第四話『それぞれの立場』
ぼくの目の前にいる人物は、最初はぼくに気づいていないようだったけれど、やがてゆっくりとぼくに向き直った。
「あれ? あれあれあれあられれれれ?」
ぶっ飛んでいる。
そいつが口を開いたん瞬間に、ぼくは直感した。強いとか弱いとかそんなことは関係なく、ぼくはこいつと関わってはいけない。
耳障りな高い声で、二対の翼を持つ赤い魔が、ぼくをなめるような視線で見る。だらりと長い手。顔に目ははなく、大きな口が禍々しい。爪はそれぞれ鋭く尖り、かするだけでも皮膚が裂けそうだ。
「もしかしてもしかして、リズを殺したのは君なのかい? 君なのかい? それともボクなのかい? いや! いやいやいやーいや! リズを殺したのは君さ!」
鋭い人差し指でぼくを指す。
大きく開けられた口から、サメのような歯が自己主張を続ける。ガチガチという歯と歯が当たる音が聞こえそうだ。
「それにしてもしても? どうして君がここにいるんだい? そうだよ! いるわけがないじゃないか! いたら駄目なんだよ!」
会話が成り立たない。
いや、ぼくがしゃべる隙がそもそも存在しない。こいつはコミュニケーション能力というものがそもそもない。
「キュアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
突然の叫び。電動のこぎりで物を切っている時のような甲高い声。それが空気を震わせたかと思うと、魔は坑道の奥に消えた。
「な……なんだったんだ?」
ひとつだけわかっているのは、あいつはイカれているということだ。理解することはとうてい不可能で、その行為そのものがそもそも不毛だ。
「あいつとも戦わなくちゃいけないんだよな」
ここの魔を討伐するという依頼なのだから、当然、あのイカれた魔とも戦わなければいけない。
ともあれ、今は奥に進むしかない。あの魔の行動は不可解で気がかりだけれど、発言にも意味が感じられないから、きっと行動もそうなのだろう。そう思うことにしよう。
改めて坑道を進む。景色に変化は訪れてこない。暗くて狭いこの場所で、さらに景色に変化がない。気が狂いそうな空間を一人で歩くというのは、なかなかどうして苦しい。こういう時には素直に仲間が欲しいと思う。普段の生活ではあまり思わないけれど――人間ってすごく勝手だな。
しばらく坑道を歩いていると、前方から物音がした。石が転がっているような音だったけれど、それが何によって引き起こされたものかはわからない。ひとりでに落ちたのかもしれないし、誰かがそこにいたのかもしれない。前者なら良いが、後者ならそこにいるのは魔だ。
〈揺光〉を握りなおし、慎重に進む。
「誰ですか?」
奥から、若い男の声が聞こえた。声には答えず、その姿が確認できるところまで進む。声の主はやはり魔だった。しかし外見には人間のような雰囲気があり、今まで見てきた魔とは対峙した時の印象が全く違う。
「誰ですか?」
「聖という、何の変哲もない魔力を持たない人間ですよ」
あまりに魔が丁寧に対応してきたため、ぼくも思わず人と対するように対応した。魔は「魔力を持たない時点で変哲はあると思いますがね」と苦笑した。動作がやけに人間くさい。
「私はブリューナと申します。〈吹き荒ぶブリューナ〉です。まあ、私のことはともかく、リンネが死んでしまったようですが、あなたの仕業ですか? ヒジリ」
「リンネ?」
さっき会った魔はリズだとか言っていたような気がするのだが。
「入口付近でダラダラしていた私の同胞ですよ。せっかく二人でここに来たっていうのに、あれじゃああんまり意味ないですよね。そうは思いませんか?」
「よくわからないけど……そうじゃないですか? というか、二人でって、この廃坑には二人しかあなた……ブリューナの同胞はいないんですか?」
「あのねぇ……どう見ても私たちを狩りに来ているあなたに、正確な人数を教えると思いますか? まあ、リンネは死に、本当に一人になった私にはそれも意味のないプライドですが」
うぅむ……いろいろとつじつまが合わないな。これはお互いの為につじつま合わせをしなければいけないと思う。
「三人、じゃないんですか?」
「どういう意味ですか?」
本当にわからないようで、ブリューナは怪訝そうに首をかしげた。そうか。外見はほとんど魔なのに、どこか人間のように感じるのは、このブリューナの感情表現の仕方が人に近いからか。
声やしぐさが、人のようだ。
