忘恩負義
権田白民六十八歳男性。職業はDTPデザイナー。主に外食系の広告デザインをしている。元プロベーシスト。
権田笹三十八歳女性。職業は、母親から引き継いだ家庭料理居酒屋《葉乃》を経営している。屋号の《葉乃》はササの旧姓である。
ふたりは三十歳差の夫婦で、お互いに《ゴン》《ササ》と呼び合っている。
家庭料理居酒屋《葉乃》は、家庭料理を頭に冠するだけあって、味ではかなり定評があった。元々ササが持っている母親譲りの料理の才能かもしれない。特に《鶏のから揚げ》は絶品である。
店は大阪のオフィス街のはずれに位置し、一歩路地を入ればまだ民家が残る場所で、サラリーマンやOLは勿論、ご近所さんが下駄履きで来店する様な多民族が交流する店である。
店内はL字カウンターのみで、椅子が七脚だけの小じんまりした造りである。偶に主人のゴンがカウンターに入り、瓶ビールの栓を抜いたり、焼酎のお湯割りを作ったりしているが、ほぼほぼ彼は飾りものである。
訳あってしばらく店を閉めていたが、三年前に母を引き継ぎ、娘のササが営業を再開した。今はその三周年記念イベントのちょうど真っ最中だった。イベントと言っても、店の屋号を名入れした盃を、白とピンクでそれぞれ三十個ずつ。合計六十個を用意して、常連客も一見客も区別せず先着順で飲食後の精算時に渡そうと言うものである。
小箱に入れられ、蓋に《粗品》と書かれた六十個の盃を用意はしたが、記念に夫婦の分として白とピンクを一個ずつ残しておいたので実際には五十八個が粗品の対象となった。
ササが、ある常連客に粗品の盃を渡そうとすると、
「ササちゃん、ワシこないだ一個貰たで」
「知ってるよ。白いの渡したやろ?」
「他の色もあるんかいな?」
「ピンクがあるよ。かわいい色やで、奥さんに持って帰ったげて」
ササは箱から出して色を見せた。
「嬉しいがな〜、ありがとうな」
「こちらこそいつもありがとう!奥さんによろしく〜、気をつけて帰ってね〜」
ササは、自分の事を娘の様に、あるいは孫の様に支えてくれ、足繁く通ってくれる温かな客たちに対し感謝の気持ちを忘れなかった。
目には見えない感謝の気持ちを具体的に言うならば、例えば客の顔や名前を一所懸命覚えたり、職業を覚えたり、また悩みや病歴を覚えたり、と言う行動として現れ、結果的に店が繁盛すると言う目に見える形となって現れて来る。
粗品の数も残すところ白とピンクが一個ずつとなった頃、中年女性客がひとりで店に入って来た。ササも記憶にない一見客である。香水の匂いがきつい。カウンターの隅では近所に住む常連客の《ユキオさん》がひとり酒を楽しんでいた。
「いらっしゃいませ」
ササの声が店内に響いた。
七人掛けカウンターの真ん中を陣取った中年女性客にゴンがおしぼりと割り箸を用意した。
「何がおすすめ?」
中年女性客はササに訊いた。
「鶏のから揚げです」
珍しくササが敬語である。
「そんな脂っこいの食べられる訳ないでしょ?こんな時間よ」
時計は午後九時を回っていた。自己中心で周りを動かす人物の様だ。
「ちょっと商談があってこんな所まで来たんだけど、この辺は何も無いわね」
と言いながら店内のホワイトボードに書かれたメニューを見た。
「好きなの無いわね〜、取り敢えず冷酒ちょうだい。あとは鮪のお刺身でいいわ」
『鮪でいい?鮪に謝れ』
それに、『こんな所とは何だ!こんな所に住んでいるユキオさんが横で呑んでいるのに…ユキオさんにも謝れ』とササは思った。中年女性客は酒が入るとさらに上から目線で喋り出した。
ゴンは短気なくせに我慢強くて、非暴力を好む平和主義者である。よせばいいのにわざわざ中年女性客の話題に自ら入ってゆき、
「ヘェ〜」
「すごいなぁ〜」
と相槌を打つことを楽しむ変な趣味がある。
何十年も前にブレイクし、三十八歳と言うササの年齢からは知る由もない俳優の名前が唐突に、しかも知っているのが当たり前の様に中年女性客の口から出て来た。『ビッグネームだから当然わかるわよね』と言わんかばかりの高飛車な態度が逆にゴンを楽しませた。
