夏のある日、橋のそばで
ある夏の日の早朝。
蝉時雨を抜けてきた少女は、橋のたもとで立ち止まる。
川べりへ降りて行った少女が見つめているのは、季節外れの小さな野の花。
しゃがみ込んでその小さな花弁に触れると、彼女は淡い笑みを浮かべた。
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川沿いの歩道をジョギングするのが、矢橋啓嗣の日課である。
その日もいつもの通過地点である橋の近くを走っていた。そこで、いつもは見かけない――だがよく見知った――姿に遭遇した。何の表情も見えない横顔に声を掛ける。
川べりで体育座りをしていた少女は、矢橋の声に振り向くと素早く立ち上がり、深々と頭を下げた。
「おはようございます、矢橋先輩。今日も朝早くから迸るエネルギーを持て余して、走り出さずにはいられなかったのですね、分かります」
「何も分かっちゃいないだろ、上代」
矢橋の高校の後輩――上代月子は、ニコリともせずに矢橋を見上げてくる。
純和風美少女と評されるその容姿に、この少女はいつも独特の空気を纏っている。それは良く言えば神秘的な、悪く言ってしまえば近寄りがたい雰囲気だ。矢橋は上代のことを、密かに『日本人形』と呼んでいた。
「お前はこんなところで何をしている」
「先輩は、――――という男性をご存じ無いですか?」
「質問してるのはこっちだろ。……ちなみにそんな奴はご存じ無いな」
「そうですか。足止めしてしまって申し訳ありません。どうぞ青春エネルギーの発散を続けてきてください」
青春エネルギーって何だよ。という矢橋の呟きは無視し、月子は言いたいことを言うだけ言って、また元の体勢――体育座りに戻ってしまった。
よく見ると月子の指先は、足下に咲いている小さな花を弄っている。
矢橋は月子を気にしつつも、この少女に一度打ち切った会話を再開させる気が無いことを悟ると、肩をすくめてその場を離れた。
次の日も、その次の日も、矢橋が通りかかると、月子は同じようにその場所に居た。
ただ、その表情には、日に日に少しずつ翳りが見えるようだった。
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「待っているのです」と彼女は言った。
「何年も前に、ここで別れた人を。また会おうと、約束した人を」
彼と彼女は、幼いころからずっと一緒に居た。
――ありがちですけど、「大きくなったら結婚しようね」なんて約束もしていたんですよ。その頃からずーっと、「彼のお嫁さん」が、わたしの夢だったんです。
この河原で、よく遊んだ。春は野の花で冠を作り、夏は水遊びをし、秋は木の実や落ち葉を探して、冬には雪合戦をしたこともあった。
――思えば、あの頃が一番幸せだったかも知れませんね。二人一緒の未来に何の疑いも持ってなくて、無邪気でした。
その後、二人の歩む道は分かれることになる。彼が引っ越すことになったのだ。橋の向こう側の街へと。
二人は橋のそばで別れた。いつか必ず、またこの場所で会おうと約束をして。
何度も何度も振り返る彼に、彼女も何度も手を振った。
その時、実は彼女はそれほど悲しいとは感じていなかった。彼との関係はどんなに離れても変わらないものだと信じていたし、その気になれば会いに行けないこともないのだと、高を括ってもいたからだ。
しかしそれが本当は、ただ彼のいない日々というものに実感が無かっただけなのだと、彼女が気付いたのは数日が経ってからだった。
いつも居たはずの場所に彼が居ない。変わらない日常の中で、彼が居たはずの空白だけが、彼女に違和感をもたらした。心の大事な部分が、すっぽりと抜け落ちてしまったようだった。
逢いたい、と思った。これまで感じたことが無いほど、強く。
それでも、彼女の方から会いに行くことは、どうしても出来なかった。……出来なくなってしまった。
――きっともうすぐ、彼は来てくれる。
だから、彼女はこの場所で待っている。待ち続けている。
だがある朝、彼女は言った。「今日が最後です」と……。
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月子が川沿いに座り込みを始めて、数日が経った朝。
矢橋は月子の行動の意味を確かめるため、隣に腰掛けた。
月子が何も言おうとしない時は、ただじっとその行動に付き合う。それしかこの少女の考えを知る術が無い事を、矢橋は短い付き合いながらも理解していた。
矢橋も月子も、ただ黙ってそこに座っていた。矢橋にとっては、この沈黙は不思議と不快ではない。
日が高くなり気温が上がってきて、じっとしていても汗がにじむ。矢橋はTシャツの裾から風を送り込み、暑さを和らげようと試みた。
ちらりと隣に視線を向けるが、月子は汗一つかいておらず、涼しい顔だ。あまつさえ、水の一滴すらも摂取しようとしない。月子が熱中症にならないか気を揉み、水分を取らせるのが矢橋の仕事になってしまった。
そんなふうに、彼らはひたすら「変化」が訪れるのを待っていた。
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――月並みな言葉かもしれないけれど、どうしても伝えたかったのです。
「あなたに出会えてよかった」
「あなたと居られて幸せでした」
「どうか幸せになってください」
「あなたの笑顔が大好きです」と…………
