢治ぃ!」
喜び勇んで賢治の肩を掴む。
賢治は誇らしげな笑みを浮かべている。
しかし――。
次の瞬間には賢治の顔はなかった。
否。
賢治の姿はおろか、さっきまでそこに存在していたあらゆるものが消えていた。
あるのは暗闇。
落ちることも。
進むことも。
戻ることも。
見ることすら叶わない。
暗い空間。
それは全く変化がない。何も変わらない。暗闇はどんどんとその勢力を拡大し、ぼくをも覆い隠した。自分が認識できなくなり、感覚さえも失われ、本当に自分が自分であるのかということすら疑わしくなってくる。
自分ってなんだっけ、などと考え始めていた時、ぼくを白い輝きが襲った。それは一気にぼくを包み込み、ぼくの体をぼくに視認させる。
気がつけばそこは、平原のただ中だった。
ぼうっとする頭を振り、あたりの景色を確認する。徐々に重い頭が軽くなり、さっきまで見ていた光景が夢であることがわかった。
「そりゃそうだよな」
賢治が――いや、ぼくがあの場にいるわけがないのだから。
自分の格好を見てみろ。ぼくが着ているのは学校の制服ではない。この世界の服だ。元いた世界では考えられない機能性を秘めたコートと、シャツ、パンツ。そして最も浮いているのは刀。
もしかしたら元いた世界のみんながぼくを見ても、ぼくを聖だとは思わないかもしれない。
それにしても、どうしてあんな夢を見たのだろう。
「いや夢のひとつやふたつで悩んでちゃいけないな」
気にするのはやめて、朝食にしよう。革袋から木の実と干し肉を出してかじる。噛めば噛むほど味が出てくる干し肉だけど、やっぱり安物を買ったからあまりおいしくはない。この世界の食べ物は目新しいものが多いけれど、おいしい料理を食べたのはササ村が最後だと思う。言っちゃ悪いけれど、イカガカの騎士団の料理はアレだった。
言わぬが華。
聞かぬが華。
知らぬが華だった。
あまりおいしくない料理も慣れてしまうのだけど、慣れたくないのが本音。おいしい料理を食べたいと思うのは当然の欲求だろう。
欲求に身をゆだねて、近くの川を覗き込む。魚か何か、食べられるものがいるかもしれない。
川の水は澄んでいて、小魚や小エビが泳いでいる。ただ、食べてその実感がわくサイズの魚は見つけられない。岩陰に隠れていないかとのぞいてみたけれど、やっぱり見つけられなかった。これも魔の影響だろうか。
おのれ! 魔めぇ!
いや……さすがになんでもかんでも魔のせいにすれば良い、というわけじゃないか。
魚を捕ることを諦めて、街道にそって歩く。人によって作られた道なのに、そこを歩く人はぼく以外にいない。行商が通るかもしれない、という程度だ。
もしかしたら。
けれど、もしかしたら、いつか聞いた『もう一人の勇者』が気になる。
男なのか、女なのか。
どれくらいの年なのか。
どういう人物なのか。
全てがわからない、もう一人の勇者。
その人物もまた、ぼくのように最弱|な《、〉のだろうか。
気になるところだが、いずれ会うことになるだろうから、それまでのお楽しみか。そのお楽しみも、お互いが生き残れていたなら、という制約がついてしまうのだけど。
ま、いずれにしても、ぼくは死ぬわけにはいかない。
「クギュルル」
圧倒的な力を持つ魔も、その力に個体差があるのは人間と同じようだ。
目の前には一体の魔。
小柄で、耳は尖っている。だらりと伸びた手には鋭い爪が煌めき、ぎょろりとした目が気持ち悪い。くすんだ緑色の体をふらふらさせながら、ぼくをにらみつける。
「ギュアッ!」
獣のような雄たけびを上げ、ぼくに襲いかかってくる。魔法は使わない。使えないのかもしれない。
〈揺光〉を抜き、魔を迎え撃つ。
フィオや名もわからない魔と対峙した時のような、あの怖気はない。
恐怖を。
不吉を感じない。
鋭い爪が、ぼくの右肩をかすめた。コートにまた破損部が増えた。
やれやれ、だ。
このコートにも愛着があるのだけど、買い替えることも考えないといけないかもしれない。臨時収入もあったことだし、次の町ですこしのぞいてみよう。
魔は魔法を使わず、近接攻撃を仕掛けてくる。その鋭い爪による、攻撃に次ぐ攻撃。猛攻。そのひとつひとつに対応するのは、正直言って無理だ。ぼくの反応速度なんて、人のそれを超越していない。
相変わらず行動速度が異常に速い魔が、ぼくをその速度でかく乱する。
「速いな」
魔が総じて速いにしても、こいつは別格かもしれない。あの本気になったフィオにも匹敵する速さだ。あのフィオの速度が遅いというわけではないだろう。
目を離せば、すでに視界にはいない。
ただ一点。フィオと違うのは、その行動が読めるということだ。あの魔が次にとる行動が、ある程度予想できる。だからこそ、ぼくはこうしてある程度の余裕を持って戦うことができている。
すれ違いざま――と言っても、相手は視認できていないのだが――に剣を相手がいるだろうという場所に突き出す。その度に、少量ずつではあるが、地面に魔の血が落ちた。ぼくの攻撃が当たっているという実感と共に、それは奇跡に近いことだと感じた。
そもそも、相手の動きが読めているとはいえ、見えない相手に攻撃を仕掛けているのだ。当たるほうがどうかしている。だが、まだ戦える――むしろ、勝てるという確信に似た何かが、ぼくの中にあるのも確かだった。
しかし、相手の行動が読めているというぼくの考えは、次に魔がとった行動によって覆されることになる。
「――――――――ッ」
声にならない声。
声ですらないのかもしれない。
あまりの高音域によって聞こえてこないのか。
魔は空に向かって咆哮した。
「うそ……だろ」
わらわらと、黒い影が四方八方から集結する。近づくにつれ、黒い影は緑の影へと姿を変えてぼくを取り囲んだ。
甘く見ていた。
やはりぼくは、なめていたのだ。
弱いからと。
他の魔よりも力が劣っているからと。
力の劣っているものが、そうでないものに立ち向かうのにもっとも効率的な方法は、徒党を組むことだ。集団となって自分よりも強いものに立ち向かうのだ。
「いやいや……ぼくはそんなに強いないぞ」
視界が緑に染まる。
ぼくの周りを緑の魔が取り囲み、逃すまいと――獲物を狙う獣の目でぼくの動向をうかがう。
まずい、まずいぞこれは。
ミサオは街道を歩いていた。探し人をスダンで待つことを考えていたのだが、自分の性格がそれを許さなかった。ミサオは同じ場所でじっとしていることに耐えきれなくなり(それなりに楽しい町ではあったが)、一路、工業都市イカガカへと歩を進めているのである。
街道沿いに歩いていれば、その探し人も通るはずだと思ったのだ。数日この街道を歩いていたミサオだったが、今のところ、その探し人らしき人物は見かけていない。そもそも人一人見かけていないのだ。
「ふっふーん」
鼻歌交じりに街道を歩く。
「ふっふっふー……ん?」
違和感を覚えて空を見上げる。
そこには無数の魔が、空を埋めていた。
「下級の魔だなあ。でもなぁんか、嫌な予感がするね」
ミサオは魔が飛んでいく方向を見据える。
それは幸か不幸か、ミサオが歩く街道の向こうだった。