「役に立たない」と言われた令嬢は、訳あって伝説の大魔術師に拾われました
「クレア。君は確かに便利だったが、それだけだ。妻にするなら、やはりきちんとした血筋の女性がいい」
それが、ようやく家族になれると思っていた男から、クレアが最後にかけられた言葉だった。
伯爵家の長男であるマルセルは、新しい恋人――別の伯爵家の令嬢の肩を抱きながら、冷ややかな目でクレアを見下ろしていた。
クレアは、子爵である父が、かつて屋敷で働いていた使用人との間にもうけた子供だった。
母と二人で平民として暮らしていたが、その母が亡くなり、行き場を失った彼女は十歳の時に子爵家へ引き取られた。
母は亡くなる間際、クレアの行く末を案じて、父である子爵へ手紙を送っていたのが理由のようだ。
事情を知る者がいる以上、実の娘を見捨てたと広まれば外聞が悪かったらしい。
父がクレアを引き取ったのは、娘を案じたからではなく、あくまで子爵家の体面を守るためだった。
けれど、父にはすでに正妻との間に子供がおり、夫の不貞を示す存在であるクレアは、家族として歓迎されなかった。
正妻からは、屋敷へ置いてもらう以上、その分は働くようにと言い渡された。
だからこそ、幼い頃から、クレアはせめて役に立とうと必死だった。
初めに任されたのは、掃除や洗濯、料理といった使用人の手伝いだった。
けれど、クレアは仕事の覚えが早く、頼まれたことは何でも正確にこなしているうちに、いつしか、使用人への指示や帳簿の管理、夜会の準備、簡単な領地書類の処理まで押しつけられるようになった。
そんなクレアの働きぶりを、子爵家を訪れたマルセルの父が目に留めた。
書類仕事の苦手な息子を支える妻にちょうどいいと、十五歳になったクレアを婚約者に望んだのだ。
生まれて初めて誰かに必要とされたことが嬉しくて、クレアはますます懸命に働いた。
婚約者のマルセルに対しても同じで、彼の苦手な書類仕事を手伝い、役に立とうと必死だった。
けれど最後にマルセルが選んだのは、生まれながらにすべてを与えられた伯爵令嬢だった。
彼女は貴族令嬢らしく、家事などしたことのない白く滑らかな手に、丁寧に手入れされた艶やかな髪と、明るく瑞々しい肌を持っていた。
一方、クレアの手は長年の水仕事で荒れ、指先には小さな傷がいくつも残っている。
働き詰めの生活を送ってきたせいで、髪も肌もすっかり艶を失っていた。
どれほど役に立とうと、正妻から生まれた美しい伯爵令嬢と並べられれば、クレアが積み上げてきたものなど簡単に切り捨てられてしまう。
結局、自分は彼にとって便利だっただけなのだ。
分かっていたことなのに、苦い気持ちが溢れてくる。
だが、心がすり減るような思いで子爵家へ帰り着くと、さらなる絶望が待っていた。
クレアの父は、伯爵家と繋がりを持った元婚約者と揉めることを嫌がり、あっさりとクレアを切り捨てた。
「ふん。婚約解消に伴う違約金も支払われたしな。そもそもこうなったのは、お前にも何か原因があったのではないか? やはり平民の血が強い娘では駄目だったのだろう。結局、お前は肝心なところで役に立たない娘だったということだ。これ以上、我が家の評判を落とされても困る。出ていってくれ」
わずかな手荷物と、少しばかりの金貨が入った袋。
……それが、十年近くこの家のために働き続けたクレアのすべてだった。
夜の街は冷たいが、宿を探す気にもなれず、クレアは宛てもなく石畳を歩き続けた。
自分には何もない。
本当の意味で心配してくれる家族もいないし、婚約者もいない。
誇れるような才能なんて一つもない。
この先どこかで働いたところで、また誰かに便利に使われ、不要になれば捨てられるだけなのではないか。
そして――気がつけばクレアは、王都の外れにある高い時計塔の屋上に上っていた。
眼下には、ぽつぽつと街灯のともる夜の街が広がっている。
冷たい風に頬を撫でられながら、クレアは塔の縁から暗い地面を見下ろした。
「……ここから落ちたら、全部終わるのかな」
本当に落ちるつもりはなかった。
ただそんな言葉を漏らすほどには、クレアはもう疲れていた。
もう少し近くで風に当たれば、胸の中に溜まった重苦しいものも、少しは吹き飛んでくれるだろうか。
そんなことを考えながら、クレアは塔の縁へ手をつき、そっと身を乗り出した。
その瞬間。
「……え?」
靴底が、つるりと滑った。
支えを失った体が、抗う間もなく前へ傾いていき、眼下に広がっていた夜の街が、急に目の前まで迫ってくるように感じた。
いやだ、こんなつもりじゃなかったのに、待って――!
