第二話『学生改め世界最弱』
あれ?
そう思った時には、既に、ぼくの体は落下を始めていた。上も下も、横だってわからない暗闇を、今まで体験したことがない速度で落ちていく。
――――――っ!
落ちているという感覚さえ麻痺しようとし始めた頃、ぼくの体は落下をやめた。不思議と衝撃はなく、まるで初めから落下なんてしていなかったかのように、ぼくは「地」に座っていた。
何が起きたのかさっぱりわからない。
まず目に入ったのは、木。
木。
見回してみても、見えるのは木だけだ。知っているぞ。こういうのを森っていうんだ。
「……どこだよ、ここ」
あまりに暗いと思って空を見上げると、空には黒雲が立ち込めていて、今にも化物がその黒雲の間から現れそうだ。周囲は木々が生い茂り、ぼくが立っているこの場だけが石で造られたステージのような場所だ。誰かが手入れをしているのか草一本生えていない。
ぼくが立っている石のステージには、何やら不気味な紋が描かれている。赤と黒で線が引かれていて、なんとなく魔術めいたものを感じる。
「おや、成功したようですね」
突然声が聞こえ、ぼくは情けなくも腰を抜かしてしまった。
「だだだだだ、誰だよっ!」
木の間から姿の現したのは、一人の老人だった。
「おや、申し訳ない。私はエヤスと申します。ご無礼ながら、貴方様をこちらに呼びだしたものでございます」
慇懃に礼をするこの男はどう見ても老人なのだが、棒を据えているかのようにシャキッとした背筋と落ち着いた声色は、そのような外見とは似つかわしくない。服の上からでもわかる、鍛えられた体。エヤスと名乗るこの老人、只者ではなさそうだ。
「呼び出した……?」
聞き逃せない単語に聞き返す。
「はい。今、この世界は魔の温床でございます。跳梁跋扈とはこのような有様をさすのでございましょう。それほどまでに、この世界は魔に侵されているのでございます」
深刻そうにそういうエヤスさんは、言っている意味が全く分からないものの、とても困っているように見える。本当に言っている意味はわからないけれど。
わからなさ過ぎて困る。
ぼくを置いてきぼりにしないでほしい。超展開もいいところだ。なに? 呼び出した? この礼儀正しい紳士の鑑とも言うべき老人が、一体何を言っているんだ。
「で、その話とぼく、一体どのように結び付くのですか?」
一応、冷静を装って聞き返す。異世界に呼び出されたなんて、そんなこと信じられるはずがない。ここは夢の中に違いない。絶対そうだ。だからこの見知らぬこの場所も、きっと何かの間違いだ。木に顔があるとか、鳥がやたらでかくてグロテスクだとか、きっと気のせいだ。
だって、夢だもの。
ぼくは朝起きてから家に帰るまで、そしてここに呼び出されるという壮大な夢を見ているに違いない。
「それは城に向かう道中にて」
エヤスさんはまた慇懃な礼をした。
「城、ですか?」
「はい。私、この大陸を統べる女王、レミア様にお仕えしております」
女王?
大陸?
は?
まあ、夢なんだからぼくの理解を超えていても、全く不思議じゃないよな。
「はあ……で、その……ぼくは一体全体、どういう理由でここに呼ばれたのですか?」
「それはレミア様から直々に」
エヤスさんはそう言ってぼくに話してくれず、結局、ぼくは今王座の前に立っている。
豪華絢爛を絵に描いたような豪奢な謁見の間。その最奥、これまた美麗なドレスを身にまとった妙齢の女性が、仰々しい王座に腰かけている。にこやかな笑みは威圧感がなく、本当に女王なのかと疑いたくなるほど、近い存在に感じられる。
夢にしてはやけにリアルな親近感を覚えた。
「貴方、お名前は?」
静かで上品な声。
「え……あの、その……聖、です」
とはいえ、どれだけ近い存在に感じられても目の前に座っているのは女王。緊張しないはずがない。たとえ夢の中であっても、だ。
「ヒジリですか。私はこの国を統べております、レミアでございます。よろしくお願いしますね?」
「は、はあ。こ、こちらこそ」
正直に言ってしまうと、ぼくはあまりよろしくせず、そうそうに家に帰りたいのだ。というか、夢から覚めたい。夢でストレスを感じるなんて、眠っていることに意味を感じないじゃないか。
「申し訳ありませんが、まずは貴方の勘違いを正させていただきますとですね、今、貴方が見ているものは夢ではございません」
「え?」
「ああ、突然で驚きましたよね? すいません。私は人の心を読むことができるのです」
とんでもないことを口走るレミアさん。
しかも、え? 夢じゃないうえに、人の心が見える?
「突然の召喚で申し訳ないのですが、早速本題に。こちらにも緊急を要する事情があるのです――」
深刻な面持ちでレミアさんは語り始めた。
「――と言いますのも、今までは日陰で暮らしていた魔が今、日向の舞台に立とうと勢力を拡大しているのです」
それは知っている。エヤスさんもそんなことを言っていた。でも、ぼくが知りたいのはこの世界の事情ではなく、ぼくの身の安全と保障と帰宅の可否だ。夢じゃないと聞かされた今、真偽はどうあれ、そこだけははっきりとさせておきたい。
零じゃない可能性は、見過ごせない。
「そこで我々は我らが王家に伝わる秘術を用い、異世界から勇者としての資格があるであろう人物を召喚したのでございます。それがヒジリ――――貴方です」
ビシ、と指さすようなぶしつけなことはしなかったけれど。レミアさんの言葉は完全にぼくを指さしていた。
「い、いや、ぼくはただの学生……」
「私たちの希望の星。我々に希望の光がさしたのです」
…………。
人の話、聞いてない。
人の心が読めるくせに、全く人の言いたいことを汲みとろうとしないなんて……。
「ですから、私たちは貴方に、魔の長の討伐をお願いしたいのでございます」
討伐?