一輪の小さな野の花が、風に揺れる。その花の名は、彼だけが知っていた。
もう二度と叶うことの無い夢の残滓は、今も消えずにそこにある。
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その日、橋のたもとに一人の青年が現れた。
面食らう彼に構わず、月子はこう言った。
「あなたをお待ちしておりました。『彼女』はここに居ます」
月子が『彼女』からの言葉を伝えると、青年の目が潤んだ。
季節外れの小さな花の前に跪き、青年は何度も何度もその花の――愛しい『彼女』の名を呼んでいた。
暑い暑い、夏の日の午後。川は穏やかに流れ、水面に日差しがきらきらと反射する。ただただ美しいその光景が、この時はなぜか矢橋の胸を苦しいくらいに締め付けたのだった。
青年が立ち去った後、夕暮れの川辺に二人は立っていた。
月子は、彼と彼女について多くは語らなかった。矢橋も、突っ込んで訊くことはしなかった。
月子曰く、橋とは、異なる世界と世界をつなぐもの、だそうだ。そして時に、人を別々の世界へと分かつものである。あちらとこちら。彼岸と此岸。そして――
「この橋は」
月子は、そっと目を伏せながら言葉を紡ぐ。
「彼と彼女を別々の人生へと分けただけでなく、結果的には二人をこの世とあの世へも分けてしまったのです」
またね、とか、何年後に会おうね、なんて何気ない、一時の別れの言葉や再会の約束。それが永遠の別れになったり、果たされることの無い約束になったりするのは、そう珍しいことでもないだろう。
しかし、常人の目には映らざるものが見えるというこの少女には、平凡な彼らのありふれた物語が、特別で唯一無二の物語に見えていたのではなかろうか。
おぼろげにしか事情を察することのできない矢橋でも、あの青年の涙には胸に迫る何かがあった。
あの時、月子は何を見て、どう感じていたのだろう?
翌朝、矢橋があの場所を通ると、花はすでに枯れていた。
「何となく寂しいな」と呟くと、その日も同じようにそこに居た月子は言った。
「それでも、この花は枯れた方が良いのです。彼女の未練が無くなったということですから。彼が過去に捉われないためにも、この花が咲き続けていてはいけないのです」
「あの花は彼の心の片隅でずっと咲き続ける、ってことだな」
言ってしまってから照れくさくなった。我ながら臭いセリフだ、柄じゃないぞと思ったが、隣で月子が微笑んだ気配があったので、まあ良しとする。
矢橋は、恋人同士を分かつことになった橋を見上げた。
どこにでもある、何の変哲もない鉄筋コンクリートの味気ない橋。
しかし、この橋のたもとで、彼らは二度目の、そして永遠の別れをしたのだ。
そう思うと、何やら特別なもののように感じられるから不思議だ。
「野暮なことをしたかもしれませんね」
不意に月子がそんなことを言って、溜息を吐いた。
「彼はおそらく、わたしがあの場に居なくてもあの花に気付いたと思います。そして、彼女からのメッセージを正確に読み取ったことでしょう。テイカカヅラの伝説然り、植物に姿を変えて愛する人に会いに行く、というのは散見される話のようですし。わたしの存在が、二人だけの世界を邪魔したかもしれません」
「それでも」
気休めかもしれないと思いつつ、矢橋は素直に本心を口にした。
「それだけじゃ伝えきれないこととか、もっと他に伝えたいことだってあるだろ。それに、毎日お前が一緒に待ってたおかげで、彼女も寂しくなかったと思うぞ」
「そうなら、良いのですけれどね……」
大体、伝説が散見されるからと言って、本当にそんなことがあると信じられるか――と矢橋は思ったが、言わなかった。
もしもあの花が、本当は彼女の化身でも何でも無かったとしても、そうだと思うことが、きっと彼にとっての救いだったのだから。
「先輩は、姿が変わっていても逢いたいと思う人、いますか?」
「そうだなぁ、家族とか友達とか……恋人はこれから作るとして……」
「先輩はシアワセな人ですよね」
月子の言葉の響きに羨望のようなものが感じられ、矢橋はなぜか落ち着かなくなった。
つい茶化すような口調になってしまう。
「……その言い方だと、俺が何も考えていない、能天気な阿呆であるかのように聞こえるぞ」
「いえ、そんなまさか」
月子も、似合わないオーバーアクションで否定する。
思わず、笑みをこぼしていた。
「それじゃ、俺はジョギング戻るから」
「はい、せいぜい、もとい、頑張ってください」
「『もとい』の前は聞かなかったことにしといてやろう。じゃあな」
軽く手を振り、走り出す。
この時の矢橋は、自分たちの未来に対して、何の疑いも持っていない。明日も明後日もその先もずっと、自分さえその気になればこの少女とはいつでも会えるのだと、無邪気に信じ込んでいた。
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走り出した矢橋の後ろ姿を見送って、月子はぼんやりと立ちつくした。
橋のそばで別れた二人。
未来へと進んでいってしまう彼と、永遠に立ち止まったままの彼女のことを想う。
「もしも、わたしが姿を変えてしまっても、先輩は気付いてくれますか?」
少女が小さく呟いた言葉は、蝉時雨の中に溶けていった。
お疲れ様でした。ここまで読んでくださってありがとうございます。
月子に対しては、「彼女」という代名詞は一度も使っていないはず、です。