悲鳴すら出せないまま、クレアはぎゅっと目を閉じた。
けれど、体が虚空へ投げ出される直前、誰かの手がクレアの腕を強くつかんだかと思うと、そのまま勢いよく後ろへ引き戻され、クレアの背中が何かにぶつかる。
「っ!」
何が起きたのか理解できないまま、クレアはその場に立ち尽くす。
胸の奥では、心臓が壊れそうなほど激しく脈打っている。
今にも膝から力が抜けてしまいそうで、腕をつかんでいる何者かの手だけが、辛うじてクレアの体を支えていた。
「危ないなぁ」
すぐ耳元で、気怠げな男の声がした。
恐る恐る目を開けてから振り返ると、黒いローブをまとった若い男がクレアの腕をつかんで立っていた。
ぼさぼさの黒髪に、整っているがどこか気怠げな顔立ちである。
「う、あ、ありがとう、ございます。ええと、いつからここに」
「君が来る前からだよ。ここは静かで、考え事をするのにちょうどいいからね」
どうやら彼は、塔の反対側にいたらしい。
男はクレアがきちんと立ったことを確かめてから手を離し、平然と言った。
「ちなみに、そこから落ちても死なないけどね」
「……え?」
「下の屋根には衝撃吸収の魔術がかかっているから。落ちても大きく跳ね返されて、ぼよんぼよんと間抜けな音を立てながら二、三度宙を舞ったあと、広場に転がされて衛兵に回収されるだけだよ。……いや、びよぉんだったか、それともぼややよんだったかな……」
「そこ、そんな真剣に思い出す必要あります!?」
危うく転落しかけた恐怖も忘れ、クレアは思わず大声でツッコんでしまった。
男は驚く様子もなく、ふっと口角を上げる。
「なんだ、元気じゃん」
「言っておきますけど、今のは事故ですからね! 死ぬつもりなんてありませんでした!」
「そうなの?」
「そうです!」
「でも、今までの人生には、もううんざりしているんでしょう? そんな顔をしてるし」
「……どうして、そんなことが分かるんですか?」
「伊達に長く生きていないからね」
「…………」
見たところ、クレアよりはいくらか年上だろう。
けれどどう見積もっても二十代の後半である。
なのにどうして、人生を知り尽くした老人のようなことを言っているのだろう。
クレアが怪訝な目を向けるが、男は壁際に置かれたクレアのトランクへちらりと視線をやっていた。
「それより、こんな時間にうら若いお嬢さんが荷物を抱えて時計塔の屋上にいるんだ。帰る場所も、これから行く当てもないんじゃない?」
「……あなたには関係ありません」
図星ではあったが、クレアはむっとして顔を逸らし、その場を立ち去ろうとした。
すると背後から男の声が追いかけてきた。
「じゃあ君の次の行き先が決まるまで、その命、僕に貸してくれない?」
「…………どういうことですか」
「いやなに、今現在、切実に困っていることがあるんだよ。帰る場所がないなら、次の行き先を決めるまで僕の役に立ってみない? 住み込みでいいし、給金も弾むよ」
確かに、今夜泊まる場所さえ決まっていない。
それに、死ぬつもりはなかったとはいえ、この男がクレアを転落から救ってくれたのも事実だった。
だが、相手は得体のしれない男である。
「…………」
少し迷った末、クレアはその突拍子もない申し出を受けることにした。
「……分かりました。少しの間だけなら」
「よし、決まり」
なんというか、あまりにもこの男の持つ独特の雰囲気に、警戒する気力さえ削がれてしまったのも理由の一つだろう。
「じゃあ行こっか」
「あ、はい。どちらへ――」
男が無造作に指を鳴らした。
その瞬間、足元いっぱいに巨大な魔法陣が広がった。
「えっ」
視界がぐにゃりと歪む。
夜の街が一瞬で掻き消え――次に瞬きをした時には、クレアは巨大な鉄格子の門の前に立っていた。
「…………え?」
辺りを見渡すが、もちろん、時計塔などどこにもない。
「もしかしてこれって、て、転移魔術……!?」
転移魔術といえば、王宮魔術師が何人も集まり、何時間もかけて術式を準備して、ようやく発動できるような大魔術のはずだ。
それを、この男は指を鳴らしただけで発動してしまった。
しかも、クレアも連れて。
何事もなかったように歩き出した男の背中を見て、クレアは慌てて声を上げた。
「っ、あ、あなた、一体何者なんですか!?」
「あれ、言ってなかったっけ」
男は面倒そうに振り返って、言った。
「僕の名前はノルン・クライア。魔術師だ」
「っ!?」
その名前は、聞き覚えがあるどころではなかった。
この国で暮らしていて、大魔術師ノルン・クライアの名を知らない者などいない。
百年以上の時を生き、王家すら一目置く存在。
一人で魔物の大群を消し飛ばしたとも、かつてこの国を襲った大災害を、たった一晩で食い止めたとも言われている伝説の魔術師だ。
「ノルン・クライアって、あの大魔術師!?」
「多分それだね」
それなら、クレアはこれから何かを召喚するための生贄にでも使われるのだろうか。
なにせ、伝説の大魔術師から「命を貸してくれ」と言われたのだ。
簡単な頼み事程度で済むとは、とても思えない。
クレアが口をぱくぱくさせて絶句している間にも、ノルンは彼女を置き去りにして、さっさと門の奥へ進んでいく。
逃げよう……かと一瞬思ったが、さっき助けてもらった恩はある。
恩は返すべきだと、クレアは感じた不安を胸の奥に押し込めると、
「ま、待ってください!」
そう言って、慌ててそのあとを追った。
門の奥にそびえているのは、かなり大きな屋敷だった。
息を切らしながら追いつくと、ノルンは重厚な玄関扉を開け放った。
「入って」
「失礼しま……っ!?」
――その瞬間、クレアはさっきとは別の意味で絶句した。
広いエントランスから廊下の奥まで、視界に入るすべての空間が、大量の物で埋め尽くされていたのだ。
山積みの本、用途不明の魔導具、丸められた紙束、脱ぎ捨てられた服、いつからそこにあるのか分からない食器、怪しげな液体の入った瓶、そして……謎の巨大な骨。
見事なまでに、床が見えない。
「ゴミ屋敷……」
「何言ってるの」
ノルンが心外そうに眉を寄せる。
「これはゴミじゃないよ。長年の研究成果が立体的に保存されているだけだ」
「それを世間では散らかってるって言うんですよ!」
ノルンは、どう見てもクレアにはゴミの山にしか見えない研究成果なるものを掻き分けながら振り返った。
「で、だ。君には片付けを頼みたい」
「…………」
「どうしたの?」
「私の命を貸してくれって……まさか掃除のことですか!?」
「そうだけど」
