第十八話『第二回戦』
「いつか――痛い目に遭うぞ」
「――――っ!」
言葉がつまる。反論も何も出てこない。何がどうなったわけではないのだけれど――状況がどう変わったわけではないけれど、ぼくはこの時、レアンさんに敗北したのだ。
完敗だ。
「ほれ、うつ伏せになれ。縄を切ってやる」
「……それは信じてもいいんですか?」
「『ああ』」
「『本当に?』」
「くくく……上出来だ。本当に切ってやるから、うつ伏せになれ。今度聞き返したら切ってやらん」
ここまでくると、ぼくもそれを嘘だと思うことを止めた。これが嘘なら、もう嘘でもいいと思ったのだ。それと同時に、やっぱり、信じたいと思った。
ごろん、とうつ伏せになる。すぐに背中に何かが触れる感触があり、それがイアンさんの手だと気付く。手首に圧力がかかり、縄が食い込んでくる。数瞬の痛みのあと、腕が解き放たれた。
拘束から解かれた手首をさすり、上体を起こす。さっきベッドから落ちたからか、体の節々が痛む。
「ふん、腕を解放した途端に殴りかかってくると思ったがな」
愉快そうにイアンさんが言う。
「くくく、まあ、これからは騙されないようにするんだな。あんまり騙され続けていると、死んじまうぞ」
コツコツと、足音が遠ざかっていく。音が聞こえなくなり、この小屋にいるのはぼくだけとなった後も、ぼくは動くことができなかった。本当は今すぐ動き出して、足の縄を切り、彼らを追えばよかったのかもしれない。
きっと、そうなのだろう。
それでも、ぼくの体は動くことを拒否した。いや……ぼく自身が、動く気力を無くしていた。イアンさんに感じた敗北感、それはとても大きいものだったし、最後の言葉も重いものだった。
彼は……彼は本当に――ただの盗賊だったのだろうか?
ぼくにはそれがわからない。ぼくが旅をするように、彼は盗むと言っていたけれど、本当にそうだというのなら、彼は――盗むことを良しとはしていないのだろう。ぼくがこうしてなりゆきで旅をしているように、彼もなりゆきで盗みをしているのだろう。もし本当にそうだとしたら、彼はどうして盗みの道を歩んでいるのだろう……。
その場を動けないまま、夜が明けた。小さな窓から入ってくる陽の光が、ぼくの意識を覚醒させる。ほとんどのお金が奪われてしまった財布は、どうしようもなく小さく感じる。バッグは荒らされておらず、お金を抜きとった後はもとに戻したようだ。
「どこまで律儀なんだ」
調子が狂う。悪人なら、悪人を徹底すればいいのに。そうすれば、ぼくは彼らを憎むことができるというのに。バッグからナイフを取り出し、足にまかれた縄を切る。
――この剣と盾が泣くぞ。
どうしろって言うんだ。
森を抜けたのは、翌日になってからだった。
そこからは木々は少なくなり、岩肌が目立ち始めた。工業都市の森林伐採の影響だろうか?
肝心の工業都市の姿はまだ見えない。もうひとつくらい、山を越えなければいけないかもしれない。そう思うと、自然と足も重くなってしまう。ヤンさんからもらった木の実をかじりながら、殺風景な道を歩く。日の光は何かにさえぎられることなくぼくに注がれ、気温は低いのだけどほんのりと暖かく感じた。
川に沿って歩く。透き通った水は、荒んだぼくの気持を安らがせてくれる。岩肌が目立つ場所だけど、水があって助かった。保存食は基本的に乾燥しているから、水分が恋しくなる。左手には大きな岩山があり、ここが日本なら『落石注意』の看板が立っていることだろう。
それにしても。
それにしても、だ。
この妙な感覚はなんだろう。背中に視線を感じる。夜中、暗い道を歩いている時のような感覚だ。後ろに誰かいそうだけれど、誰もいないというあの感覚。
ジャリ……
後ろから、そんな音がした――ような気がした。その音が本当に起きた音なのか、ただの空耳なのかはわからない。振り向けばいいのだろうが、それはもうすこし見極めてからでいいだろう。
もし――
後ろに何かがいたとしたら、ぼくが振り向くということは、何かが起きる瞬間だ。襲われるかもしれないし、隠れるかもしれない。逃げるかもしれない。どういう反応をするかはわからないけれど、下手に振り向くべきではないだろう。
「うわあ……ついてない、かも」
妙な感覚という程度の認識だったそれは、どんどんと不吉なそれに変わっていった。これに似た感覚は、前にも一度だけ味わったことがある。ただ、ぼくとしてはその事実から目を背けたいところだ。今回のこれは、あの時のそれとはその感覚の圧力が圧倒的に違う。今回のそれは、前回のそれよりも弱い。不吉さがまろやかだ。
不吉は不吉で、不吉以外の何物でもないけれど。
しかしこの不吉が、ぼくの感じている通りのそれならば、このまま振り返らなかったとしても、結局同じことになるんじゃないだろうか。振り返れば戦い、振り返らずとも戦う。それは決定事項であって、ぼくでは決して覆すことはできない。
「よし……やるか」
立ち止まる。すると、後ろの足音も止まった――――なんていうことはなく、同じペースでぼくに近づいてくる。腰に差した剣に手をかけ、後ろに振り返った。
「くひっ?」
後ろに立っていたのは、やはり『不吉』だった。身長はぼくと同じくらいで、灰色の肌。体の関節部には大きなとげのようなものが生えている。そして何より目を引くのは、顔だ。輪郭は人に近いそれだが、口は異様に大きい。口裂け女の正体がこれだと言われたら、ぼくは即座に信用するだろう。体全体も、とげがあることを除けば、ほぼ人と同じだ。
「魔――か。今回は目もある」
前回は相手の目が見えないことで助かった。どういう理由からか、相手はぼくの位置を特定できなかったのだ。では第二戦――今度は目の見える魔だ。前回のような不意打ちは通用しまい。それ以前に、すでにぼくの存在は相手に認知されてしまっている。
「くひっ、くひひっ! てめぇ魔力がねぇのかよ、くひひひひ! とんだ半端者だなぁ」
猫背のそいつは、気持ちの悪い笑みを浮かべながらぼくを指差す。
「くひひ……魔力の無い人間っておいしいのかねぇ? 初めてだからわからんなぁ。ああ、でも食べたらわかるかぁ」
完全にぼくを馬鹿にしている。まるで蟻の巣に水を流し込む子供のような全能感に似た雰囲気が、あの魔からは漂っている。
魔が子供で――ぼくが蟻だ。
本来なら太刀打ちもできず、一矢報いることすらできず、一方的に蹂躙されて終わりだろう。現状、相手と渡り合うための策は何一つないのだから。
「いいさ、食べてみろよ」
「くひっ! その剣は飾りか?」
ケタケタと魔が笑う。
「食べてみろよ、お前が世界最弱じゃなかったらな」