92.俺を選んで。side千晴
side千晴
俺の大好きな先輩。
俺だけの先輩。
小さくて、でも中身はずっと大きくて広い先輩が、俺と一緒に歩いてくれている。
俺は本当は今、傘を持っていた。
電車ではなく、普通に車で帰る予定だった。
だが、少しでも先輩と一緒にいたくて、俺は先輩に嘘をついた。
それでも先輩は、俺の嘘に気づいていない。
疑おうとさえしていない。
まっすぐ俺を見て、例え困ったように一度、俺から目を逸らしても、やっぱり助けてくれる。
誰にでも平等で、優しくて、正義の人。
そんな先輩が愛おしくて、愛おしくて、仕方ない。
しかし、そんな先輩を愛おしく思うたびに、仄暗い感情が俺を支配した。
誰にでも優しくしないで。
俺だけを見て。
俺だけに手を差し伸べて。
ーーーその愛らしい瞳に俺以外、映さないで。
そういった欲望が当たり前のように俺の中に渦巻く。
だから俺はその欲望を叶えるために、先輩の外堀を埋めることにした。
そして少しずつでも異性として意識してもらえるように、俺が先輩に恋焦がれる男であることを行動で示した。
その結果、外堀は埋められ始め、先輩は確かに俺に惹かれ始めた。
先輩をずっと見てきたのだ。
先輩の変化なら、ほんの少しのものでもわかる。
少しずつ先輩の心が俺に揺れ、その眼差しに、俺と同じ熱が帯び始めていることに、俺は気づいていた。
何もかも完璧で順調。
あともう少しで先輩は俺だけの先輩になる。
ーーーそう思っていたのに。
先輩の形だけの彼氏、沢村悠里が本気で先輩のことを好きになってしまったのだ。
さらにアイツは俺と同じように、先輩の外堀を埋め始めた。
憧れと恋の区別がつかない先輩。
そんな先輩を囲って、真実を見せないようにして。
アイツのせいで、先輩が俺に堕ちてくれない。
チラリと横を歩く先輩を見れば、胸元には不愉快な名前がその存在を主張していた。
〝沢村〟と書かれた体操服をわざわざ先輩に着せているのも、自分の彼女だと主張したいがためだろう。
ただそれだけのために、アイツはああしているのだ。
沢村悠里には、もう以前のような余裕がないように見えた。
きっと先輩を本気で好きになり、気づいてしまったのだろう。
先輩が自分に向ける視線の正体に。
先輩は今も〝憧れの推し〟の彼女だ。
沢村悠里との関係に、一切疑問を持つことなく、幸せそうだ。
だが、俺はもう限界だった。
彼氏になる、ということ以外で、できるだけたくさんの先輩の初めてをもらってきたけれど、やはり先輩の彼氏になれなければ、全部が全部、物足りない。
「ねぇ、先輩」
限界を感じた俺は溢れる想いに蓋をすることなく、ゆっくりと先輩を呼んだ。
俺に突然呼ばれた先輩は「ん?」とほんのりと赤い頬でこちらを見る。
先輩の揺れる瞳の奥底に、俺は確かに俺と同じ感情を感じた。
同じならもういっそのこと、好きにさせて欲しい。
「好き」
俺から甘く紡がれた言葉が、空気を震わせ、雨の中へと消えていく。
俺の言葉に、先輩はその場で足を止め、目をぱちくりさせた。なので、俺は先輩が濡れないように同じようにその場に留まった。
「は、はい?」
それだけ言って、固まってしまった先輩が、あまりにも愛らしくて、つい口元が緩んでしまう。
それからしばらく先輩の様子を見ていると、やっと動き出した先輩は、りんごのように頬を真っ赤にさせ、口をパクパクさせ始めた。
ああ、やっぱり先輩はかわいいな。
「好き」という言葉一つで、こんなにもかわいい反応をしてくれるなんて。何回でも言いたいな。
愛おしくて愛おしくて仕方のない存在から目を離せずにいると、そんな存在は「んんっ」と咳払いをして、やっと口を開いた。
努めて冷静を装って。
「…千晴のそれは自分の面倒を見てくれる人が好き、だもんね」
は?