「もっと壮大な話かと思いましたよ! 世界を救うための生贄とか、禁断の魔術の実験台とか、そういうのを想像してたのに!」
思わず声を張り上げたクレアを見て、ノルンは不思議そうに首を傾げた。
「世界を救う程度なら、他人の命なんて必要ないよ。僕一人で事足りる」
「そこだけは妙に説得力がありますけど!」
さっき転移魔術を目の前で見せられたせいで、否定できない。
「……というか、大魔術師様なら、魔法でパパッと掃除してくださいよ」
「やってみたら、家の西半分が消し飛んだ」
「はい!? あなた大魔術師なんですよね!?」
「うるさいなぁ、細かい調整は苦手なんだよ」
「掃除で家を半壊させるなんて、初めて聞きました……」
「それで人を雇ってはみたんだけどね、一人目は玄関を見て帰った」
「賢明ですね」
「二人目は三日で泣いて退職届を置いて消えた」
「気持ちは分かります」
「三人目には『まず捨てていい物と駄目な物を分けてください』と言われた」
「至極当然です」
クレアがうんうんと頷いていると、ノルンは満面の笑みで胸を張る。
「そんな面倒なことができるなら、最初から片付けられているよね」
「威張ることじゃありません!」
どうやら世界最高峰の魔術師にも、できないことはあるらしい。
しかもここに住んでいるのは、ノルン一人だけだという。
つまり一人でこれほどまでに散らかしたと。
クレアは深々とため息をついた。
「……それで、どうして私なんですか?」
するとノルンは、実にあっさりと答えた。
「さっき、あんなに思い詰めた顔をしていたのに、持っていた鞄だけは綺麗に揃えて壁際に置いていたでしょう。だから、あんな時でも身の回りを整えることに気を配れる人間なら、きっと片付けが得意だと思って」
「…………そんな理由で?」
「それに、しばらく行く当てもないなら暇でしょう?」
「言い方!」
なんて男だ。
この国でもっとも有名な大魔術師で、王家さえ一目置く伝説級の存在で。
そんな男がクレアに命を貸せと言った理由が――まさかの、屋敷の片付けなんて。
これが、すべてを失ったクレアと、魔術以外ポンコツすぎる大魔術師との奇妙な同居生活の始まりだった。
◆
「……条件があります。私がここにいるのは、この家が片付くまでです」
「もちろんだとも」
屋敷中がゴミで溢れていたものの、二階には比較的ましな客室が一つだけ残っており、そこを寝室として与えられた。
こうして、クレアの片付け業務が幕を開けた。
翌朝からクレアは腕をまくり、ゴミの分類、不要品の処分、収納と在庫管理、魔術書の整理、そして研究資料の日付順整理に没頭した。
子爵家で培った、いや、生きるために身につけた実務能力をフル稼働させる。
ノルンは、あれもこれもどれもゴミではないと騒ぎ立てたので、処分に迷う物はその都度本人に確認することにした。
「これはどうです?」
「いる」
「こっちは?」
「いる」
「では、この欠けた皿は?」
「……いるよ」
「何に使うんですか」
「……いつか使うかもしれないよね。十年後とか」
「分かりました。では捨てますね」
「待って!」
そんな攻防を繰り返しながら、本当に必要な研究資料や魔導具だけはきちんと分類し、どう考えても不要な物だけを処分していった。
そして、屋敷のゴミと格闘を始めて数日後。
「……床がある」
真っ先に片づけを終えたノルンの研究室の中心で、ノルンがどこか感動したような面持ちで足元を見下ろしていた。
「何言ってるんですか。最初からありましたよ」
「七十年近く住んでいるけど、知らなかった」
「っ、なな……嘘でしょう!?」
箒を持ったまま、クレアはピタリと動きを止めた。
「……あの、つかぬことをお伺いしますけど、ノルンさんって一体おいくつなんですか?」
「今年で百三十七だったかな」
「…………」
「どうしたの?」
「詐欺です」
目の前にいるのは、どう見ても二十代後半の若々しい青年だ。
本人によると、莫大な魔力の影響で老化が極端に遅いのが要因らしいが、あまりにも理不尽である。
そして、片付けが進むにつれ、ノルンの生活能力の壊滅っぷりが次々と露見していった。
ある日、厨房から異臭が漂ってきた。
見ると、ノルンがどろりとした真っ黒な液体をグラスで飲んでいるではないか。
「それ何ですか?」
「食事だよ」
「どう見ても怪しい薬ですよね!?」
「必要な栄養素と魔力は摂取できるし、こっちの方が普通の食事に時間をかけるより効率がいいから」
「食事ってそういうものじゃないでしょう!」
そういえば、この家に来た初日に、食事は自分で適当に済ませるから放っておけとクレアは言われていた。
「……いつもこれを?」
「だいたいそうだね」
「朝も?」
「これだよ」
「昼も?」
「これだ」
「……夜も?」
「当然これ」
てっきり部屋でパンでもかじっているのだと思っていたのに、まさかこの得体の知れない液体が日常の食事だったなんて。
クレアはにこりと笑うと、ノルンの手から謎の液体を取り上げた。
「今日から禁止です」
「ちょっとー、僕の食事を取り上げないでよ!」
しかしクレアはノルンの言葉をまるっと無視し、片付けの際に見つけて、きれいに洗っておいた手鍋を取り出した。
そして、自分の食事用に買っておいた野菜と干し肉で温かなスープを作り、パンと一緒にテーブルへ置く。
「どうぞっ!!」
「…………」
ノルンは渋々スプーンを手に取り、スープを一口飲んだ途端、ぴたりと動きを止めた。
「……まずかったですか?」
不安になってクレアが尋ねると、彼はもう一口スープを飲み込んだ。
そして。
「いや……美味しいね」
ぽつりと言われたその言葉に、クレアの胸の奥がじんわりと温かくなった。
子爵家では、クレアが食事を用意したって当たり前の顔をされるだけだった。
もちろん美味しいなんて言葉を、今まで言われたことなどなかった。
それ以来、クレアがノルンの分の食事も用意するようになった。
そして――ノルンの生活改善は、食事だけでは終わらなかった。
なぜならこの大魔術師は、睡眠に関しても問題があることが判明したからだ。
「ちょっと、三日寝てませんよね?」
「まあまあ待って。あと少しで術式が完成する」
「あと少しって、どのくらいですか」
「二日か三日だね」
「……寝てください」
「嫌だ」
しかし、ノルンの目の下には濃いクマがくっきりと出ている。
加えて顔も青白く、これはいわゆる死相と呼ばれるやつなんじゃないだろうかとクレアは考える。
百三十七年も生きたいい大人が、研究のしすぎで過労死なんて結末を迎えるなど、笑えない冗談だ。
