追放された公爵令嬢は告解の庭で毒を喰む
ある朝、ハークアウェイ女子修道院の菜園でふたりの修道女が血まみれで折り重なっているのが発見された。
一人は元ファントムメア公爵令嬢であるシスター・ヴェデット。王太子の婚約者であったが、婚約破棄の憂き目に遭い半年前に神の花嫁となった人である。
もう一人はゾディアック男爵令嬢であるシスター・アデル。こちらもまた結婚の予定が白紙になり、一年前に修道院の門を叩いた人である。
修道院にやってきた経緯が似ていたこともあり、ふたりはたちまち仲良くなった。修道院の維持活動は常にふたり連れ立って行い、懇親の時間も片時も離れなかった。とはいえ、死ぬときでさえ折り重なるように近くにいることは、さしもの本人たちも想定外だっただろう。
アデルは胸や腹など数カ所を刺され、顔を含む全身をずたずたに切り刻まれた状態で亡くなっていた。一方のヴェデットは背中に刃を突き立てられていたが、辛うじて一命は取りとめた。但し、目覚めた時には犯行時のことはおろか人生のすべての記憶を喪ってしまっていた。
犯行動機は未だ不明だが、状況を見るに犯人はアデルを執拗に嬲ったあとでヴェデットを刺している。恐らく犯人はアデルの殺害をヴェデットに見られてしまい、慌てて逃げ出した彼女に背中から切りかかったと思われる──それが王国騎士団の見立てだった。
新聞を見た大衆は二人に同情を寄せた。若くして傷つき修道院に入ったにもかかわらず、神の身許の安らかな暮らしさえ凶刃に取り上げられてしまった令嬢の安寧を祈った。
事件から一週間経つが捜査に進展はない。世間の話題は凄惨な事件から王太子殿下の逝去へと移り変わっている。
修道院の寝台から、ヴェデットはじっと窓の外を見つめている。
茫乎とした視線の先には物言わぬ花が揺れている。
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カイン王太子殿下に婚約を破棄された一週間後、父は王国の南端にあるハークアウェイ修道院にわたくしを押し込めました。殿下に一方的に咎を押し付けられた挙句、貴族籍まで失うことになるとは夢にも思いませんでした。
わたくしは失意の底にいましたが、傷心も不満も神は意に介されません。到着翌日から厳しくも規則正しい生活へ容赦なく追い立てられました。朝は四時に起き出して朝食、祈りを捧げて農作業。昼の祈りのあとで昼食、院内の清掃。夕の祈りのあとで晩餐、団欒の時間のあとで就寝。はじめは心と体がついていかないこともありましたが、規則正しくこれらを繰り返すうち心は安らかになっていきました。王妃教育や公務に忙殺された頃よりも満ち足りた日々だとさえ思えました。
数ヶ月が経過し生活にも慣れた頃、わたくしは院長に呼び出されました。
「シスター・ヴェデット。貴女に新しい修道女の世話役を任じます」
「謹んでお受けします」
突然のことに驚きましたが、わたくしに否やはありませんでした。未だ学ぶことが多いわたくしを後輩の導き手に任じていただけることが嬉しく思われました。
「アデルと申します。至らぬ身ではございますが、この修道院にて寝食を共にするのも何かのご縁。よきにお導き頂ければ幸甚に存じます」
彼女は美しい姿勢でわたくしに一礼しました。家名を失ってもなお凛としたふるまいと、燃えるようなスカーレットの瞳が印象的でした。
「わたくしはヴェデットよ。名乗るような家名はもうないから、気軽に接してくれると嬉しいわ」
「まあ、ありがとう存じます。それではヴェデット様とお呼びしても?」
「勿論よ。わたくしはアデルと呼ぶから、貴女も呼び捨てで構わないわ。敬語もいらなくてよ」
「ふふ、御言葉に甘えさせてもらうわ。ありがとうヴェデット」
目を細めて笑う彼女はとても魅力的でした。貴族としてきちんと教育された品格と人懐っこさが上手に溶け合った雰囲気は、王太子殿下に『傲慢』『驕慢』『高飛車』と当て擦られ続けたわたくしにはついぞ持ち得ぬものでした。
彼女の笑顔に魅せられたのが先か、人柄に魅せられたのが先か。わたくしとアデルがあっという間に親しくなったのは言うまでもありません。
