82.雅な遊戯。
千夏ちゃんの手によって手際よく混ぜられた生地。
それをお情けで私が冷蔵庫へと入れたところで、生チョコタルト作りは、一旦中断となった。
ここから約1時間ほど冷蔵庫で生地を寝かせるらしい。
この約1時間、私たちは特に何もすることがない。
そこで何か暇を潰そうと千夏ちゃんから提案されたのが、軽く楽器を触る、だった。
何と雅な暇つぶしなのだろうか。
そう思いながらも、豪邸内を移動し、やってきたのは、シックでおしゃれな雰囲気の楽器専用の部屋だった。
部屋の中心にはL字の大きなソファがあり、その前にはテーブルがある。
壁際には、学校で見るものよりも大きなピアノがあり、大きな棚には飾るように、ヴァイオリンやフルート、見たことのない楽器などが飾られていた。
目に映るもの全てが洗練された美しさのある高級品で、圧倒されてしまう。
お金持ち、すごい。
ぱちぱちと何度もまばたきをしながら立ち尽くしていると、私の視界にヴァイオリンを持つ千夏ちゃんが入った。
ここに来るまでに千夏ちゃんから聞いた話だが、千夏ちゃんは幼少期から現在まで、プロの方も指導している先生からヴァイオリンを習っているらしい。
しかも千夏ちゃんはさまざまな大会で賞を受賞している実力者で、海外でもその腕を披露する機会があるのだとか。
そんなすごい千夏ちゃんは慣れた手つきで、ヴァイオリンの弦をゆっくりと弾き始めた。
千夏ちゃんの複雑な動きと共に、凛とした美しい音色が部屋中に広がる。
「…!」
聞こえてきた美しい旋律に私は感動し、一度目を見開くと、聴き入るようにその瞳を閉じた。
音楽の良し悪しは残念ながら私の耳ではよくわからないが、それでも千夏ちゃんが奏でる音楽が美しいのだということは、はっきりとわかる。
心地良さに身を委ね、千夏ちゃんの音楽に耳を傾けていると、ふと、ここにいる千晴の姿が思い浮かんだ。
千夏ちゃんがあれだけヴァイオリンを上手に弾けるのなら、千晴ももしかしたら何かしらの楽器を上手く扱えるのでは?
同じ華守のご兄妹なのだから。
考え出すと気になり、千晴の方へと視線を向けると、千晴は大きなピアノに触れ、ポーン、と音を鳴らしていた。
「千晴、ピアノできるの?」
千晴に近づき、そう問いかけてみる。
すると、千晴は無表情のまま淡々と頷いた。
「うん、まぁ。6歳くらいまでは習ってたから」
「へぇ」
千晴の返答に私の中の興味がどんどん膨らんでいく。
6歳までとはいえ、千晴なら千夏ちゃんのように美しい旋律を奏でそうだ。
「ちょっと弾いてみてよ、千晴」
「…んー。まぁ、別にいいけど」
興味津々で千晴を見ると、千晴は気だるげに返事をし、ピアノの前にある椅子を引いた。
ゆっくりと椅子に腰掛け、千晴が視線を伏せる。
長いまつ毛が千晴の綺麗な顔に影を落とし、その美しい瞬間に私は息を呑んだ。
大きなピアノと美しい千晴。合わないわけがない組み合わせだ。
まるで絵画のような美しさがそこにはある。
「先輩、聴きたい曲とかある?」
「え、う、うーん…」
突然千晴にリクエストを聞かれて、私は思わず考え込んだ。
きっとあの見るからに高そうなピアノで演奏するなら、クラシックがいいのだろうが、それがなかなか思い浮かばない。
考えること、数十秒。
私の頭の中に、やっとあるタイトルが思い浮かんだ。
「…エ、エリーゼのために、とか?」
何とか出てきたクラシックのタイトルに、千晴は「あー。あれね」と淡々と頷く。
それから軽く指を振って、そっとピアノの鍵盤に触れた。
千晴が柔らかく鍵盤を押す。
そこから一気にスピードを持って動き始めた指は、詰まることなく滑らかに動き続け、美しい音色を奏で始めた。
「…」
…綺麗。
千晴から奏でられる旋律に、私は一瞬で引き込まれた。
窓から射す太陽の光を浴びて、キラキラと輝くふわふわの金髪。
そこから覗く美しい顔に、長いまつ毛。
まるで作り物のような美しさを持つ千晴から奏でられるピアノは繊細で、一つの芸術品を見ているようだった。
その姿に、トクンッと静かに心臓が跳ねる。
ふわふわと地に足がついていないような、そんな不思議な感覚がゆっくりと私の中に広がっていく。
この感覚は一体、なんなのか。
何故、こんなにも落ち着かないのか。
冷蔵庫で寝かせている生チョコタルトの生地の安否でも気になっているのか。