先輩からの思わぬ言葉に、一気に暗い感情が広がっていく。
自分に言い聞かせるような先輩の言動に、微かな怒りと落胆を感じた。
「違うから」
先ほどとは違い、地を這うような低い声が俺から漏れ出る。
「正義の人な先輩が好き。誰にでも平等で、手を差し伸べられる先輩が好き。誰よりもまっすぐな先輩が好き。俺のことをただの俺として見てくれる先輩が好き」
淡々と、だが、切実に俺は先輩への想いを紡ぐ。
ーーーどうか、俺の本気に応えて。
綺麗な先輩の黒髪の隙間から覗く、意志の強そうな瞳。
しかし、その瞳はこっちをまっすぐ見ることなく、恥ずかしそうに伏せられていた。
先輩の愛らしくて綺麗な顔に、まつ毛が暗い影を落としている。
それから先輩は自身の頬を両手で包んで、言いにくそうに視線を上げた。
「…千晴は勘違いしているだけだよ。私のような人が今までいなかったからそう思ってしまっただけ。親に求めるものと一緒だよ」
先輩の言葉が俺をまた暗くさせる。
俺を救うのも、俺を破滅させるのも、全部先輩だ。
「それ、本気で言ってる?」
気がつけば俺は先輩の腕を乱暴に掴んでいた。
それから傘をその辺に放り投げて、有無を言わさず、その辺の路地へと先輩を連れ込んだ。
ただでさえ暗いのに、路地へと入ったことによって、さらにその暗さが濃くなる。
空から容赦なく降り注ぐ雨を受けながら先輩を見ると、先輩は目を大きく見開き、こちらを見つめていた。
先輩の大きくて愛らしい瞳が俺に訴えている。
何故、このようなことになっているのか、と。
俺と同じように雨に打たれている先輩は、どこか色っぽくて、愛らしくて、思わず抱きしめたい衝動に駆られた。
…が、その胸元に見えた〝沢村〟という文字に、また気分が沈んだ。
「…柚子先輩」
吐き出された俺の声が、静かに路地へと響く。
焦がれるように先輩を見て、俺は先輩を壁へと追いやった。
「ち、千晴?」
そんな俺を先輩は困惑したように見つめている。
頬を赤く染め、瞳を潤ませ、その視線で俺を好きだと言っている先輩に、俺は腹が立った。
どうしてそんな顔をしているのに、アイツの彼女のままなの。
なんで自分の気持ちに気づいてくれないの。
俺は考えるよりも先に衝動のまま、先輩の口を俺の口で塞いだ。
突然俺にキスをされたことによって、先輩がまたその愛らしい目を大きく見開く。
「ち、ちは…んんっ!」
俺の名前を呼ぼうとし、開かれた先輩の口に、俺は舌を無理やり入れた。
俺に口内を蹂躙される先輩から、甘い吐息と声が漏れる。
恥ずかしそうにキツく瞼を閉じ、なされるがままの先輩だが、何とか俺の胸に両手を当て、俺から離れようと弱々しく抵抗していた。
ああ、何と愛らしいのだろうか。
先輩の一瞬一瞬があまりにもよくて、目を開けたまま、先輩を好きなようにする。
角度を変え、動きを変え、一度離れて、またキスを落とす。
満足するまで、ずっと先輩にキスの雨を降らせ続け、俺はやっと先輩を解放した。
「ち、ち、はる、」
涙目でこちらを見ている先輩の瞳には、確かに怒りがあるが、それ以上に俺への愛がある。
決して俺を突き放せない、嫌いになれないといった感情がそこにはある。
「こうやってキスしたいのも、そこの名前に嫉妬するのも、親に求める愛と一緒?」
抗えない想いを抱く先輩に、俺は怪しく笑った。
俺の最愛の人。どうか俺を選んで。
俺には柚子先輩だけだから。