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「今日は暖かいわね」
「ええ! 洗濯物がよく乾きそうで嬉しいわ」
アデルが修道院に来てからひと月ほど経ったある日、わたくしたちはお洗濯に励んでいました。着るものはもちろんのこと、シーツや枕カバー、果ては祭壇布まで。
貴族令嬢のままであれば体験することなどなかったでしょうが、共同生活である以上、自分のことは自分で始末ができなければいけません。初めこそ慣れずに悪態をついたこともありましたが、今はアデルと話ができるのでわたくしにとっては楽しみでさえあります。
「……世俗から切り離されたところにいるから直截に言いますけれど、王太子殿下は最低最悪ですわね」
その日の話題は互いの過去についてでした。先に切り出したのはわたくしです。冷遇から婚約破棄までを語り終えたあとで、アデルが発したのが冒頭の台詞です。
「ふふっ……不敬だと止めるべきなのでしょうけれど、溜飲が下がってしまいますわ」
「まあ、それは重畳だわ。王太子殿下の女性に対する扱いには腸が煮えくり返りますけれど……ここであなたと出会うきっかけを作って下さったことには感謝するべきかしら?」
「そうね。こんなことでもなければ、わたくしたちお話する機会もなかったかも知れないわね」
わたくしは過去を追想します。同じ元貴族とはいえ、わたくしは将来の王妃として準王族の扱いを受けておりました。
「わたくしのことはいいとして、貴女のことも聞かせてくださる?」
「ええ! 勿論良くってよ」
アデルは自身の過去についてぽつぽつと話してくれました。商家と縁を結ぶ予定だったこと、実家で騒動が起きて婚約が立ち消えになったこと。
「婚約者だった方はとても優しかったから引き留めて下さったけれど……家のことに巻き込んでしまうのは申し訳なくて、婚約解消を申し出たのです」
「そう……」
彼女の話しぶりから、双方想い合いながらの別れであることが伺えました。家のごたごたに巻き込みたくないアデルと、相手の家に関係なく添い遂げたい婚約者。どちらもわたくしを感情的に袖にした王太子殿下とは大違いです。
「お互いを思いやれる関係、とても羨ましいわ」
「そう? お褒めにあずかり光栄だわ」
アデルは夏の花のように眩しい笑顔を私に見せました。わたくしの過去に憤り、自身のまだ癒えていない傷について話してくれた彼女を、わたくしはますます好きになりました。
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わたくしとアデルはまるで姉妹のように過ごしました。朝の祈りは敬虔に、農作業は冗談を言い合いながら、夜は互いを労り合いながら。朝から就寝までのほとんどの時間を、わたくしたちは肩を並べて過ごしました。とりわけ夜の語らいは、僅かながら菓子が許されているため一日で一番楽しみな時間でした。キャンディやクッキーを頬張りながらの会話はいつも弾みました。
「殿下も昔は普通の少年でいらしたのよ。かくれんぼには特に夢中で」
「楽しそうね。あなたも一緒に遊んでいらしたの?」
「ええ。王太子宮は入り組んだ造りになっているから、幸か不幸かそういった遊びにはお誂え向きだったの。あなたはどう?」
「そうねえ……私の婚約者は秘密基地にご執心だったわ」
時間とともに、昔の思い出も落ち着いて振り返ることができるようになりました。決して悪いことばかりではなくて、美しい思い出もあるのです。
「まあ、大人になった殿下は良い感じの隠れ場所で何をしていたのやらですけれど」
「あらまあ最低じゃありませんの」
仮に嫌な記憶がよみがえっても、アデルが小気味よい言葉で打ち消してくれます。心許せる友がいることは何と喜ばしいでしょう。
わたくしは幸せでした。カイン殿下に断罪されたあの日、未来の王妃の座も家名も貴族令嬢の矜持も失って消えてしまいたいと思いました。けれど、神を想い祈りを捧げた果てでアデルというかけがえのない人に出会えたのです。
