90.もう少しだけ。
その日の三限目は日本史だった。
私は椅子に姿勢よく座り、先生の話を真剣に聞きながらも、ノートをとっていた。
もちろん今の私の格好は、悠里くんの体操服だ。
胸元にある〝沢村〟と刺繍された二文字が、あまりにも眩しすぎる。
恥ずかしさ、尊さ、眩しさ、喜び。
いろいろな感情を抱えて、それでも私は平然と学校生活を送っていた。
「…で、ここはこうなったわけだ。じゃあ、質問するぞー、お前らー」
黒板の前に立ち、気だるげに喋り続けていた、30代前半くらいの男性教師、秋田先生がチョークを持ったまま、クラス中に視線を向ける。
その視線に生徒たちは、背筋を伸ばした。
うちのクラスは進学科だ。
誰が当てられても、まあ、答えられるだろう。
当然、私も、だ。
秋田先生に質問されても、すぐに答えられるように気を引き締める。
すると、たまたま秋田先生と目が合った。
「じゃあ、鉄崎…」
そこまで言って、秋田先生の視線がどこかへ移動する。
「…あ?沢村?お前、いつ沢村になったんだよ?結婚したんか?アイツと」
そして、私の胸元を見て、おかしそうに笑った。
「ち、違います!借りているだけです!」
秋田先生からのまさかの指摘に、私はガターンッ!と勢いよく席から立ち、全力で否定する。
そんな私に秋田先生は、「じゃあ、未来の沢村に質問するぞー」と、ゆるく私に質問を始めたのだった。
*****
「…はぁ」
三限目での出来事を思い出し、深いため息をつく。
四限目は移動教室なので、私は1人で廊下内を移動していた。
雪乃は何やら用事があるらしく、別行動中だ。
疲れからトボトボと歩きたい気持ちでいっぱいなのだが、そんな歩き方では鬼の風紀委員長としての威厳は守れないので、私は意識して背筋を伸ばし、歩いていた。
心はヘトヘトだが、パッと見はいつもの強そうな鬼の風紀委員長、鉄子…なはずだ。
確かな足取りで廊下内を進んでいると、今日ずっと聞こえてくる生徒たちの話題が耳に入ってきた。
「て、鉄子が悠里の体操服着てる…っ。さすが、正妻…っ」
小さく、だが、興奮気味にそう言ったのは、男子生徒だろうか。
彼に続く形で周りの生徒たちは、好き勝手にいろいろなことを言い始めた。
一応、私には聞こえないように小さな声で話す、という配慮をして。
…全部聞こえているので、あまりその意味は成してはいないが。
「千晴くんがいるのに鉄子先輩酷い…っ」
今にも泣き出してしまいそうな女子生徒の声に、
「鉄子先輩は元々悠里先輩の正妻。当然の対応だね」
当然だと頷いている様子の女子生徒の声が聞こえる。
それから、「あれは浮気?」「違うよ、公式」「どっちも鉄子先輩の彼氏」と、あることないこと好きなように生徒たちは言っていた。
んー。これは思っていた以上に深刻なのかもしれない。
生徒たちのリアクションに、呆れると同時に、頭が痛くなる。
田中の忠告はまさに必要なものだったのだ。
今、学校内では、過去最高に私がどちらの彼女なのか疑問に思われ、さらには本気で千晴と付き合っている、と思っている者も一定数いるようだった。
これでは、風紀委員長である私が率先して、風紀を乱していることになる。
一番あってはならない状況だ。
…私は正真正銘、悠里くんの彼女なのに、どうしたら、千晴も彼氏or千晴が本当の彼氏疑惑を払拭できるのか。
「…はぁ」
本日何度目かわからないため息をつき、私は視線を下へと落とした。
私は悠里くんを推しているのだ。
どちらが好きなのか、と今の生徒たちの調子で詰め寄られても、もちろん悠里くんだと即答できる。
それだけ私の彼を推す想いは絶対だ。
だからこそ、悠里くんが私の彼氏なのだ。
だが、そう考えた時、ふと、頭の中に、ふわふわの金髪が過ぎった。
推しではなく、千晴の姿が一瞬だけ現れた。
何故?
突然の千晴登場に小首を傾げる。
それから胸の辺りがムズムズする感覚に気づき、私は眉間にシワを寄せた。
最近、こういうことが多い。
突然来るこの変な感覚はなんだ?やはり病気か?