そういうわけで、クレアはこの国の大魔術師が失われる未来を防ぐため、何としてもすぐに眠らせることにした。
「寝ましょう、さあ、今すぐに」
「だけどもう少しでいい感じの術式の案が浮かびそうで――」
「寝・て・く・だ・さ・い。じゃないともうご飯作りませんからね」
「……それは困るなぁ。クレアの作るご飯は美味しいから」
そう答えると、ノルンは渋々といった様子で近くのソファに沈み込み、ものの五秒で寝た。
せめて寝室に行ってほしかったんだけど……と思ったクレアだったが、ちゃんと寝てくれただけでも良しとした。
基本的に魔術以外のことに関しては面倒くさがりな男だが、一緒に暮らしているうちに、少なくとも生活に関してはクレアの言うことを聞いた方がいいと学んだらしい。
百歳以上年上の伝説の魔術師に対し、完全にクレアが主導権を握りつつあった。
クレアは、自身の細腕では運べないので、ノルンの体に毛布を掛けた後、そっと部屋を出た。
が、翌朝、さらなる問題が起こる。
ノルンが寝ているはずのリビングから爆音が聞こえてきたのだ。
クレアが何事かと大急ぎで向かうと、なんと壁に見事な大穴が開いていた。
「ノルンさん……これは、何です?」
「寝ぼけて魔法を撃ったらこうなった」
「百三十七歳にもなって何してるんですか!」
「あのね、僕は寝起きがあまりよくないんだよ。いいじゃないか、穴は魔術で直すんだし」
「そもそも寝ぼけて魔術を展開する癖を直してください!」
他にも問題はまだまだある。
ノルンのもとには、王宮や貴族からひっきりなしに依頼の手紙が届いていた。
しかし、本人がずぼらなせいで書類の山は滅茶苦茶だった。
「ちょっと、これ期限過ぎてますよ!」
「そうだっけ」
「三カ月前です! ほら、二週間前に催促状もきてるじゃないですか」
書類の山を掘り返すと、底の方から、やたらと上質な紙の封筒が出てきた。
差出人を見て、クレアは目を剥く。
「……これ、国王陛下からですよ」
「らしいね」
「らしいね、じゃありません!」
許可をノルンからもらったクレアが慌てて封を開けると、そこには『先日お願いした王宮結界の定期点検について、そろそろ返事だけでもいただけると大変ありがたい』と、国王とは思えないほど低姿勢な文章が並んでいた。
最後には、『急ぎではないが、王宮魔術師たちが毎朝そわそわしているので、できれば今月中に』とまで書かれている。
「陛下にこんな気を遣わせないでください」
「急ぎじゃないと書いてあるでしょう」
「そういう問題じゃありません!」
仕方なく、クレアは頭を抱えながら書類の山に挑んだ。
依頼内容を分類し、優先順位をつけ、定型文で返書を書き、彼が無理なく動けるように日程を組む。
どれも、クレアがかつて子爵家で日常的にこなしていたことばかりだった。
そして、クレアが整理した予定表通りに動くようになってから、ノルンの仕事効率は格段に上がった。
もっとも、本人は依頼された仕事よりも自分の魔術研究に時間を使いたがる。
「ノルンさん、今日は王宮の結界点検の日ですよ」
「よし、明日に変更しよう」
「ダメです、行ってください。ちなみに明日は侯爵家の魔導具の修復ですからね。それと明後日は魔術師団への講義です」
「……全部断れないの?」
「あなた、一応この国から俸給を受け取っている魔術師なんですよね?」
「研究も国益になるよ」
「好きな研究を続けるにもお金は必要でしょう!」
「……それもそうだね」
そこでクレアは、依頼をまとめて効率よくこなせるように日程を組み直し、その代わり、研究だけに没頭できる時間もきっちり確保した。
ノルンは文句を言いながらも予定表には従った。
結果として、滞っていた依頼は次々と片付き、それでいて以前より研究に集中できる時間まで増えたらしい。
「なるほど。予定を組むっていうのは便利なものだね」
「その歳で初めて気づいたんですか」
クレアが苦笑すると、ノルンが苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いた。
そんな生活が、いつの間にか当たり前になり始めた頃。
ある夜、二人で夕食をとっていると、ノルンがふと思い出したように尋ねてきた。
「クレアって、確かどこかの子爵家の娘だったよね。その屋敷を出て行く前は何をしていたの」
「家の手伝いですよ。掃除洗濯の家事や、誰でもできるような、裏方の雑務ばかりですが」
「…………誰でも?」
「はい」
クレアがそう答えると、ノルンは怪訝そうに眉を寄せた。
「少なくとも、全部を一人でやるような仕事じゃないと思うけど……」
「え?」
何を言われているのか分からず、クレアは瞬きをした。
なぜならどれもクレアにとっては、ずっと当たり前にやってきたことだったからだ。
しかしノルンはさらに言葉を続ける。
「いやいや。掃除も料理もできるし、物の管理もできる。書類を整理して優先順位をつけて、僕の予定まで組める。しかも僕が研究に使う時間は減るどころか増えた。正直言って、君が来てから生活が格段に楽になったし」
それからノルンはフォークを置くと、まっすぐにクレアを見て、小さな声ながらも確かに言った。
「僕にはできないことを君はやってのける。それは誇っていい能力だよ。……助かってるよ。ありがとう」
そこまで言うと、ノルンは気恥ずかしさを誤魔化すようにクレアから視線を外し、再びフォークを手に取った。
「……あの時計塔で運がよかったのは、君より僕の方だったみたいだね」
「ノルンさん……」
クレアは言葉を紡げず、黙ってノルンを見つめていた。
掃除一つまともにできず、放っておけば食事は謎の液体だけで済ませ、寝不足になるまで研究し、挙げ句の果てには寝ぼけて壁に穴まで開ける人ではある。
おまけにこの屋敷は、綺麗になったと思えば、翌日には別の部屋が物で溢れているし、いつになったらすべての場所の片付けが終わるのか、見当もつかない。
それでもノルンは、クレアなど到底及ばないほど偉大な魔術師なのだ。
この国の宝と称され、王族さえ一目置くほどの人物で。
そんな彼が、クレアがただ生きるため、誰かの役に立つために必死で身につけてきたものを、紛れもない能力だと認めてくれた。
胸の奥が妙にむず痒い。
自分がやってきたことを、ちゃんと価値のあることだと言ってもらえたのが――クレアにはたまらなく嬉しかった。
◆
澄み切った空の下、クレアは屋敷の庭で落ち葉を掃き集めていた。
サクッ、サクッと規則正しい箒の音が、手入れの行き届いた静かな庭に響く。