このまま神の御下に迎えられるまで、アデルとお喋りをし、祈りを捧げながらささやかに暮らしていけたら──それがシスター・ヴェデットとなったわたくしの願いでした。
──そう、すべてが壊れるあの日までは。
初夏のある晩のことです。鳥たちも枝で微睡む夜半、わたくしたちはこっそりと庭園の奥を目指していました。『夜の女王』の花が咲きそうなので、いそいそと見に行こうとしていたのです。
『夜の女王』は、修道院が懇意にする商会から寄進されたもので、菜園に植える野菜や薬草の苗にひっそりと混ざっていました。隣国の田舎に固有の種で、成長した花や葉は食用になるのだそうです。
この苗が夜半から朝にかけてのみ美しく花開くことはアデルが教えてくれました。
『貴族階級で人気が出そうだけれど、これまで注目されなかったことが不思議ね』
『食用だからでしょうね。それも、王侯貴族ではなく庶民の胃袋を支えるための』
アデルは目を伏せました。
『皮肉なものよね。この花のありようは変わらないのに、人間の欲望ひとつで価値が変わってしまうなんて』
『アデル……』
アデルの声音は平坦でしたが、随分と寂しげで、心を締め付けるようでした。彼女の人生と重なる部分があったのかも知れません。わたくしは返す言葉を選びかねて、口を噤むことしかできませんでした。
『ごめんなさい、少し感傷的になってしまったわ。相談なのだけれど、わたくしたちでこれを観賞用の花として育ててみない?』
『まあ、すてきね! でも……』
『ふふ、一株だけよ。この院で生きる糧には影響しないわ』
『……そうね、それなら』
わたくしは頷きました。寄進から掠め取る行為に後ろめたさは感じましたが、アデルとの共同作業にわくわくする気持ちは止められません。そう、一株くらいなら農作業で駄目にしてしまうこともあるでしょう。
『わたくしたちだけの秘密よ』
アデルの蠱惑的な微笑みが、今も強く印象に残っています。
「まあ……すごいわ!」
夜の菜園は昼間とまったく異なる顔をしていました。誰もいない静寂、涼やかな空気、星影さやかな夜空の圧倒的な輝き。自然が作り出す世界がこんなにきらびやかだなんて知りませんでした。夜会で見る装飾灯にも高価な宝石にも負けない燦々たる輝きがそこにはありました。
「素敵な夜ね」
「そうね。晴れて良かったわ」
わたくしたちは連れ立って菜園の奥を目指しました。可憐な白い花が真っ黒な夜に咲き誇っていました。
「ああ……なんて美しいの!」
わたくしは思わず花に駆け寄りました。
「そうでしょう? 香りも素敵なのよ。ぜひ近くで嗅いでみて」
「ええ!」
わたくしは屈んで白い花に鼻先を近づけました。
どこか南国の果実を思わせる濃厚な甘さが鼻腔を擽ります。
「……あら、」
くらくらするような芳香に呑まれたわたくしの背中に、がつん、という衝撃が走りました。
「っ、え……?」
わたくしは何が起きたかわからぬまま菜園の芝生に倒れ込みました。後頭部から背中にかけて鈍くも脈打つような痛みが走ります。
あわてて振り仰ぐと、アデルがわたくしを見下ろしていました。まるで知らない人のような、凍てつくような瞳で。
「甘い毒の香りは楽しんで頂けた?」
「どく……?」
頭が混線したまま問いかけると、アデルが嘲るような笑いを浮かべたまま答えます。
「安心なさって。ただ全身痺れてしまうだけよ。効いてくるのはもう少し後かしら」
「アデル……?」
アデルは目を釣り上げ、険のある声をわたくしに浴びせます。空気がにわかに凍りつくようでした。
「──マーガレット・ゾディアック」
「っ、」
アデルの口から発された令嬢の名前を聞き、わたくしは呼吸を奪われるような心地がしました。
艷やかな白金の髪に宝石のような紺碧の瞳。神が作り給うたかんばせに、誂えたような華奢な体躯。天の声を聴くようだと評判の歌声に提琴の才能まで持ち合わせていて、高位貴族のサロンに引っ張りだこの女。
──殿下が誰よりご執心だった女。一時は憎くて憎くて仕方がなくて、二度と視界に入らないようわたくしが処理した女。