「引き受けてくれますね?」
期待と希望に満ちあふれた瞳。そんな目で見つめられては、ぼくもうなずきたくなってしまう。
レミアさんの力になりたいと思ってしまう。
「ぼくは、家に帰りたいです。元の世界に戻りたいです」
命がけの斬った張ったなど、ぼくには似合わない。この世界の事なんてどうとでもなれ、なんて冷血なことは思っていないけれど、自分の命も大切だ。
「魔を討伐しましたら、私たちが責任を持って命がけで元の世界に送り届けます」
「ぼくは今すぐ帰りたいんだ!」
レミアさんは悲しげにまぶたを伏せ、今にも泣きそうな、震える声で、
「貴方が最後の希望なのです。貴方を召喚するために、こちらは失敗を繰り返し、すでに二十人の命を失いました」
と言った。そして、キッと顔を上げて、
「貴方が最後の、最後の希望なのです!」
と、魂を揺さぶるかの如く力強い声で言ったのだ。
「……ぼくが勝つ見込みはあるんですか?」
たとえぼくがここでうなずいたとしよう。勝つ見込みがないのに戦っても、それはただの負け戦。犬死でしかない。そんなのは戦いですらないんだ。
レミアさんはすっと目を伏せ、ゆっくりとぼくを見据えた。
「はい」
どうしてだろう。
その一言で、ぼくは全てを信じる気になれたんだ。
「ヒジリ、貴方にこれを……」
ぼくの前に届いたのは、銀色の輝く剣と鉄製の小型の盾、そして銀貨が三枚。
「えっと……銀貨三枚って、一般庶民の生活ではどれくらいの期間生活できますか?」
ぼくにはこの銀貨の価値が全く分からない。もしかしたら、装備は貧弱だけどこの銀貨はすごい価値を持っており、それで自分に合った装備を見つけて来いということなのかもしれない。もしくは、かなりの大金だったりするのかもしれない。
「えっと……エヤス、どれくらいですか?」
「一人暮らしで節制をすれば、一カ月程度は過ごせますでしょう」
何でもなさそうに、エヤスさんは言った。
「ぶふぅっ!」
思わず吹き出してしまう。
「なにか?」
きょとんとした表情のレミアさん。
「あの……ぼくって、魔を、しかも長を討伐するんですよね?」
「はい」
「たとえばこの剣って、何かしらのいわれがあったりとか……」
「しません。一般的な剣です。安売りをしていましたので」
安売り……? 王家なのに変なところで庶民的だ。
「実はこの盾には秘められた力が……」
「ありません。ただ、王家の紋が施されています」
「あの……たとえば何かしらの魔法的なもので、ぼくを強化してくれるとか……」
「ありません」
そこでレミアさんは初めて、ぼくに飽きれたような顔を見せた。実際、ものすごく嫌そうな顔で溜息をついたのだ。
「何なのですか? そんなわけないじゃないですか。貴方は我らの希望の星。ですが、残念ながら、それらを装備しても私たちよりも弱い」
「は?」
「なんで驚いているのですか? 魔力を持たない脆弱な人間が、我々よりも強いはずがないではありませんか。それに、その装備に魔力付与なんてしていれば、貴方の身が持ちませんよ」
あっけらかんと言ってのけるが、ならなんでぼくを呼びだしたのだ。そんな弱い奴なんて、ただの役立たずじゃないか。
魔の長を討伐するような人材には、到底思えない。
「我が国の民を危険に晒すわけにはいきません。犠牲になった二十人も、囚人なのです」
愕然とするとは、まさにこのことか。空いた口は閉じられないし、思考もストップしているようにさえ思う。
絶望的だ。
致命的だ。
「何せ、魔はまるで世界から愛されているかのごとく圧倒的な力を持ち、圧倒的な破壊力で持って我々を襲います」
すごく泣きたくなってきた。レミアさん……ぼくのこの泣きたい気持ちも読めているんだから、少しくらい遠慮ってものを……。なんでそんなぶっ壊れた性能の奴と戦わせようとするんだ。
「貴方はいわば人類……いえ、世界最弱。でも――」
レミアさんはそこで言葉を切り、優しい、慈愛に満ちた笑みを見せた。
その笑みにぼくは救われたような気になった。きっと、ぼくに何らかの力添えをしてくれる。そう確信できる笑みだったからだ。
「――勇者さまなら、我々の希望の星である貴方なら、その程度の苦境なんてはねのけてしまいますよね?」
もう一度見せた優しい笑み。
それがぼくには、悪魔の嘲笑に思えた。
この日。
ぼくは一回の高校生から、世界最弱に転職した。
西暦二○○五年、十月、ぼくが十六歳の日の出来事である。
手抜きっぽい?
いえ、そんなことはありません。