ふと二階の窓を見上げると、そこにはノルンの研究室がある。
彼は今頃、大量の文献に埋もれながら、誰にも邪魔されることなく魔術の探求に没頭しているはずだ。
そんな穏やかな時間を破るように、重厚な鉄格子の門の前に立派な馬が止まった。
「大魔術師殿へ、王宮より招待状である!」
鮮やかな青い外套を羽織った王宮の使者が差し出してきたのは、王家の紋章である金色の蝋で封をされた、分厚く立派な封筒だった。
クレアはそれを受け取ると、急いで箒を壁に立てかけて屋敷の中へと駆け込んだ。
「ノルンさん、王宮からお手紙です!」
ノックもそこそこに研究室の扉を開けると、床にまで散乱した魔導書の山の中で、ノルンが億劫な様子で顔を上げた。
彼はクレアが差し出した手紙を受け取ると、ペーパーナイフも使わずに無造作に封蝋を破り、面倒くさそうに中身にざっと目を通した。
が、その後すぐに指先に灯した魔術の炎で燃やそうとしたので、炭と化す前にクレアが急いでそれを奪い取る。
中身を確認すると、どうやら今度開かれる王宮の夜会の招待状のようだった。
「……ノルンさん、どうして燃やそうとしたんですか」
「やだなぁ、燃やして証拠隠滅を図ったに決まってるじゃん」
「自慢げに言えることですか!」
しかも招待状の最後には、国王直筆と思われる追伸が添えられていた。
『なお、今回は必ず出席するように。欠席した場合は、私が直々に迎えに行く』
どうやら国王も、ノルンが招待状を無視することを予想していたらしい。
クレアは『謹んで出席いたします』と返事を書き、嫌がるノルンに無理やり署名をさせて送り返した。
そうして迎えた、王宮の夜会当日。
「ああ、面倒だなぁ。けど欠席したら陛下が直々に迎えに来るらしいから、仕方なく行ってくるよ」
そう言っていつものヨレヨレの黒ローブ姿のまま玄関へ向かおうとしたので、クレアは慌ててノルンの前に立ち塞がると、ずずいっと詰め寄る。
「待ってください。まさかその格好で夜会に行くつもりですか!?」
「これが僕の普段着にして一張羅なんだけど?」
「絶対駄目です! 伝説の魔術師の威厳が台無しです!」
クレアはノルンを浴室へ押し込み、髪も体もきちんと洗ってくるよう命じた。
しばらくして戻ってきた彼の髪を丁寧に乾かして櫛を通し、さらに、以前ゴミの山から発掘して綺麗にしておいた夜会服を強引に着せ、首元のタイをきっちりと締める。
「……よし、これで完璧で――」
そして完成したノルンの姿を見て、クレアは思わず言葉を失った。
無造作に下ろされた艶やかな黒髪に、知的な切れ長の目。
だらしないローブの下に隠れていたのは、背が高く、誰もが振り返るほどの圧倒的な美形だった。
中身の生活能力が壊滅しているようには、到底見えない。
「……どうしたの?」
「いえ……これなら今夜は、夜会の令嬢たちが目をくぎ付けですね。間違いなく大勢に囲まれてモテモテです」
動揺を隠しながら揶揄うような口調で言うと、ノルンは心底嫌そうに顔をしかめた。
「勘弁してよね。面倒なのは御免だ」
そう言った後、ノルンはクレアをまじまじと見つめ、何かを思いついたようにぽんっと手を叩いた。
「……よし、クレアも行こう」
「は?」
「虫除けになってよ。クレア、いつも僕の予定を管理して、返書も作ってくれているでしょう? 僕の補佐として夜会に同行するのも、業務の一環だよ」
「はい!? や、ちょ、ちょっと待って――」
なんて自分勝手な理屈をこねる男なのかと叫びたかったが、ノルンは有無を言わさず、クレアが以前片付けた衣裳部屋へと彼女の体を半ば引きずるようにしながら向かう。
そして、衣裳部屋の奥に保管されていた、深紅の豪奢なドレスを引っ張り出し、クレアへ押しつける。
「ちょっと待ってください。どうしてこの屋敷に女物のドレスがあるんですか?」
「五十年くらい前、当時の王妃から贈られたんだよ。『いつか夜会に女性を伴うことがあれば、そのときに使いなさい』って」
「こんな高そうなものを私に着ろと!?」
デザイン的には今着ても問題ない型ではあったが、一目で高価だと分かる品だった。
「保存の魔術がかかっているから、新品同然だよ。着る人の体に合わせて、寸法も勝手に変わるしね」
「それでも、私なんかがこんな素敵なドレスを着るなんて。今までだって着たことないし……」
「いいじゃん。どうせ今まで一度も使ってないんだし」
「一度も?」
「うん。これを着せて夜会に連れていく相手なんていなかったからね。使うのは君が初めてだよ」
「…………」
さらりと告げられた言葉に、クレアの胸がわずかに騒いだ。
しかし、ノルンはその意味をまるで気にしていない様子で、ドレスをクレアへ押しつけた。
「ほら、着てみてよ」
そのまま当然のように部屋に居座ろうとしたため、クレアは慌ててノルンを廊下へ押し出した。
正直行きたくはなかったが、ノルンのあの感じだと、クレアが行かないと言えばじゃあ僕もやめると言い出しかねない雰囲気だった。
仕方なくドレスへ着替え、自分で髪を整えてから衣裳部屋を出ると、壁にもたれて大あくびをしていたノルンがぴたりと動きを止めた。
しばらくクレアを見つめたあと、彼はふっと目を細める。
「想像以上に似合ってる。可愛い可愛い」
「なっ!?」
突然出てきた「可愛い」という言葉に、クレアは思わず息を詰まらせた。
けれどノルンは、それだけ言うと何事もなかったように転移の魔術を展開し、気づけば既にクレアは王宮の前にいた。
そして、広間の扉が開いた瞬間。
「大魔術師ノルン・クライア様、ならびにクレア様、ご入場!」
侍従の声が響きわたると、会場の空気が凍りついた。
扉の前に立っていたのは、いつもの薄汚れたローブ姿の偏屈な大魔術師ではなく、洗練された貴公子のような男だったからだ。
一斉に突き刺さる令嬢たちの熱い視線と、「隣のあの女は誰だ」という貴族たちの訝しげなひそひそ話に、クレアはいたたまれなくなって俯く。
「やっぱり私なんて不釣り合いです。今からでも帰って……」
「駄目だよ」
しかしノルンは逃げようとしたクレアの手を取り、自分の腕へしっかり添えさせた。
「堂々としてなよ。君は僕の生活を支配し、僕の命を預かっているほどの有能な人間でしょう」
「ノルンさん……」
「僕の隣に立つんだ。君以外には任せられない」
その言葉に、クレアの胸の奥がぎゅっと鳴った。
が。
「あと、お願いだから傍にいて。……さっきから女性陣の圧がすごい。こういう場は苦手なんだ。あまりにもストレスが溜まったらその場で魔術を暴発しそうになるから、僕の精神の安寧のためにも絶対に離れないで」