「あら? その様子だと覚えてはいるみたいね」
「あ゙ッ、ぐ……!」
アデルは不遜に笑い、わたくしの腹に蹴りを入れました。鉄でも仕込まれているかのような硬いつま先が食い込み、わたくしは口から血反吐を吐きました。
「ぅ゙ッ、アデル……どうして、」
「どうしてですって?」
アデルは目を釣り上げ、険のある声をわたくしに浴びせます。
「私の名前はアデライン=ゾディアック。ゾディアック男爵家の長女──あんたにずたぼろにされたマーガレットの姉よ」
アデルはベールとウィンプルを取り去りました。常に隠されていたアデルの髪は、あの女と同じ艶めくような白金でした。
「あんたがあの子に取り返しのつかない怪我を負わせたこと……一日たりとも忘れたことはなかったわ」
冷たい靴底が、わたくしの頭を容赦なく踏みつけます。
「っぐ、違っ……わたくしは、ただ……! あの子が身分もわきまえずわたくしを愚弄したから、身の程を教えようとしただけで……!」
必死に叫んだ言葉に、アデルの顔が侮蔑に歪みました。その顔を見るうち、わたくしの中に捨てたはずの貴族の矜持がふつふつと蘇り始めました。
わたくしは怒りを覚えました。アデルは所詮男爵令嬢。彼女の視線も言葉も、公爵令嬢たるわたくしに対して向けるにはあまりにも不敬なものだったからです。
「わたくしは悪くないわ! あの身の程知らずがカイン様に媚を売って関心を独占したのがいけないのよ! 王太子の婚約者であるわたくしを差し置いて、王宮のサロンで音楽の才能を持ち上げられていい気になって! 歌声と提琴の才能を見せびらかして本当に目障りだったわ! それに命まではとってないわ、ほんの少し利き手を不自由にしただけじゃないの。 高位貴族の秩序を乱した下等な男爵令嬢に、相応の罰を与えただけよ!!」
「──媚を売った?」
わたくしは自分の置かれた状況を忘れて怒りをぶちまけました。はっと我に返った時は既に遅く、アデルの瞳には身を焼くような激しい憎悪の炎が燃え盛っていました。
「……冗談じゃないわ! カイン殿下が嫌がるあの子を強引に追い回していたのを見ていたでしょう?! あの子は貴女に何度も弁明したはずよ! 婚約者がいるのにとても困っていると!」
アデルの声が激情に震えています。
「罰するべきも恨むべきもあの淫蕩馬鹿王子なのに、あんたはマーガレットを傷つけた。『害虫が消えてせいせいした』と取り巻きと高笑いしてたわね。それだけじゃあない、カイン殿下の被害に遭った他の令嬢もみんなあんたに貶められた。中には自ら命を絶った方もいたと聞いたわ。あんたは殿下の尻拭いをさせられたと思ってるんでしょうけど、修道院送りは自業自得よ。あんたってとんでもない愚か者だもの」
「な……っ、不敬よ! 取り消しなさい!!」
あまりの侮辱にわたくしは激昂しました。アデルは軽蔑の眼差しでわたくしを見下ろし、悪魔じみた笑顔を浮かべます。
「まあ、あなたの愚かさには感謝もしているの。王太子宮の機密もぽろぽろ漏らしてくれて随分助かったわ」
「……え?」
「あなたの思い出話のお陰で、隠し通路の入り口も警備が手薄になる日も面白いように情報が手に入ったもの。元婚約者様様ね」
「あ、」
お洗濯の時間も、農作業の時間も、夜の語らいも。彼女には何でも話すことができました。アデルは聞き上手なので、つい話しすぎてしまうことがありました。
「自白剤って効果あるのね。とっても参考になったわ」
「そんなもの、どこから……」
「あら。この修道院がどこの支援でやっていると思って? ゾディアック男爵家に決まってるじゃない」
「っ、う、嘘よ! ここはお父様が──」
「嘘? 面白いことを言うのね。そのお父様が我が家にここを託したのよ。あなたごと」
わたくしは愕然としました。嘘、嘘であってほしい。でも本当だからこそ現況が成り立っているのもよくよく理解できてしまいました。
「お勉強ができても素行と性格が悪いと救いようがないわね。薬師たちが薬の量と種類を調節するのが骨折りだったって嘆くのも仕方ないわね」
