第三話『現実を見たら』
最悪の事態だ。
ぼくの何が悪くて異世界召喚なんてされなくちゃいけないんだ。挙句、命をかけて見ず知らずの世界を助けることになるなんて……。
帰りたい。
今すぐ帰りたい。
そりゃまあ、楽しいだけの生活じゃなかったけどさ。それなりに充実してたんだって、今になって――その生活ができなくなった今になって思うわけさ。死の恐怖っていうの? 元の生活に戻れないなら、元の世界においてぼくは死ぬわけだ。この世界にいても、相応の――それ以上の力を持っていないと生き残れない。
……今すぐ逃げ出したいよ。
名も知らない町を歩く。城があるのだから、城下町と呼ぶべきか。石畳の、きれいに整備された道に、やはり石造りの建物が並ぶ。道をゆく人々は、見慣れない格好(学校指定のカッターとズボン)をしたぼくに不思議そうな視線を向けている。
盾と剣は城に置いてきた。町を歩くのに武装は必要ないと思ったのだ。重くて荷物にもなる。銀貨三枚だけを手に、城下町を歩く。
「銀貨三枚、ねえ」
露店に売られている商品は、銅貨二十枚のものから、銅貨四百枚のものまで、それ以上の品も並んでいる。こう見て見れば、たしかに銀貨三枚は大金なのだろうと思う。ぼくには貨幣価値がわからないから、銀貨一枚が銅貨何枚の価値を持つのかがわからない。
わからないけれど。
「魔を討伐するために呼んだんだよな?」
安売りの剣と王家の紋が施された盾、そして銀貨三枚。前払い、と考えれば破格の待遇なのだろうか? いや、世界を救おうとしている人物に対してそれはないだろう。少しばかり疑わしくなってくる。
以下回想。
「そんな絶望的な顔をしないでください。ヒジリ、貴方は我々の希望なのですから」
レミアさんは言う。
「我々は貴方に戦っていただくしか道がないのです。もちろん、この国の民を危険にさらすわけにはならないというのもありますが、それは決して保身のためだけではないのです」
それがぼくにはわからない。
「貴方と違って、この国の民には勝てない理由があるのです」
勝てない理由?
ぼくに勝てて、ぼくよりも強いはずのこの世界の住人が勝てない理由。
「でも……」
レミアさんは確かに言ったんだ。
「ぼくって世界最弱なんですよね?」
たとえ剣と盾を装備しても、ぼくはこの世界の人たちには勝てない。誰よりも弱い。
「なんでぼくを召喚したんですか? なにも世界最弱を呼びださなくてもいいじゃないですか」
このままでは、ぼくは犬死するしか道がない。ぼくは死にたくないし、なにより、元の世界に帰りたい。
「いいですか? 自分たちで太刀打ちできるのなら、我々が戦います。しかし、それができないのです」
深刻そうに頬杖をついた。
「先ほど貴方は、その装備に力や謂われがあるのか、と問われましたが、そんなものがあるのなら自分たちで使います」
たしかにそうだよな。なにもぼくのようなド素人に任せる必要はない。きちんと訓練をし、場数を踏んだ戦士に持たせればいいのだから。
レミアさんはここで初めて、言葉を選ぶように目を伏せた。
「これだけは覚えていてください。貴方は……呼び出されたら最弱だったのではなく、最弱だからこそ呼ばれたのです」
決して、ミスではないのです。
レミアさんは続けた。
「しばらくは町を散策していてください。その間に貴方のお部屋の準備をさせておきます」
そこで謁見は終了し、半ば無理矢理、ぼくは町に放り出されたのだ。
回想終了。
最弱だからこそ、か。よくわからない。この世界はある程度の魔力を有しているらしい。ならばそれで対抗できそうなものなのに。
――魔はまるで世界から愛されているかのごとく圧倒的な力を持ち、圧倒的な破壊力で持って我々を襲います。
レミアさんの言葉が脳裏をよぎる。
考えてみれば、これはなんていう戦力図だ。そんな圧倒的戦力差を持つ魔に対し、どうやって世界最弱が勝利するんだよ。これじゃあ、まるでバグだ。倒せるはずの敵の体力が、いつまでたっても零にならないバグだ。管理者には早く修正パッチを当ててもらいたい。
「馬鹿なこと言ってる場合じゃないよな」
これはぼくの命に直結する問題だ。いくら現実感がないとはいえ、実感がわかないとはいえ、事実は事実なのだから。
ため息をついてみても、事態は好転しない。明晰夢かもしれないと思って目覚めるように念じても、意識は覚醒しない。ぼくが置かれている現状は、どうしようもないほどに現実だ。