「そ、それ、私大役じゃないですか!」
小声でそんな会話を交わしながら、二人が広間を歩き出したその時だった。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた柱の陰に、クレアの父と元婚約者の姿があった。
彼らは信じられないものを見るような目でクレアを凝視した後、続けてノルンに目を向けると顔を真っ青にしている。
家を追い出したクレアが、まさか大魔術師の同伴者として王宮の夜会へ現れるとは、想像もしていなかったのだろう。
やがて父が我に返り、クレアのもとへ来ようと一歩踏み出した。
ところが、見えない壁に阻まれたように、その足がぴたりと止まる。
父は戸惑いながらもう一度進もうとしたが、なぜか同じ場所から先へ進めない。
元婚約者も不審そうに手を伸ばし、何もない空間に触れたところで顔を引きつらせた。
ここでクレアは、二人の周囲だけ、ほんのわずかに空気が揺らいでいることに気づく。
クレアが隣を見上げると、ノルンは何食わぬ顔で前を向いていた。
ただ、その指先には淡い魔力の光が灯っている。
「……もしかして、ノルンさんが?」
「君に近づけないように、簡単な結界を張っただけだよ」
「いつの間に」
「君があの二人を見て、息を止めた時」
「どうして、そこまで……」
「君が嫌がっているように見えたから。それ以外に理由がいる?」
「…………」
ノルンはそれ以上何も言わず、クレアの腰にそっと手を回すと、彼らの姿を彼女の視界から隠すように自分の方へ引き寄せ、そのまま国王のもとへ歩いていく。
国王はノルンを見るなり、呆れたように笑った。
「よく来たな、ノルン。今回も招待状を燃やしたのか?」
「燃やす寸前まではいきましたが、彼女に取り上げられました」
「なるほど。最近、そなたから期限内に返事が届くようになったのも、その女性のおかげか」
「そうですね。クレアがいなければ、今頃あの招待状も灰になっています。非常に優秀なんですよ。このクレアは陛下よりも、よほど僕を働かせるのが上手い」
「ほう。そなたを期限どおりに働かせられるのなら、たしかに国宝級の人材だな」
国王の前でも相変わらずの態度を崩さないノルンに、クレアの背中を冷たい汗が流れた。
この国でもっとも尊い方に、こんな口を利いて大丈夫なのだろうか。
自分まで一緒に王宮からつまみ出されるのではないか。
しかし国王は気分を害した様子もなく、むしろ愉快そうに笑っていた。
王族への挨拶を終えた直後、今度は何人もの令嬢がノルンの周囲へ集まってきた。
「ノルン様、本当にご本人でいらっしゃいますの?」
「今夜はずいぶん雰囲気が違っていらして、驚きましたわ」
「ところで、そちらの女性はどなたですの?」
一斉に好奇の目を向けられ、クレアは身を強張らせた。
今日はノルンを令嬢たちから守るためについてきたのだし、ここで役目を果たさなければならない。
だが、クレアが一歩前へ出ようとした瞬間、腰に回されたノルンの腕に力がこもった。
「彼女はクレア。僕の生活と命を預けている人だよ」
「まあ……。どちらの家のご令嬢ですの?」
答えようとして、クレアは言葉に詰まった。
子爵家から追い出された今、自分はどこの家の娘と名乗ればいいのだろう。
するとノルンが、さも不思議そうに首を傾げた。
「家名なんて必要? 彼女はクレアだ。僕が今夜の同伴者として連れてきた。それで十分でしょう」
あまりにも堂々と言い切られ、言葉を詰まらせた令嬢たちはそれ以上クレアの出自を尋ねることができなかった。
それでも一人の令嬢が気を取り直し、ノルンへ微笑みかける。
「ところでノルン様、次の曲をわたくしと――」
「踊らないよ。今夜、僕が相手をするのはクレアだけだから」
「えっ」
「へっ、ノルンさん?」
令嬢だけでなく、クレアまで間の抜けた声を漏らした。
ノルンが少し体を屈めると、クレアの耳元で囁く。
「虫除けになってくれと頼んだでしょう。最後まできちんと役目を果たしてよね」
ノルンはいつもの気怠げな調子でそう言ったが、その腕はクレアを庇うように抱き寄せたままだった。
クレアはノルンを女性たちから守る盾になるつもりだったのに、実際には、向けられる好奇の目からクレアを守るように、ノルンの方がずっと彼女の前に立ってくれていた。
ひと通り主要な貴族への挨拶を済ませると、ノルンはほっとしたように息を吐いた。
「よし。果たすべき義理は果たした。帰ろう」
「まだ夜会は始まったばかりですよ!?」
「陛下にも挨拶したし、主だった相手にも顔を見せた。もう十分だよ」
「そんな理屈が通るんですか?」
「少なくとも、招待状を燃やして欠席するよりはずっとマシでしょう」
ノルンは答えをはぐらかすようにクレアの手を取り、足早に広間をあとにした。
結局、会場を出るまで、彼の手がクレアから離れることは一度もなかった。
◆
夜会の日を境に、クレアの中で何かが少しずつ、けれど確実に変わっていた。
朝起きると、「今日は市場へ新鮮な野菜を買いに行こう」と考える。
昼になれば、届いた依頼状を整理しながら、ノルンが研究に集中できるよう予定を組み直す。
夜には、明日は晴れるらしいからシーツを洗おう、その次の日には物置の整理をしようと、自然に翌日以降の予定を思い描いている。
クレアが彼の研究内容に口を挟むことはなく、ノルンも屋敷のことはすっかり彼女に任せていた。
それぞれが自分の仕事をして過ごしながらも、食事の時間になると、クレアが声をかければ、今ではノルンは素直に研究を切り上げて食卓にやってくる。
四六時中一緒にいるわけではないが、それでも今のような穏やかな関係が、クレアにはたまらなく心地よかった。
ある夜、ふかふかのベッドへ入り、明日の朝食について考えていたクレアはふと気がついた。
子爵家を追い出されたあの夜、クレアには帰る場所も、これから先の予定もなかった。
けれど、自分の人生がこの先も続いていくことを、楽しみだと思えるような状態でもなかった。
それなのに今は、明日の朝食は何にしようと考えている。
市場で何を買おうか、ノルンは何を作れば美味しいと言ってくれるだろう、次はどの部屋を片付けようかと、当たり前のようにこの屋敷での先の生活を考えている自分がいた。
暗闇の中で、クレアはなんだかおかしくなり、毛布にくるまりながら誰にも聞こえないほど小さく笑う。
明日が来るのも、案外悪くない。
今ではむしろ、少しだけ楽しみだった。
けれど――――約束の終わりは、思っていたよりも早くやってきた。