「っ、わたくしに何を盛っていたの?! 答えなさいよ!!」
「何って? 今のあんたの態度が答えよ。わからないの?」
アデルは呆れた顔でわたくしを見下げています。わたくしのような高貴な者に向ける目ではありません。激情が胸底で燃え盛ります。
「現実と向き合わせないためのお薬よ。あんたこれまで『どうしてわたくしのような高貴な者が修道院に?』って思わなかったでしょう? 精神に作用する複数の成分をあんた用に調整したと聞いてるわ」
「……は? このわたくしに薬を盛ったっていうの? ファントムメア家が黙ってない──」
そこまで言いかけたところで、わたくしは我に返りました。
とても重要な事実を、到底受け入れられない現実を今更実感し始めたからでした。
「……今日のために薬は少しずつ減らしてきたの。さあ、薬の効果が切れた今、向き合うべき現実が見えてきたかしら? 例えばあなたがご実家から相続権を剥奪されていて、とっくに平民になってしまっていることとか」
「ッ、嘘! 嘘よ! 嘘よ!!」
到底受け入れ難い現実が急に実感され、わたくしは頭を掻きむしりました。青い血の流れるわたくしが、王家の血さえ流れるわたくしが平民なはずはない──それなのに、この数ヶ月はそれを当然と受け入れて生活してきたことをわたくしはしっかり記憶していました。
「さあ、ヴェデットさん」
アデルがわたくしを呼びました。まるで他人行儀に、親しくもない他人に呼びかけるように。
「身分を思い出したあなたに質問よ。相続権を喪ったあなたと男爵令嬢の私。身分が高いのはどちらかしら?」
「あ、」
「ついでにいいことを教えてあげましょう。ゾディアック男爵家はね、あなたの命を損ねた場合の贖罪金込みでこの修道院の経営権を買ったの」
贖罪金はすなわち命の値段です。わたくしは愕然としました。もう公爵令嬢ではない事実が全身に染み渡り凍りつくようです。
「いや……いや! 死にたくない!!」
わたくしは立ち上がり逃げ出そうとしましたが、全身が痺れて思うように動けません。『夜の女王』の効果が体に現れ始めていたのでしょう。
「恨むならご自分を恨むことね。ファントムメア公爵家はとんだ資金難に陥っているそうよ。あなたが傷つけたご令嬢たちの賠償金でね」
「っ、ひッ、」
わたくしの目の前に剣先が突きつけられました。
「……マーガレットはパウロヴィッツ子爵家に輿入れの予定だったのよ。相思相愛の幼なじみと幸せになるはずだった。あんたに身も心もずたずたにされなければ」
剣先が頬を掠め、温い血が伝う感覚がありました。
「っ、ごめんなさい、っ、ごめんなさい! 真面目に働きます、だからッ、命だけは!」
「あらまあ生き汚いこと」
歯の根が噛み合わないほどの恐怖に襲われ、わたくしは涙を流しました。そんなわたくしをアデルはごみくずを見るように──かつてわたくしがあの女を見たのと同じ目で見つめています。
「私の妹と同じ目に遭わせて差し上げるわ。心は空っぽ、体は衰弱……ああ、加減を間違えて死んでしまったらごめんなさいね」
「嫌……嫌ぁッ、ぅぐ」
誰かがわたくしの頭を掴み上げ、無理やり何かを飲ませました。ぼんやりとした目に映ったのは凍てつくような目をした男でした。ああ、マーガレットの幼なじみというのはこの人だったのかも知れません。
「あとはせいぜい死んだ私と仲良くして頂戴」
「死んだ……? っ、ひいッ?!」
ぐったりと這いつくばったわたくしの隣に、どさりと音を立てて何かが落ちてきました。何事かと目を転じると、修道服を着せられた金髪の女──無残に顔が潰され、全身を切り刻まれた死骸が打ち捨てられていました。
「あ……っ、あぁ……」
アデルはこの死体を自分だと偽るつもりなのでしょう。ああ、わたくしもこんな風にされるのでしょうか。あまりの恐ろしさに、わたくしはとうとう失禁してしまいました。
「汚いわね。さっさと終わらせましょう」
「ッ、ぐ」
わたくしは男に体を持ち上げられ、積み荷のごとき粗雑さでアデル役の死体の上に投げ落とされました。おぞましくて逃げ出したいけれど体はもう動きません。