「昔よく面倒を見てあげたのよ」
「ヘェ〜、すごいなぁ〜」
うつむいたユキオさんの肩が小刻みに震えていた。
中年女性客は二時間近く話し続けて冷酒を三合飲んだ。会計を済ませ帰ろうとした時
「これ粗品です。良かったら」
残り二つになった粗品をササが手渡そうとした。
「これ何?」
「営業再開三周年の粗品です」
箱の中を開けてピンク色の盃を見せた。
中年女性客はそこで初めて《葉乃》が再開三周年なのだと知った様子だ。
「これは有田焼?それとも伊万里?」
そこまでは確かめていなかった。ゴンが知り合いの贈答品店で注文しただけなので詳細はわからない。
さらにそこから焼き物にまつわる中年女性客の自慢話が三十分ほど続いた。
釉薬によって色の具合が変わるとか言い出し、ピンク色以外に他の色は無いのか?と訊いてきた。ゴンは、(白)とシールが貼られた最後の小箱を差し出し
「これ最後のひとつになります。白色です。良かったらどうぞ」
と言って、一見客にもかかわらず二個の盃を持たせて中年女性客を送り出した。ユキオさんも最後までニヤニヤしながら成り行きを見届けて、ゴンたちと一緒に《自己中》を送り出した。
それからちょうど一週間後、ユキオさんは、また指定席でひとり酒を楽しんでいた。この日ゴンは入稿間近で忙しく、店の飾り物としての役目はお休みしていた。そこへ《自己中》が再びやって来た。商談の続きがあったのだろうか。今日も香水がきつい。
「先日はありがとうございました」
ササが言った。
「いいえ」
「今日も冷酒でよろしいですか?」
それには答えず
「このあいだ貰ってあげた盃、白とピンクだと聞いたのに二つともピンク色だったわよ」
と言いながら二つの小箱を取り出して中を見せた。確かに(白)とシールが貼られた方もピンク色の盃だった。おそらく、常連客に色を見てもらう時に小箱から出し、その後それぞれの箱に戻し間違ったのであろう。
「あら〜、すみません〜」
ササは謝った。
「白いのちょうだい」
「すみません、あれが最後のひとつだったもんでもう残ってないんですよ」
「それはそちらの都合でしょ。粗品とは言え色違いの盃をくれると言うから私はそれに対価を払ったのよ」
とんでもなく都合の良い話にすり替えられている。
『嘘つけ!周年イベントやってるのも知らんかったくせに。そもそもゴンが過剰サービスするからこんな事になるんや。こっちが良かれと思ってやった事が通じない人もおるんやなぁ』
と、ササは思った。
そんな中、ユキオさんはタバコを買って来ると言い一旦店を出て行った。まだクレーム処理が続いているところにユキオさんが帰って来て、また指定席に腰を下ろした。
「あ、こんなところに一個残ってるやん」
ユキオさんがカウンターの下から(白)のシールが貼られた小箱を取り出した。
「ねえさん良かったなぁ〜。これでええやん」
自己中は戦利品を手に受け取り
「私は無茶を言ってるんじゃないのよ。これは当然の事ですから…」
ユキオさんは自己中の話を遮る様に
「ねえさん、ワシ静かにゆっくり呑みたいねん」と言いながらタバコに火を着け、これ見よがしに大量の煙を吐き出した。自己中は、一週間前に間違って貰ったピンク色の盃をひとつ置いて店を出て行った。
「ユキオさんゴメンな。家まで盃を取りに帰ってくれたんやろ?」
「うん、たまたま白いの貰てたんでな」
「実はゴンの白いのがひとつあるねん、それ持って帰って」
「そんなんしたらワシが取りに帰った意味ないやん。それは夫婦で大切に持っとき」
「ユキオさん、ありがとう」
「その代わり、ピンク色のん貰とくわ」
ユキオさんは自己中が持って来た(白)のシールが貼られたピンク色の盃を鼻に近づけ
「うーん熟女のニオイ」と言った。
ササは大声で
「この変態〜〜‼︎」と叫んだ。
と同時にゴンが店の扉を開けた。
「呼んだ?」
一同白けわたった。