ノルンは前ほど物を散らかすこともなくなった。
そして、最後まで手つかずだった物置部屋の整理を終えたことで、とうとう屋敷の片付けがすべて完了したのだ。
「……終わりましたね」
「そうみたいだね」
ノルンは、見違えるように整った屋敷中を眺めて短く頷いた。
二人が最初に交わした契約は、『屋敷の片付けが終わるまで』だった。
そしてそれが終わってしまった今……。
胸の奥が冷たくなるのを悟られないよう、クレアは懸命に口角を上げて笑うと、努めて明るい声で言った。
「では約束どおり、私はこれで出ていきますね。ノルンさん、お世話になりました」
クレアはペコリと頭を下げる。
俯いた瞬間、思わず目から涙が零れそうになったが、ぐっと堪える。
「…………」
ノルンはしばらく黙っていた。
沈黙に耐えきれなくなったクレアは、滲んだ涙を何度か瞬いて押し戻し、ゆっくりと顔を上げた。
彼は、何かを言いかけるように唇を動かしたものの、結局口から出てきたのは短い言葉だけだった。
「……そう、だね」
引き止めてもらえるかもしれない。
――心のどこかでそんな期待をしていた自分が、クレアは急に恥ずかしくなった。
そんなこと、あるわけがない。
ましてこの条件はクレアから言い出したことなのに。
それに、クレアはこの屋敷を綺麗にするために、一時的にノルンに雇われていたにすぎないのだから。
「っ、失礼します」
クレアは深く頭を下げると、自分の部屋へ戻った。
これまでに受け取った給金は、今後数カ月仕事が見つからなくても十分暮らしていけるほどの額だった。
多すぎるからもう少し少なくてもと言ったのだが、ノルンは頑なに譲らなかったのだ。
給金を納めた財布と私物をトランクへ詰めれば、出ていく準備はすぐに終わってしまった。
あとは鞄を持ち上げ、この屋敷から出て行くだけだ。
「…………」
けれど、クレアの手は、トランクの持ち手にかかったまま動かなかった。
自分が出ていったあとのノルンの姿が、あまりにも鮮明に想像できてしまう。
三日もすれば、研究に夢中になって食事を忘れる。
一週間後には、床へ本や書類が散乱し始める。
二週間後には食事を取ることさえ面倒になり、またあの怪しげな液体だけで生活するようになるだろう。
そのうち寝ぼけて魔法を放ち、せっかく直した壁へ再び大穴を開けるかもしれない。
「……そ、そんなの、無理。放っておけないよ」
あの生活能力が壊滅した男を、一人残していくなんてできない。
けれど、そこまで考えてから気づいた。
ノルンは、クレアと出会う前から百三十七年間生きてきたのだ。
食生活は最悪で、屋敷はゴミに埋もれていたが、それでも一人で生きていた。
クレアがいなくても、死にはしない。
放っておけないというのは、ここへ残るためにクレアが自分で作った言い訳だった。
本当は、もっと単純だ。
クレア自身が、この家を離れたくないのだ。
ノルンと食卓を囲む時間が好きだった。
研究室へこもった彼を食事に呼び、面倒そうな返事を聞くこともあったし、夜更けの厨房で偶然顔を合わせてココアを飲んだ日もあった。
たまに二人で洗濯物を畳んだり、市場へ買い物に出かけたりすることだってあった。
それらすべてが、クレアにとって大切な日常になっていた。
「っ!」
クレアはトランクをその場へ置き、勢いよく部屋を飛び出す。
研究室の扉を開け放つと、ノルンは机に向かっていた。
けれど、開かれた本へ視線を落としているだけで、羽根ペンは机に置かれたまま、研究が進んでいる様子はない。
「ノルンさん!」
「……もう、出発するの?」
振り返ったノルンは、いつもと変わらない気怠げな顔をしていた。
けれど、その目はクレアと合う直前、不自然なほど素早く逸らされたし、机の上に置かれた手もわずかに強く握られている。
クレアが出ていくことを、もしかしたら彼も少しくらいは寂しいと思ってくれているのかもしれない。
そう考えたら、ほんの少しだけ勇気が湧いた。
クレアは顔が熱くなるのを感じながら、彼へずずいっと歩み寄った。
「私がいなかったら、どうせまたこの家をゴミ屋敷にしますよね?」
そう尋ねると、ノルンは悪びれもせずに言った。
「するだろうね」
「まともな食事もせずに、またあの謎のドリンクを飲みますよね?」
「そうなるねきっと」
「三日くらい平気で寝ずに研究に没頭しますよね?」
「お目付け役がいなくなったらその可能性は高いかな」
「……だから!」
クレアは勢いに任せて言い放った。
「仕方がないので、これからも一緒にいてあげます! 私には、あなたを人間らしく生活させる義務が――」
そこまで言って、クレアは言葉を止めた。
本当の理由はそれではない。
クレアはきゅっと唇を噛み締めると、深く頭を下げた。
「……すみません、義務だからじゃありません。自分から期限を決めておいて、今さら勝手なことを言っているのは分かっています。でも、お願いします。私をもう少し、この屋敷に置いてもらえないでしょうか。給金もいりません。だから、その……」
クレアは顔を上げた。
堪えていた涙が瞳に滲み、ノルンの姿がわずかに揺らいで見える。
それでも、震える声でクレアは続けた。
「私、この屋敷でノルンさんと暮らしていたいんです!」
ノルンは何も言わず、じっとクレアを見つめていた。
「ここでノルンさんと食事をして、それぞれ自分の仕事をして、時々くだらないことで言い合って。そんな毎日を、これからも続けたいんです」
ノルンはすぐには答えなかった。
やはり図々しい願いだったのかもしれない。
契約を終えた使用人から、これからもこの屋敷へ住ませてほしいと言われても、困るだけだろう。
「……すみません。やっぱり、今の話は――」
途端に訪れた羞恥と後悔に耐えきれず、クレアが踵を返しかけた、その時だった。
「僕はさ、君が来るまでずっと、一人で生きてきたんだよ」
その言葉に、クレアの胸がずきりと痛んだ。
分かっている。
自分などいなくても、彼はこれまでどおり生きていける。
けれど、ノルンの言葉には続きがあった。
「君がいなくても、たぶん死にはしない」
ノルンはそこで一度言葉を切ると、深く安堵したように息を吐いた。
「だけど、僕はクレアの作るごはんの味を知ってしまったし、快適な屋敷の住みやすさも知ってしまった。もう前の生活には戻れない。だから……君が残ってくれるのは、むしろ大歓迎だよ」
「ノルンさん……」
全身から力が抜けそうになるほどにほっとしたクレアは、思わずその場に座り込みそうになる。