「柚子」
うんうんと考える私に、後ろから誰かが声をかける。
このかっこ良すぎるイケボは、間違いなく悠里くんだ。
足を止めて、振り向けば、そこにはやはり悠里くんがいた。
窓から射す太陽の光を浴びて、キラキラと輝くサラサラの黒髪。
そこから覗く、整ったかっこ良すぎる顔。
私と目が合い、嬉しそうに細められた悠里くんの瞳に、先ほどまでの些細な悩みがぶっ飛んだ。
な、なんと眩しい存在なのだろうか。
世界の中心は彼であり、太陽の光は彼を照らすためのスポットライトだ。
悠里くんの登場に、私の思考はすっかり悠里くんに奪われてしまった。
「柚子も移動教室?」
自然と私の横に並び、歩き始めた悠里くんと、私も共に歩き始める。
「うん。悠里くんも?」
「うん、俺も。どこ行くの?よかったら一緒に行かない?」
「…う、うんっ」
悠里くんの提案に、私は思わず破顔した。
推しと一緒に少しでもいられるなんて、最高すぎる。
それから私たちは改めて一緒に移動を始めた。
どうやら悠里くんが向かっている教室と私が向かっている教室は近いらしい。
「だから確認してみたんだけど、違ったんだよね」
他愛のない会話の中で、悠里くんがおかしそうに笑う。
その姿があまりにも尊くて、私は瞳を細めながらも、何とか頷いた。
ああ、悠里くんという存在を産んでくれたお母様に感謝。
そのお母様を産んでくれたお母様にも感謝。
つまり、全てに感謝。
心の中で、手を合わせながらも、表ではいつも通りの表情を浮かべる。
そうこうしているうちに、私の教室の前までたどり着いた。
もう別れの時だ。
離れ難いと思いながらも、話を終えようと口を開いたが、私から言葉が発せられることはなかった。
悠里くんが変わらず、言葉を紡ぎ始めたからだ。
「この前、いい感じのカフェ見つけてさ。柚子と行きたいな、て思って。だからまた行かない?」
「う、うん。行きたい」
「やった。ありがとう」
柔らかく微笑む悠里くんに、ぎこちなく私は頷く。
とても嬉しいお誘いなのだが、何故、悠里くんは未だにここにいてくれるのだろうか。
私から離れようとせず、教室の前で話を続ける悠里くんに、私は首を捻った。
でも、まあ、いっか!
少しでも一緒にいられるのは嬉しいし!
「…やっぱ、いいね」
話の途中で突然、悠里くんが嬉しそうに瞳を細め、こちらをじっと見つめる。
「何が?」
私はその視線の意味がわからず、悠里くんに笑顔で問いかけた。
よくわからないが、悠里くんが嬉しいのなら、私も嬉しい。
「柚子、俺の体操服、着てくれてるじゃん。だから、柚子がちゃんと俺の彼女だって感じがしていいな、て」
ふわりと微笑む悠里くんの笑顔があまりにも眩しく、紡がれた言葉があまりにも甘く、どくん、と心臓が跳ねる。
は、反則級のかっこよさ。
我が校のバスケ部の王子様の枠に収めてしまうのは、もったいない。
日本の…いや、地球の王子様にすべきだ。
尊すぎる存在にたじたじになっていると、悠里くんはそんな私なんてお構いなしに、私の左手を優しく取り、薬指を撫でた。
「校則さえなかったら、ここに毎日柚子は俺があげた指輪付けてくれてたのかな」
残念そうに、けれど、どこか物欲しげに、悠里くんが視線を伏せる。
長いまつ毛が整った顔に影を作る様は、あまりにも甘く、色っぽかった。
そんな悠里くんの姿に、私の心臓は今にも破裂しそうだった。
バクバクと聞いたことのない音が嫌というほど聞こえてくる。
思考が停止し、頭の中は悠里くんでいっぱいだ。
まさに今、悠里くんによって意識が沈みそうになった、その時。
失いかけた私の意識を戻すように、予鈴が鳴った。
「…あ、もうさすがに行かないとだね。それじゃあまた後で、柚子」
離れ難そうに悠里くんが私の左手を離し、私から離れていく。
私はそんな悠里くんに「…う、うん、また」と、何とか返事を返すと、離れていく悠里くんの背中を、悠里くんが教室へと入るその瞬間まで見届けた。
教室へ入る際、悠里くんが再びこちらに視線を向けたことによって、再び目が合い、私の喜びが頂点に達したことは言うまでもない。
私と目の合った悠里くんは、それはそれはもう愛おしげに口元を緩め、こちらに軽く手を振ってくれた。
…私の推し、眩しくて、尊くて、かっこよくて、優しくて、メロくて、とにかく推すしかない要素がありすぎて困る。