「さっき魔――人があなたたちを呼ぶ時にそう呼んでいるんですが、あなたとリンネ以外の魔に会ったんですよ。赤い魔で、羽が生えていました。狂ったように会話が成り立たなくて……その魔がぼくに言ったんですよ。リズを殺したのはお前かって。ぼくはてっきりそのリズが、あなたの言うリンネのことかと」
『魔』という単語に眉をひそめながらも、ブリューナは口を出さなかった。聞き終えると、ブリューナは悩ましげにため息をついた。
「ああ……そういえば私たち以外の魔力も感じましたね。本当に少しの間ですが。少なくとも、今はこの廃坑の中にはいませんね」
敵の言うこと、素直に信用してもいいものか微妙なところだが、今までの会話から考えれば本当のことなのだろう。
否。
信じるのは十%程度でいい。話半分にも信じなくていい。個人的には信じたいところだけど、過去から学習しないのはよろしくない。
「さて――」
ブリューナが仕切り直しとばかりにぼくを見据える。さっきまでの柔らかな雰囲気は影をひそめ、剣呑な目でぼくを見ている。
「――あなたはここに私たち……私を狩りに来ているようですが、どうです? 考え直してもらえませんか?」
「…………」
「私たちもね、何も全員が人を襲うわけではないのですよ? あなた方の中に戦える人とそうでない人がいるように、私たちにも戦闘向きの者とそうでない者がいるのです。人に襲いかかることを良しとしない者もいるくらいです」
「でも、襲われている事実は変わりませんよ」
良しとしない人がいても、人の脅威になり続けているという事実は変わらない。魔に存在するななんてことは言えないけれど、それはあくまで、共存できる関係ならばの話だ。
「勝手な話ですね。あなたが魔と呼ぶ私たちも、人を愛することもあるというのに」
――っ!
いや、動揺するな。
「適当なこと、言ってます?」
「まさか――」ブリューナは肩をすくめた。「――私たちを狩ろうとしているあなたなら知っているでしょう? 我らが長、ゼノ。彼にはハーフの御息女がおられる」
「ハー……フ?」
「知らないわけがないでしょう? あなたが女王と呼ぶあのお方、あのお方こそ、ゼノさまの御息女であり、私たちと人とのハーフです。もっとも、あのお方は人間であることを選んだようですが」
人であることを――選んだ。
「ゼノは……父親は止めなかったのか」
「まさか。レミアさまもいずれお分かりになるでしょう。彼女はまだ、知らないことがあるのです。いずれ知る時が来る――その時、はたして人の側で生きることを選ぶでしょうかね?」
「どういう……」
「まあ、そうですね。彼女の母さま、つまりゼノさまの奥さまは今、どこにおられるのでしょうね?」
「……」
ハーフであるということは、人間の母親がいるはず。レミアさんの年齢はわからないが、外見だけで判断するなら、まだ四十に届いていないだろう。寿命で亡くなった? あまり現実的ではないように思う。ゼノもその母親のことも知らない――何も知らないぼくには、考えが及ぶはずもない。
「あなたにはあまり関係のない話でしたね。関係のある話をしましょう。私と戦いますか? 戦わずに済むなら、あなたも私も生き残ります」
「イカガカ――この廃坑のもとの持ち主の町の人は?」
「さあ? たとえ私が町に赴かずとも他の誰かが、ね?」
「悪いですが……ぼくが戦わなくても、他の誰かが来ます。ここから離れる気がないならば、戦うことは必至ですよ。もしそうなるならば、あなたはぼくが倒したい」
「ふむ……」
ブリューナが思案顔で腕を組む。
「仕方ありませんね。私はこちらの都合によってここから離れませんので、ヒジリ、あなたと戦わせてもらいましょうか」
「残念ですよ」
本当に、残念だ。
もしかしたらぼくは、このブリューナにある種の共感を覚えていたのかもしれない。初めてまともな対話をした魔。
「さて、戦いには準備が必要です」
ブリューナが右腕を広げる。手の周りで黄色い光が発せられたかと思うと、それは徐々に細長い棒のような形に姿を変えていく。まだ形ははっきりとしないが、長さはブリューナの身長よりも長い。ブリューナも長身だから、二メートルくらいはありそうだ。
光が徐々に形を固定し始める。
「この子はなんていう名前なんでしょうね? 無口だから教えてくれないんですよ」
「へ……へぇ」
ブリューナは槍を構え、切っ先をぼくに向けた。
「では、正々堂々と始めましょう」