どこか落ち着かない気持ちで、けれども心地よく千晴の演奏を聴いていると、その声は聞こえてきた。
「やっぱり、お兄様はお義姉様を愛しているのね。あのお兄様が誰かの為にわざわざ何かをするはずがないもの」
いつの間にか私の近くにいた千夏ちゃんが、納得したように力強く何度も頷いている。
そしてそのまま、千晴の横に移動し、「お兄様、わたくしもご一緒していいかしら?」と、ヴァイオリンを構えた。
そんな千夏ちゃんに千晴は無言で頷き、華守兄妹による、ピアノとヴァイオリンのセッションが始まった。
千晴のピアノに千夏ちゃんのヴァイオリンも加わり、より一層、美しい旋律がこの部屋を優しく包み込む。
美しい2人と奏でられる音色に、私は感動した。
生地の安否を気にしている場合ではない。
この素晴らしい瞬間を一瞬たりとも見逃さないようにしなければ。
しばらく2人の美しい演奏は続き、やがてゆっくりと終わりを迎えた。
「…す、すごい。ありがとう、2人とも」
演奏を終えた2人に、私はその場で大きな拍手をする。
たった1人しかいないので、どんなに頑張っても小さな拍手になってしまうが、本当はもっと大歓声を2人に聞かせたいくらい、素晴らしい演奏だった。
ずっとパチパチと拍手をする私に、千夏ちゃんは「まあ、突然ね」と誇らしげに、千晴は「ふふ、どういたしまして」と嬉しそうにその綺麗な瞳を細めた。
「そういえば、庶民も授業でピアノを習うと聞いたわ。お義姉様も何か弾けるのではなくって?」
この暖かい雰囲気の中、ふと、千夏ちゃんがそんなことを言う。するとそれに千晴も反応した。
「え。先輩の演奏とかめっちゃ聴きたいんだけど」
無表情だが、興味津々、といった様子で千晴が私を見る。
急に集まった2人の視線に私は思った。
ーーーー勘弁してくれ、と。
2人のプロ顔負けの演奏の後に、とてもじゃないが何かを披露することなど到底できない。
ただただ恥を晒すだけだ。
「大変申し訳ないけど、私、楽器は…」
2人の期待には応えられない、とさっさと首を横に振ろうとした。
しかし、2人の表情に私はそこで言葉を詰まらせた。
千夏ちゃんも千晴もキラキラとした目でこちらを見ていたからだ。
「庶民は一体どんな演奏を習うのかしら?某有名ピアノ演奏者も庶民出身で、幼少期の体験が今のピアノ表現に活かされているらしいわ。お義姉様ほどのお人なら、きっと素晴らしい音色を奏でるのでしょうね」
期待に満ちた目でこちらを見る千夏ちゃん。
「先輩ならきっとどんな演奏でもかわいいね。楽しみ」
からかい半分で私を面白そうに見る千晴。
この重すぎる期待の視線が千晴だけなら、問答無用で切り捨てるのだが、千夏ちゃんのあの視線は本気だ。
千夏ちゃんにはいろいろとお世話になっていること、今日も至れり尽くせりなことを考えると、千夏ちゃんのことを無碍にはできない。
「…わ、わかった。弾くよ」
2人に力なく頷いて、ピアノの元へと向かう。
それから千晴に場所を譲ってもらい、私はピアノと向き合った。
正直、私が覚えていて、楽譜なしで弾ける曲なんて、一曲しかない。
「…ふぅ」
両手をゆっくりと鍵盤に乗せ、私は一息つく。
そして、覚えている通りに、指を動かし始めた。
リズムよく私から奏でられ始めた曲は、〝猫ふんじゃった〟だ。
あの素晴らしすぎる演奏の後に、大変恥ずかしいが、私は無心で指を動かした。
その間、千晴と千夏ちゃんは何も言わず、ただただ私の演奏を聴いてくれていた。
…すごく変な空気になっているのはきっと気のせいではないはずだ。
やっと演奏を終えた私に、まず口を開いたのは千夏ちゃんだった。
「…庶民って、そこまでしか習えないのね。何もないからこその伸び代があるのね」
神妙な顔つきで、興味深そうに呟いた千夏ちゃんに、恥ずかしさがピークに達する。
いっそのこと、関心を持つのではなく、笑って欲しかった。「庶民のピアノは可愛らしいですわね」と皮肉を込めて言ってもらいたかった。
そう言われても仕方のない演奏だったし、そうだろうとしか思えないのに。
「先輩やっぱかわいすぎ。反則じゃん。弾き語りしてもいいんじゃない?てかもう一回して?今度は動画撮るから」
真剣な千夏ちゃんとは違い、千晴は何とも愉快そうだ。
全く違う2人のリアクションに、私はわなわなと恥ずかしさや悔しさで震えた。
2人とも違うベクトルでとても嫌なリアクションだ。