それでも何とか耐えて立っていると、ノルンから呆れたような声が聞こえた。
「というか、それなら最初から素直にそう言えばいいのに」
「言えるわけないじゃないですか。自分から期限を決めておいて、仕事が終わったのに住み続けたいなんて。それに、ノルンさんも私がいなくなっても別に構わない、みたいな感じでしたし」
「僕の願望で、クレアをここへ縛りつけたくなかった。君自身がどこにいたいのか、自分で決めてほしかったんだよ」
そう言われると、クレアは何も返せなかった。
と、ノルンは少し考えるように顎へ手を添える。
「では、契約を更新しようか。屋敷の管理と僕の仕事の補佐は、これまでどおり君に頼む。給金も当然、今までどおり支払うよ」
「でも、給金はこれまでももらいすぎなくらいもらっていましたし、別に必要ないかなと」
「それとこれとは別だよ」
ノルンは、クレアの言葉をきっぱりと遮った。
「屋敷の管理も僕の補佐も、れっきとした仕事だ。仕事をしてもらう以上、正当な対価を払う。それを好意に甘えて曖昧にするつもりはないよ」
「分かりました……」
当たり前のことを言ってもらえているのに、それがどうしようもなくクレアは嬉しかった。
「ええと、期限はいつまででしょうか」
「それは僕が聞く方じゃないかな。君が自分でここにいたいって言ったんだから」
どうも、クレアが好きに決めていいらしい。
「では……期限は決めません。それでも、いいですか?」
「いいよ」
短い返事だったが、そう答えたノルンの表情は、隠しきれないほど柔らかくなっていた。
その顔を見ていたら自然とクレアの頬も緩んで、せっかく引っ込んでいた涙がまたこぼれそうになる。
だから、クレアはそれを誤魔化すように、きりりと眉を吊り上げた。
「言っておきますけど、給金をいただく以上、仕事はこれまでどおりきっちりしますからね。また散らかしたら容赦なく捨てます」
「相変わらず厳しいなぁ。はいはい、なるべく努力するよ」
「絶対ですからね!」
そう言い終わると、部屋へ置いてきたトランクを片付けるため、クレアは踵を返した。
「長く生きてきたけど、誰かと暮らすのも悪くないと思ったのは、初めてだな」
その小さな呟きは、足早に部屋へ戻っていくクレアの耳には届かなかった。
◆
数日後、クレアの父と元婚約者から、それぞれ手紙が届いた。
クレアがいなくなった子爵家では、彼女が一人で担っていた仕事を何人もの使用人や事務官へ振り分ける必要が生じ、人件費と混乱が一気に増えたらしい。
マルセルもまた、クレアが行っていた予定管理や書類整理を失い、取り繕った文面の端々から、それまでの仕事ぶりが彼自身の能力ではなかったと、周囲に知られ始めていることがうかがえた。
ちなみにお相手の女性は、社交は得意でも、そういう能力には全く長けていなかったようだ。
どちらも手紙には、謝罪の言葉とともに、やっぱり君に戻ってきてほしいと書かれていた。
「戻る?」
ノルンが静かに尋ねた。
昔のクレアなら、「必要とされている」というだけで喜んで戻ったかもしれない。
けれど、今はもう知っている。
必要とされることと、大切に扱われることは違う。
だから、クレアは迷わず答えた。
「戻りません。私は、自分でここにいると決めました。今は、ノルンさんのお世話係兼、片付け係兼、屋敷の管理人兼、秘書ですから」
その答えに、ノルンは満足そうに口元を緩めた。
「返事はどうする?」
「私が書きます。二度と戻るつもりはないと、きちんと伝えます」
「それなら、今後の接触も断ると書いておいた方がいいよ。君の意思を無視して一度は追い出した人たちだ。都合が変われば、今度は無理に連れ戻そうとするかもしれないでしょう?」
確かに、クレアの父ならやりかねない。
しかし、今さら大魔術師の屋敷まで押しかけてくるほどの度胸があるとも思えなかった。
「まあ、何か企んだとしても問題はないけどね。君には僕の防護魔術をかけてあるから」
「……いつの間にそんなものを!?」
ノルンがクレアにかけていたのは、害意を持つ者が触れようとすれば自動的に弾き、無理に連れ去られそうになれば、彼女だけをノルンのもとへ転移させる防護魔術だった。
しかも彼は、クレアがここに残ると決めた直後に、クレアの父とマルセルへ先回りして警告の手紙を送っていたらしい。
クレア本人の意思に反して接触し、連れ戻そうとすれば、ノルンに対する敵対行為とみなす。
自分たちが誰に喧嘩を売ろうとしているのか、よく考えろ――と。
「……それ、完全に脅迫状ですよね?」
「失礼だなぁ。忠告だよ」
そう答えたノルンの顔には、いつもの気怠げな笑みが浮かんでいた。
けれど、その目だけはまったく笑っていない。
クレアはその時初めて、この掴みどころのない男が、王家さえ一目置く大魔術師なのだと別の意味で実感した。
◆
ノルンの脅しが効いたのだろうか、あれ以来、父やマルセルから手紙が届くことはなかった。
こうして一連の騒動が片づいたあとも、クレアとノルンの生活は以前と変わることなく続いていた。
その日の夕食は、温かなシチューにした。
珍しく夕食を待ちきれなかったのか、ノルンが自分から厨房までやってきた。
そして湯気の立つ鍋をのぞき込み、待ちきれない様子で手を伸ばしたので、クレアはその手をぴしゃりと叩いた。
「まだです。お肉が柔らかくなるまで、あと五分待ってください」
「五分は長い。お腹が減った」
「百三十七年も生きている人が、五分くらい待てないんですか?」
「クレアの作る料理を待つ五分は、百年より長いんだよ」
「適当なことを言わないでください」
呆れながらも、クレアは笑ってしまった。
「……ほら。できましたよ」
湯気の立つシチューを皿によそい、二人で食卓を囲む。
向かいでは、待ちきれないと騒いでいたノルンが、満足そうにシチューを口へ運んでいる。
誰かとこうして同じ食卓を囲む時間は、いつの間にかクレアにとって、何よりも心安らぐ日常になっていた。
「明日の朝食は、焼きたてのパンと卵料理にしましょうか」
「僕は甘いいちごのジャムがいい」
「野菜も食べてもらいますからね」
「やっぱり君は厳しいなぁ」
「では、明日からまたあの怪しい液体だけで生活しますか?」
「それは嫌だ。クレアの料理がいい」
「だったら野菜も食べてください」
窓の外には、穏やかな夜の帳が下りている。
クレアはノルンと温かなシチューを味わいながら、そっと笑った。
自分の意志で選び、自分を大切にしてくれる人と、明日を迎える場所。
ここが、クレアがようやく見つけた帰る家だった。