泣けてくるほどに。
石畳の道はどこか西洋じみていて、なんとなく懐かしいような気分にとらわれるけれど、完全に東洋人のぼくにはあまり効果はなかった。和風な造りなら良かったのに。
魔に脅かされているとは聞いていたけれど、町の様子は思ったよりも明るい。今のところ、まだそこまで切迫した状態ではないということか。それとも、ただの空元気なのだろうか。
鎧を身にまとい、腰に剣を刺した数人の人たちが通り過ぎて行った。その姿はやけに堂々としていて、自分たちに自信を持っていることがうかがえる。
「マール騎士団だ」
一団が通り過ぎた後、周りにいる人たちがざわめき始めた。
「遠征から帰っていたのね」
町の人たちの声は喜びに満ちていた。
「あの……マール騎士団ってなんですか?」
と、聞けばわかるのだろうが、そんなことを聞ける雰囲気ではない。周囲にいた人たちは、早足に方々に散った。残ったのは、露店の人とぼくだけだ。いや、店の人ですら、閉店の準備をしている。
「なんなんだ?」
ぽつん、と。
一人だけになる。露店にはただ布がかけられただけで、盗みへの対策は全くなされていない。不用心だなと思いつつ、ぼくは露店が多く並んでいるこの通りを後にした。
城に戻ると、ぼくの部屋はちゃんと用意されていた。召使いと思われる女性に案内されたのは、一人で過ごすには広すぎる部屋だった。
ダブルサイズのベッドに、八人がけのソファ、大きなテーブルと比較的控えめなサイズの机。広い。
とにかく規格外だ。
これが……王族。
「夕食は城内の者はそろって食べるという規則がありますから、恐れ入りますがご同伴ください。私は部屋の前で待機しておりますから、御用がありましたら遠慮なくお申し付けください。では、ごゆっくり」
丁寧に礼をして、女性は部屋を出た。
……なんだ、この対応は。謁見した時とは全く違うぞ。裏があるのか? 命を張る以上の裏があるのか? まさか金を払えなんて言うのか?
ダメだ。人を疑うなんてダメだ。
それにしても。
部屋を見回す。今まで『普通』であることに努めてきたぼくにとって、この何もかもが『普通』からかけ離れたこの部屋は、異常としか言いようがない。規格外もいいところだ。
「お、落ち着かない……」
妙にソワソワしてしまう。これでは休む以前の問題だぞ。しかし、準備してもらったのに部屋を変えてもらうのも申し訳ない。いや、そもそも、どの部屋もこんな感じなのだろう。
「あっ!」
カバン! ぼくが通学に使っているはずのカバンがない。あれには本と財布、携帯電話が入っている。無くなってしまってはとてつもなくマズイ。
エヤスさんにそれらしいものを見ていないか、聞いてみないと。
部屋を出ると、さっきの女性が立っていた。
「どうかなされましたか?」
「あ、あの……カバンをですね」
「は? ……ああ、エヤスさまが何か仰っていましたね。ご案内します」
「お願いします」
エヤスさんは一人、大量の書物に埋もれていた。床にも机にも、高くそびえる本の塔。ぼくがいつか夢見た部屋がそこにはあった。
「エヤスさま。ヒジリさまが御用のようです」
「私はこのまま失礼します。申し訳ありませんが、手早くお願いします」
本当に忙しそうだ。
「あの、ぼくのカバンを見ていませんか?」
「カバン? ああ、そうでしたね。申し訳ありません」
エヤスさんは立ち上がると、やはり本で閉ざされてしまった戸を半ば無理矢理開けた。なんでだろう。少しショックだった。
「これでございますね」
「はい。ありがとうございます」
「いえいえ、礼には及びませんよ」
エヤスさんはまた本の山の中に消えた。
「それじゃあ、失礼します」
「はい。ごゆっくりと」
またあの規格外の部屋に戻る。カバンの中身はちゃんと全部そろっていた。置き本にしていて、持って帰ろうとしていた『黒い果実』もちゃんと入っているし、携帯も財布もちゃんとある。
あ。
当然のことだが、携帯は圏外だった。
「……はあ」
急に寂しさに襲われる。
誰も、何も知らない世界。土地ですらない。世界そのもの。
一人なんだよな。
これから、大切と思えるような人にも出会うことになるのだろうか?
守りたいものや、信頼できる人ができるのだろうか?
命をかけるに足りるだけの存在が、ぼくの前に現れるのだろうか?
「うぐっ……」
泣いてなんていない。
これは……。
これは…………。