「──さようなら、ヴェデット」
アデルがわたくしの背中に何かを叩きつけました。感覚はすっかり鈍くなってしまいましたが、剣でも突き立てたのでしょう。
じわじわと何かが漏出する我が身を感覚しながら、わたくしは意識を手放しました。
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ハークアウェイ修道院で起きた殺人事件に騒然とした国は、その一週間後に起きた王太子カインの自死によりいっそう大騒ぎとなった。寝所で首を吊っている彼を発見したのは侍従の一人だった。枕元には女性を傷つけ弄んだことへの自責が綴られた手紙が置かれていたことから、良心の呵責に耐えかねた自死として処理された。
例え懺悔の言葉があれど、数多の女性を傷つけ粗末に扱った愚かな王太子の死を本気で悼む者は少なかった。何食わぬ顔で王太子に繰り上がった第二王子のもと、王国は何事もなかったかのように平穏を取り戻していった。
その陰で、長女を亡くしたゾディアック男爵家が爵位を返上した。製薬技術で名を馳せた家の終わりを惜しむ人は少なくなかったが、事情が事情だけに社交界も同情的だった。
ゾディアック家は今後東国に拠点を移し、心神喪失した次女の支援をしながら商会を営むのだという。
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陽光が優しく降り注ぐ寝室に白金の髪をした姉妹がいる。一人は寝台に眠り、一人はその横に腰掛けて両手を組んでいる。
腰掛けた女──アデルは祈りにも似た指をほどき、寝台に眠る妹の頬に手を添える。寝台に眠る妹は天から遣わされたと言っても過言ではないほどに美しい。
「マーガレット……」
アデルが呼びかけると、妹──マーガレットはわずかに睫毛を震わせた。姉妹と両親はひと月前に故郷を捨て、この東国に拠点を移した。
最近になって、マーガレットは時折家族の呼びかけに反応するようになってきた。アデルは一脈の希望を抱いている。妹がこのままでも精いっぱい支えていくつもりではあるが、また笑いかけて欲しいという思いはずっと胸の奥にわだかまっていた。
「……あの女はもう空っぽだし王太子は死んだ。もうあなたを苛む人間はいないわ」
アデルはマーガレットの手を握る。
「あなたの右手、機能を失っていないのですって。根気強い訓練が必要だけど、また提琴を弾くこともできるそうよ」
窓辺にそそぐ光が強まる。まるで姉妹を照らし出すように。
「父も母も、ハーキュリーズもあなたを待っているわ。ハーキュリーズったらね、婚約解消なんかしないって子爵家の次期当主の座を捨ててしまったのよ。あなたの側にいたいからって……昔歌劇を観た時は、あなたもハーキュリーズも『貴族の結婚に真実の愛なんて』って笑ってたのにね」
目を開けて。声を聞かせて。
あなたの瞳に宿る星空を見せて。
わたしが夜空ならおねえさまの瞳は太陽ね、と笑いかけて──
ひとしずく、またひとしずく。空知らぬ雨がふたりのつないだ手の甲に落ちる。
そのとき、
「──おねえ、さま」
かすけき声だった。それでも聴き逃すはずがなかった。
姉は顔を上げる。ラピスラズリの瞳が、愛しい妹の瞳が確かに姉を捉えている。
「……っ、マーガレット!!」
流れる涙もそのままに、姉は妹の体を掻き抱く。彼女が確かに生きていることを確かめるように。
「おねえさまの声、ずっと聞こえていたの」
儚くも確かな、生きている妹の声。アデルはそのひと言ひと言を噛み締め、聞き届け、しっかりと頷く。
アデルの声を聞きつけたのか、複数の足音が寝室に近づいてくる気配がある。
「おかえりなさい、マーガレット」
やわらかな日差しが、かつて姉妹で過ごした穏やかな日々を呼び覚ましていく。
悪意に満ちた者共は去り、未来を脅かす者はどこにもいない。
胸の奥から溢れる喜びを噛み締めながら、アデルはマーガレットに微笑みかけた。
〈終〉
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